近未来建築診断士 播磨 第4話 Part3-1

近未来建築診断士 播磨

第4話 無自覚な従僕たちのマンション
Part.3『資料確認』 -1

【前話】

 明くる日。

 春日居燕はキャスター椅子を滑らせて大きく伸びをした。見れば、マンションの報告書を全て見終わったらしい。そろそろ昼時だと言いながら、しかし浮かない顔でこちらを見返してきた。

「『問題なし』ばっかりだね。これ」

 ストレッチしながらチェックリストのホログラムを投げてくる。それを受け取ってざっと眺めると、確かにその通りだった。A4サイズ1ページ程度にまとめられた点検チェックリストは全て『問題なし』と記されている。

「これじゃあ診断する意味ないかも。そもそもこのマンション、管理システムがばっちりあるんでしょ?調査なんてムダって思うのもわかるかも」
「…どうかな」

 チェックリストの紐付け情報を、球状のホログラフ作業場に広げていく。しかしその量は思ったよりずっと少ない。せいぜいA4用紙30枚程度だ。

「問題なしなのはいいんだけど、その根拠がはっきりしない」

 こちらの肩越しに手元を覗く春日居へ資料の一部を指差す。コンクリート壁内に、非接触型コンセントと併設されたセンサーの記録だ。

「矩体監視装置が測定したコンクリートの劣化報告書だ。結果は問題なし。けど根拠になるデータの紐づけがないんだ」

 コンクリートの劣化調査であれば、強度低下の原因になる中性化、すなわち矩体の酸性化レポートが必ず出てくる。しかしこの報告書にそれはない。
 他にもひび割れや温度変化、地震による設計当初からの変形履歴。検査項目自体は十分だが、そういったはっきりと数値に残る結果が抜けている。

「なーる。言われてみれば根拠が全然ないね」
「建物管理システム自体もよくわからない。診断は国家認定された方法を採用しているのか?診断プログラムのアップデートは?そういった基礎情報も出ていない」
「『問題なし』って言い張ってるだけってことか」
「町会長さんが困ってたことの一つにこれも含まれてるだろうな。ぼくだったらこの報告書は受け取れないって言って返す」

 だが50年間、大きな問題もなく年を重ねていることは事実。この規模の建物だと定期法定点検もある。そこを合格しているということは、この報告書もきっと問題なく作られているんだろう。ぼく達に提供されたものが意図的に不完全な状態にされていることも考えられる。

「ともかくデータ不足を調査の時に報告しよう」

 今回の契約は、マンションの手持ち情報を全て閲覧していいということになっている。
 むこうの思惑がどうあれ、こちらがデータの不足を申し立てれば対応してもらえる。いまはここまでだ。

 ちょうど小腹も空いてきた。パスタでも茹でようかと立ち上がると、思案顔の春日居の顔が目の前にあった。

「ヤモリ。建物が人を変えることってあるかな」

 彼女は腕組みしたままつぶやく。

「じつはこの前の帰りに町会長さんが話してくれたんだ。雑談の軽いノリで。会長さんには幼なじみがいて、ずっとあの辺に住んでた。10年くらい前に家を引き払って、アメンテリジェンスに引っ越したって」

 すぐにホロキーボードを呼びだし、春日居の話をタイプする。

「いい人なんだって。割と口数は少なめで、大人しくて。それが」
「マンションに住みつづけるうちに変わってしまったと」

 彼女はうなずいてマンションの3Dホログラフを呼び出す。それを空中でゆっくりと回した。

「芯は変わらないって、会長さんは言ってた。でもマンションのことを悪く言うとすごく怒るんだって。そうとうびっくりしたらしい」

 そんなことを話していたのか。短時間でよくそこまで気に入られたものだ。それとも、町会長の胸に貯まっていたものがちょうど吹き出した時に居合わせたか。

「先生なら、そういうこともあるって言ったかもね」
「あるんだ」
「建物はいつも人に触れる。その作り方次第で、人の心に良い影響を与えることも、その逆もきっとできる」

 先生でなくても、過去からの統計で概ねわかっていることだ。人間環境世界基準(HEWS)にまとめられている情報を呼び出し、春日居の目の高さに浮かべた。人の心理に悪影響を与える住環境の事例がまとめられているそれを眺め、彼女は首を傾げた。

「これのどれかにあの建物が当てはまれば、悪影響もありうると」
「一個じゃ無理だろうな。いくつもの条件が重なって、はじめて人に影響が出始める。さらに、そんな住環境は設計できない」
「どうして」
「HEWSが制定されてる。建築確認申請のチェックでこれに違反する住空間は作れないのが原則だ」
「じゃあありえないじゃん。建物が人を変えることなんて」
「新しい建物ならね」

 3Dマンションに、事前に受け取った空き部屋情報を重ねる。建物の中程より下が8件、ちかちかと光った。

「古い建物はチェックが行き届いていない恐れがあるし、予想できない劣化や住人の暮らし方で、結果的にHEWSを外れるケースだってある。それは調査してみなきゃわからない」
「結局、現場を見なきゃってことか」
「そういうこと」

 ■

【続く】

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