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SNSのない時代から優れていた徳川家康の恐るべきアピール力! 殿村美樹『武将たちのPR戦略 - すごすぎる! -』本文試し読み

新しい企画を始めたい。でもプレゼンの自信がない…

そんなビジネスマン必見!!

「情報をどうやって伝えるか」が全てではない。
現代に通じるPR力やコミュニケーション能力を偉人たちから学ぶ!

今回は『武将たちのPR戦略 - すごすぎる! -』(著:殿村美樹)の試し読みを公開します!

(書影はAmazon Kindleにリンクしています)

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はじめに

四〇〇年前のPRに「成功の秘密」が隠されている

この本のテーマは、以下の二点に要約することができます。

 Ⅰ 武将たちから学ぶPR術
 Ⅱ 歴史をPRに活かす術

 武将たちから学ぶPR術と聞いて「なんで?」と思う方も少なくないかもしれません。
 たとえば、日本でテレビ放送が始まったのは一九五〇年代。インターネットが一般に普及したのは一九九〇年代に入ってからです。そういったメディアの力を利用して、自分たちの利益につながる情報を発信・拡散することだけがPRの在り方だと認識していれば、「テレビもインターネットもなかった時代からなにを学ぶのか?」と疑問に思うのも当然のことです。
 また、商品やサービスの売り上げ向上こそがPRの目的だといった認識を持っている方も「いまのように商品経済が発達していなかった時代に、なにをPRしたのか?」と首を傾げていることでしょう。
 じつは、そういった認識はいずれも誤りで、PRという活動のごく一部を捉えた見方に過ぎません。
 本書では、特に徳川家康(一五四三~一六一六年)、北政所(豊臣秀吉の正室・ねね/一五四二頃~一六二四年)、宮本武蔵(一五八四頃~一六四五年)を「日本史におけるPRの達人」として取り上げますが、各章のⅠ(武将たちから学ぶPR術)のパートでは彼らが見せた手法を紹介しながらPRの本質に迫っていきたいと思います。
 そして、歴史上のPRの達人たちが示してくれたPRの本質を参考にしながら、彼らが取ったPR戦略を現代のPRに活かす手法を紹介するのがⅡ(歴史をPRに活かす術)のパートです。つまり、過去から学び、その教訓を現代にどう活かすかを考えていきます。
 ただし、ここで言う「PRの本質」は、わたしがこれまでの実績を通じて培ってきたオリジナルの理論が色濃く反映されたものです。現在、日本で認識されているPRの多くは「情報をどうやって伝えるか」に主眼を置いています。当然、そこでは最先端のデジタル・メディアやマスメディアを駆使した情報流通こそがPRの本質と捉えられていることになります。
 よって、わたしが実践しているPRの手法は決して主流派ではないということになります。そして、現在日本で行われているPRの主流というのは、言い換えれば米国式のPRと言えるでしょう。それは、多くの予算と人手を投下して展開するPRです。「あまり予算がないけど、効果的なPRをしたい」と考えている方は、どうぞ、この本を最後までお読みください。あなたの求める効果を生むためのヒントが、この本には記されています。
 わたしは、これまで、予算を含めて制約の多い案件、それでいながら確実な効果を求められる仕事に多く携わってきました。そういったキャリアはわたしの財産であり、誇りです。主に地域の振興に関わる仕事ですが、これまでに「ひこにゃん」「今年の漢字」「佐世保バーガー」「うどん県」など大きなムーブメントを作ることにも成功しました。そして、大きな成功につながった案件のなかにも、最初にクライアントから「なにをPRすれば人が来ますか?」と問いかけられたケースが少なくありません。
 なにをPRするのか。このテーマは、多くの案件でわたしの仕事のファースト・ステップとなってきました。大半のPR活動において「情報をどうやって伝えるか」に主眼を置いている同じ時代に、わたしは「なにを伝えるか」をつねに考えてきたことになります。そもそもの出発点が、わたしの仕事と王道とされるPR活動とは、根本的に異なっているのです。

日本の歴史と、グローバリズムの本当の関係

 では、「なにをPRすればいいのか──」からお話しします。
 地域振興を目的としたPRを考える際、わたしがつねに手がかりとしてきたのは、それぞれの地域の歴史です。こう言うと、また「グローバリズムの時代に、どうして地域の歴史なんだ?」という声が聞こえてきそうです。そう考える方は、グローバリズムと同時進行でなにが起きているかをご存知ではない。あるいは、グローバリズムの正体を理解されていない、と言えるでしょう。
 たとえば「シチリア料理」というキーワードでネット検索をすると、じつに多くのレストランがヒットします。シチリアは言うまでもなくイタリア南部、地中海に浮かぶ島ですが、そこの郷土料理も少し前までは「イタリア料理」という枠組みのなかで一括りにされてきました。それが、いま、シチリア料理として細分化され、よりローカルな色彩を強めることで注目を集めているのです。
 ハンバーガーの世界でも、これまでは「米国の食べもの」と大雑把に考えられてきたものが、やはりハワイ、テキサスといった細分化された単位で個性を主張することがトレンドになっています。
 グローバリズムによって存在が危うくなっているのは、固有の歴史を持ち、伝統的生活を営み続けているローカル・コミュニティではなく、十九世紀初頭の「ナポレオン戦争」によって欧州から世界に広がった「国民国家」の概念なのです。
 マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが主演のイタリア映画『ひまわり』(一九七〇年/ヴィットリオ・デ・シーカ監督)は、マストロヤンニ演じるミラノ生まれの夫とローレン演じるナポリ生まれの妻が新婚旅行先でオムレツを作る際に、バターで焼くかオリーブ油で焼くかで揉めるシーンから始まります。ミラノもナポリも同じイタリアですが、北方のミラノはバター、南方のナポリはオリーブ油といった具合に料理文化の根底からして異なっています。現在のイタリアは、一九世紀の後半まで小国の集合体に過ぎず、いわゆる「イタリア料理」などというものは、そもそも存在していないのです。
 国民国家の概念が揺らいでいることは、グローバリズムの進行とシンクロするようにスコットランド(イギリス)、カタルーニャ(スペイン)、ハワイ(米国)などの諸地域で独立を求める運動が高まってきていることからも明らかでしょう。歴史についても、日本史は世界史の一部であり、また、その日本史は個々の郷土史の集積として成立しているといった認識がグローバリズムの時代に求められる捉え方です。
 「歴史をPRに活かす術」というテーマの必然性を語る上では、ここまでの説明だけでは、まだ不十分でしょう。グローバリズムの進行によって、従来の国民国家という単位よりも細分化されたローカリズムが重要視される時代になった。それは納得していただけたと思いますが、問題は「なぜ歴史がビジネスや現代のコミュニケーションに役立つのか?」ということです。
 これを説明するには、わたしの失敗談を紹介するのが手っ取り早く、もっとも効果的だと思います。

○○県のA市とB市は仲がわるい

 地域振興につながるPRを主に手がけてきたので、わたしにとってのクライアントは県庁の観光課などという案件も少なくありませんでした。しかし、この「県」という単位が、またクセモノなのです。
 あるとき、信州大学に呼ばれて臨時の講義のような形でお話しさせていただいたことがありました。講義が終わって質疑応答の時間になると、当然、PRプロデューサーを名乗っているわたしを呼んでいただいたのだから「地域振興のために、なにをPRすればいいでしょう?」という質問をいただきました。その質問に対し、わたしは「おやき」を打ち出していこうと答えたのですが、会場がザワザワと不穏な空気に支配されていったのを憶えています。来場者のひとりは「えッ!? おやきィ?」という鋭い声を上げました。
 地域振興のきっかけとしてグルメ、地元で親しまれている伝統的食べものを取り上げるのは、ある意味、地域PRの常道です。わたしも、これまで、数々の地域グルメをフックに使ってPRを成功させてきました。香川県を「うどん県」としてPRしたケースなどは、その典型と言えるでしょう。しかし、この信州大学での講演では、わたしは長野という県の成り立ち、つまり郷土史について、あまりにも勉強不足でした。
 そして、ここで言っておきたいのは、わたしと同じような失敗は、たとえば日本各地を巡るセールスの仕事をしているような方なら何度も体験しているはずだということです。
 現在の長野県は、江戸時代には一一の藩と幕府直轄の天領によって構成されていた地域です。明治維新後、一八七一年の廃藩置県を経て、北部の長野県(当時)と南部の筑摩県という二県体制となり、一八七六年に筑摩県庁が焼失したのを機に現在の長野県に統一されました。
 かつての長野県・筑摩県というのは、それぞれ現在の長野市・松本市を中心とした地域です。長野市には日本を代表する名刹・善光寺があります。いっぽう、松本市には商業の中心地を担ってきたプライドがあり、現在も旧筑摩県のエリアにある諏訪湖の周辺にはセイコーエプソンの本社が置かれるなど、主に精密機械工業の分野で日本でも重要な位置を占めています。一八七六年までの二県体制は、現在も長野市と松本市の対抗意識という形で残っているのです。
 長野県議会では一九四八年に、一度は旧長野・筑摩県の二県体制に戻す分県案が可決されています。そのとき、議会を傍聴していた県民たちが県歌『信濃の国』の大合唱を始め、議場にいた全員が泣き、決議したばかりの分県案を廃案にしたといいます。もちろん、この知識はあとになって学習したもので、信州大学で講演したときには知らなかったことです。だから、わたしは「おやき」と言った。たしかに「おやき」は、長野県を代表する郷土グルメですが、旧筑摩県エリアでは伝統的に焼いた「おやき」が主流で、旧長野県エリアでは蒸したものが主流。つまり、「おやき」で県外から観光客を呼ぼうとする場合、どちらのものを打ち出すかで、県内の二大勢力が揉めること必至の〝要注意アイテム〟だったのです。
 ちなみに、全国にある国立大学で現在の県名や市名と異なる名称を冠しているのは、沖縄の琉球大学と長野の信州大学だけです。その理由は、ここまで説明した通りで、現在の信州大学にも長野キャンパス・松本キャンパスがあります。
 もし、わたしが長野県の郷土史をもっと知っていれば「おやき」とは答えず、県の分裂を食い止めた『信濃の国』を挙げて会場の全員から拍手を浴びていたかもしれません。ある商品に関して「長野市では売れているのに、なぜ松本市では売れないのか?」とボヤいている方に言いたい。長野で売れていると聞けば聞くほど、松本の人々の心情に「だったら買いたくない」という意識が芽生えるケースもあるのです。
 もしかしたら、あなたは、それに気づいていないだけかもしれません。

カミソリ後藤田の歴史活用術

 こういった歴史に対する認識を、特定の地域だけでなく全国レベルで網羅して、自分の仕事に活用した人物として後藤田正晴さん(一九一四~二〇〇五年)が挙げられるでしょう。内閣官房長官、法務大臣などを歴任し、「カミソリ後藤田」の異名をとった有能伶俐の実務型政治家でした。
 国政を担う政治家の大きな仕事のひとつは、国内各地域間の利害調整にあります。たとえば長野県で万国博覧会を開催するとして、そのメイン会場を長野市にするか松本市にするかで大揉めに揉めることは、先に述べた通り明らかです。わたしは信州大学に呼ばれたときに地元の歴史を勉強不足でしたが、カミソリ後藤田は、そういった地域間の利害対立の背景にある郷土史を、すべて事前に頭に入れていたといいます。
 彼は政治家に転身する以前(一九七六年の衆院選で初当選)、戦前からの旧内務省の官僚でした。この内務省というのは、どのような官庁だったか。現在の都道府県知事は選挙によって選ばれる公選制ですが、一九四六年までは中央政府によって任命される官選制で、その決定権を握っていたのが内務省だったのです。
 カミソリ後藤田は東大法学部を卒業後、一九三九年に入省しましたが、その動機について「四七の道府県すべてを握っていたから」「各道府県庁を通じて、それぞれの地域に住む国民の生の声に接することができるから」といったコメントを残しています。
 内務官僚の仕事は、本省勤務の場合でも各自に担当の道府県が割り当てられていたし、カミソリ後藤田は戦前には富山県庁、終戦直後には神奈川県庁に勤務した経験もあります。こういった業務を通じて、彼は日本全国の郷土史に精通していったのでしょう。また、内務省がGHQの指導によって解体されたのち、一九五九年からの三年間は自治庁(一九六○年に省へ昇格)の税務局長を務めましたが、当時の仕事を通じて次のような成長を自覚したといいます。
 「地方から中央を見る目が養われた」
 当時、一九六〇年前後といえば、日本でも世界でもまだ「グローバリズムの時代だ」といった声は聞こえてきませんでしたが、わたしは、この「地方から中央を見る目」というのが現代のグローバル社会に求められるものだと考えています。ヒト・モノ・カネが国境を越えて行き交う社会では、自分が生活する土地にしっかりと根づいた確固たるアイデンティティが不可欠だからです。 
 カミソリ後藤田なら、信州大学に呼ばれて講演しても、わたしのような間違いは犯さなかったはずです。そして政治家に転身後も、国政の舞台で官僚時代に培った郷土史に対する認識・教養を活かし、主に地域間の利害調整を通じて卓越した手腕を発揮したのです。
 長野市と松本市のようなライバル関係・対抗意識は、長野県だけでなく全国各都道府県のさらに細分化された地域にも存在しています。それらを、わたしの経験に照らし合わせて紹介しながら「歴史をPRに活かす術」というⅡのテーマを具体的に解説していきたいと思います。

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第一章 徳川家康の恐るべきブランディング

Ⅰ 徳川家康から学ぶPR術


戦国武将たちのプレゼンテーション

 さて、テレビもインターネットもなかった時代、それどころか電気すら通っていなかった四〇〇年前に実践されていたPRとは、どのようなものだったのか。
 わたしは、これまでの著書で「PRは単に商品の購買に向けて人を動かすだけのものではない」ということを繰り返し述べ伝えてきました。自己PRという言葉を皆さんも耳にしたことがあるでしょう。これも、商品のセールス・プロモーションには関係していなくても、立派なPR活動です。
 自分の魅力をアピールし、自分が伝える情報は相手にとってもメリットとなることを理解させて仲間に加え、自分の思い描くプロジェクトが実現しやすい環境を整備していく。たとえば、社内の企画会議で自分の立案したアイデアが通るように根回しすることもPR。というよりも、PRの本質を見極め、効果的な展開方法を身につけることで、そういったプレゼンテーション能力も向上していくのです。
 具体的に、社内の企画会議を例にとって「メディアを使わないPR術」を考えてみたいと思います。あなたには、以前から温めてきた企画があります。もちろん、それは会社全体の利益に貢献するプロジェクトだという自負が、あなたにはあるでしょう。そして今日、一〇人の役員たちの前で、そのプランをプレゼンテーションします。
 一〇人いる役員の内、六人が「よし、それでいこう」と言えば、あなたの企画が実現に向けて動き出す可能性は大。大切なことは、こういったプレゼンテーションの際に、吟味役が一〇人いるからといって、一〇人すべてを相手にしないことです。一〇人全員を相手にするということは、あなたの自己PRが「役員会」という漠然とした対象に向けられ、的が絞れていないことを意味します。
 漠然と一〇人全員をプレゼンテーションの対象としていたのでは、下手をすれば過半数の賛同すら得られない可能性があります。あなたの企画が実現に向けて動き始めるために必要な仲間は、一〇人全員ではなく過半数の六人なのです。それは誰と誰なのか、具体的に想定して働きかけることができるかどうかが、ここで問われるPR術です。そして、こうやって役員会の構造を個人のレベルまで掘り下げて分析する作業を、わたしは「見える化」と呼んでいます。見える化は、すべてのPR戦略の第一歩となります。先人たち、特に戦国時代を生きた武将たちは、生き残りを賭けたPRを緻密な見える化から始めていったのです。
 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった名将たちも、自分の軍勢だけの力で勢力を拡大していったわけではありません。戦国時代、いや、中国の『三国志』の時代から、合戦の勝敗を分けてきたのは「どの武将が誰に味方するか」といった武将間の同盟関係でした。強力な武将と同盟関係を結び、援軍を仰ぐことが叶えば合戦に勝利し、そうでなければ敗れる。力がものを言った戦国の世も、民主主義の時代も、政治の世界が「数の論理」で動くのは変わらないのかもしれません。
 そして、勝敗を分ける同盟関係を有利に結ぶために、武将たちは自分の娘を相手方に嫁がせるといった政略結婚も駆使しました。相手の娘が自分の家中にいれば、一方的に同盟関係を破棄して背後から斬りつけられるような裏切り行為はないだろうという担保のようなもので、嫁いだ娘は実質的に人質でした。しかし、べつの武将との同盟関係が有利と考えれば、そういった人質を見殺しにしてまで、勝利のために寝返る。忠義を絶対の価値基準とするいわゆる「武士道」が確立されていくのは、平和な江戸時代に入ってからのことです。

関ヶ原の戦い、勝敗の決め手は家康の「見える化」戦略

 一五九八年、戦国の世で天下統一を果たし、「太閤」と呼ばれた豊臣秀吉が薨去しました。豊臣家の後継者である秀頼は、このとき満五歳になったばかり。天下の舵取りを任せるには幼過ぎるため、豊臣家では秀頼が成長するまでの期間、五大老と呼ばれた有力諸侯(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)による集団指導体制を採用することを決めます。ところが、この五大老のひとりであった徳川家康が、まず火種を作り、一触即発の事態へと発展していきます。これが、関ヶ原の戦いの端緒と言えます。
 豊臣秀吉の遺書とも言える「御掟」(一五九五年発布)には、許可なしに各武将間で婚姻関係を結ぶことを禁じる旨が記されていました。前述した自己PRを武将たちが勝手におこない、仲間を増やして政権を転覆させることを未然に防ぐ意図があったことは間違いありません。が、家康は秀吉の死後、なんと五件もの政略結婚を縁組みしています。これらの婚姻によって家康が同盟関係を結んだ武将は伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政、加藤清正、黒田長政ですが、なかでも豊臣家から厳しく問題視されたのが、伊達政宗の長女と家康の六男・松平忠輝との婚約(一五九九年)でした。
 伊達政宗は独眼竜の異名も取った東北最強の武将。そこと五大老のひとりである家康が同盟関係を結んだとなれば、豊臣体制を脅かす勢力となることは容易に想像できるし、そもそも秀吉の遺言を完全に無視した所業です。
 そのため、五大老のなかでも重鎮の地位にあった前田利家と家康の間で武力衝突寸前の事態となりました。このときは家康が誓書を差し出したことで決着しましたが、いっぽうで家康は豊臣体制のなかに自分以外、また自分と同盟関係を結んだ武将以外にも不満分子がいることを見逃してはいませんでした。当時の政権内(それも豊臣家との同盟関係によって成り立っていました)に、突けば崩れる脆弱な部分があるのを鋭く看破していたのです。
 そもそも、前田利家との一触即発の危機を招いた家康の政略婚姻の相手も、福島正則は秀吉の実母・なかの甥、加藤清正の母も、なかの従姉妹にあたります。側近を近親者で固める傾向の強かった秀吉の築いた体制に対して、明らかな切り崩しを狙ったものでした。

キーマン・小早川秀秋を炙り出す

 そして、晩年の秀吉が狂気という見方もされるほどの異常な執念を燃やした文禄の役(一五九二~九三年)、慶長の役(一五九七~九八年)という二度にわたる朝鮮出兵に関連する形で、豊臣体制内には遺恨が燻っていたことも家康は見逃しませんでした。
 なかでも、慶長の役で朝鮮半島に渡り、秀吉からの再三の帰国命令によって日本に戻ったあと、筑前(現在の福岡県西部)から越前(現在の福井県嶺北地方と岐阜県の一部)に転封された小早川秀秋は、大きな不満を溜め込んでいたに違いありません。
 石高・三〇万七〇〇〇石の筑前から、わずか一二万石の越前への国替えは、明らかな左遷と言っていいもの。しかも、秀秋の所領であった筑前は、その後、太閤蔵入地として秀吉の直轄地となったのですから、不満を持つのも当然です(秀吉の死後、家康ら五大老によって筑前・筑後に復領)。
 また、秀秋は太閤秀吉の義理の甥として生まれ、その後、実子のいなかった秀吉の養子となり、元服すると羽柴秀俊を名乗りました。つまり、秀吉の後継者のひとりという立場にあったのです。しかし、秀吉が待望の男子・秀頼を得ると、小早川家に養子に出されます。ますますもって、面白くない。
 そして、一六〇〇年一〇月二一日の関ヶ原の戦い(本戦)で、勝敗の行方を左右する鍵を握ったのが、この小早川秀秋でした。秀秋は一万五〇〇〇の軍勢を率い、西軍(豊臣方)の武将として関ヶ原の地に赴きますが、合戦が始まってしばらくすると、家康率いる東軍に参戦し、結果としてこれが勝負の決め手となったのです。
 もちろん、家康はただ秀秋が寝返るのを待っていたわけではありません。関ヶ原の南西・松尾山に布陣した秀秋のもとに使者を送って自分に味方するよう、働きかけていました。その際、合戦に勝利した暁には秀秋に広大な領地を与えるという条件提示も忘れていません。関ヶ原の戦いのあと、秀秋は家康から岡山藩・五〇万石を与えられています(なお、この出来事の背景には北政所の存在がありますがそれは後に詳しく述べます)。
 しかし、たしかに軍事面では小早川秀秋が自軍であるはずの西軍に向けて放った矢が決定打となりましたが、勝負はその前、つまり家康が豊臣体制のなかで不満分子を見つけ、ピンポイントで働きかけて寝返らせた時点で決していたと言えるでしょう。そして、このように自分に味方してくれる人物を洗い出す行為を、わたしはPRの理論のなかに位置づけて「ステークホルダー(自分を取り巻く人間関係)の見える化」と呼んでいます。
 先に「自分のプレゼンテーションの対象を漠然と全体像で捉えてはダメだ」と言いましたが、さらに踏み込んで考えると、企画会議で可否の決定権を持つ役員が一〇人いたとしても大きな影響力を持つ特定の人物を見つけてピンポイントで働きかけることが重要になります。そのためには、プレゼンテーションの対象である会議のメンバーひとりひとりについて、新しいアイデアについてどんな反応を示すか、可否を決める際に誰の顔色を窺っているかといった情報を事前に整理しておくこと。これが見える化です。

二六五年の太平の世は、いかにして実現したか

 徳川家康の話を続けましょう。なんといっても約二六五年にも及んだ幕藩体制の礎を築いた人物です。PRという視点で見ても、彼のセンス(時代を見抜く洞察力)と実務面の手腕は並外れています。
 まず、一六〇三年に江戸幕府を開府すると家康は「武家諸法度」を発布して法制面を整備しますが、そこには大名間で勝手な婚姻を結ぶことを禁じる条項もありました。そう、かつて秀吉が遺言し、家康が破った掟を、今度は将軍となった家康が定めたのです。家康こそは、政略結婚による同盟関係の酸いも甘いも知り尽くした武将と言えるでしょう。
 余談ですが、ひとつの体制の寿命としては七〇年というのが一般的な目安になるという見方があるそうです。たとえば、二〇世紀の後半には米国と世界の覇権を争っていた旧ソ連も、ロシア革命を経て一九二二年に成立したものの一九九一年に体制が崩壊しています。享年、六九。日本の場合も明治維新後の体制が軍国主義に染まって崩壊するまで、約七〇年。
 人間の寿命が延びた現在も、七〇歳というのはひとつの節目でしょう。わたしは「世界は情でできている」と考えていますが、体制の誕生当時の苦労やよろこびを皮膚感覚で知っている第一世代が去っていくことは、組織の運営においても重大な意味を持つのかもしれません。
 日本の戦後、米国との同盟関係を基軸とした体制も七〇年という耐用年数を過ぎていますが、逆に言えば、国も企業も七〇年という目安を超えて存続し続けていれば、そこには特筆に値する論理的に整備された基盤が存在するということでしょう。いずれにしても、徳川家康というのはタダ者ではない。その凄さを、PRの視点からさらに分析していきたいと思います。
 関ヶ原の戦いで豊臣陣営を「見える化」して勝利を手繰り寄せた家康ですから、一六〇三年に征夷大将軍の位に就き、江戸幕府を開府したのちも当然、自身の政権が盤石のものであるとは考えませんでした。不満分子・小早川秀秋を炙り出して寝返らせた彼の慧眼は、同様に、表面上は自分に忠誠を誓っている武将のなかにも不満や野心を持っている者がいること、また日本にはいまだに太閤・秀吉の治世にシンパシーを覚える人々がいることを見逃さなかったのです。
 そういった状況を、いかにして自分がコントロールできるものにしていくか。ここでもPRの手法が活かされています。
 天下統一を成し遂げたのちに家康が手がけた代表的な事業のひとつに五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)の整備があります。なかでも温暖な太平洋沿岸を通る東海道は、今日でも日本の大動脈となっているように、家康が天下を統一する以前から主要な通行ルートとして利用されてきました。
 ただ、家康はこのルートに「宿」を制定して通信・運輸の環境を整備し、街道としての機能を持たせたのです。五街道はすべて、起点が江戸・日本橋に統一され、東海道は日本橋から京都の三条大橋まで。そして、家康が東海道に設けた宿は五三カ所。「東海道五十三次」という決まり文句の由来となります。
 しかし、じつは東海道は五十三次ではなく五十七次だったのです。そこに〝秀吉後〟の日本をデザインし、二六五年にも及ぶ太平の世の礎を築いた家康のPR戦略が隠されています。

「東海道五十三次」によって示された〝秀吉後〟の体制

 一六一五年、大坂夏の陣によって豊臣家は滅び、徳川家による日本の支配が確定的となると、家康は東海道を終点の京都・三条大橋から大坂・高麗橋まで延伸して伏見・淀・枚方・守口の四つの宿を整備します。これが「東海道は五十七次だった」といわれる根拠ですが、実際には三条大橋よりも西の部分は、東海道と一体のものとして整備されたにもかかわらず、べつの街道として区別されました。
 じつは、三条大橋から大坂・高麗橋までの区間は、もともと秀吉が京街道として整備していたルートなのです。つまり、家康は五街道の整備を自分の事業として後世に残したいと考え、自分よりも先に秀吉がすでに整備していた部分を敢えて除外したのです。「秀吉の時代」と「秀吉後の時代」を明確に区分し、自分が天下を統一して征夷大将軍となったことを全国にPRすることが目的だったと考えられます。
 時代が変わるということは、単にそれまでの統治者だったA氏が去り、B氏が就任するというだけのことではありません。フランス革命(一七八九~九九年)が成立すると、パリでは街頭の時計台が次々と破壊されたといいます。旧体制で流れていた時間を捨て、新たな時間へ。反体制のヒッピーたちを描いた映画『イージー・ライダー』(一九六九年/デニス・ホッパー監督)も、主人公がはめていた自分の腕時計を投げ捨てるという象徴的なシーンから始まります。
 また、米国との戦争に勝利し、南北統一を成し遂げたベトナムでは、米国の傀儡国家と化していた旧南ベトナムの首都・サイゴンの名称がホーチミン市へと改められました(ホー・チ・ミンは、旧北ベトナムの指導者として米国と戦った政治家の名前)。
 さらに、秀吉の時代と自分の時代を明確に区切るために家康が実践したPRは、これだけではありません。東海道五十三次の終点である京都・三条大橋とは、どのような場所であったか。その下を流れる鴨川の河原は、刑場として残酷な処刑や晒し首がおこなわれる場所だったのです。秀吉の養子で秀頼が誕生する以前には世継ぎとして関白の地位にも就いた豊臣秀次は、その後、強制的に出家させられ高野山で切腹し、三条河原で晒し首にされています。また、関ヶ原の戦いで西軍を決起させた石田三成も六条河原で斬首されたのち、ここで晒し首にされ、有名な盗賊・石川五右衛門が釜茹でにされたのも三条河原でした。
 なんとも恐ろしい場所。現代よりも迷信が幅を利かせていた四〇〇年前ならば、なおのこと人々は、できるならば近づきたくないと思ったことでしょう。じつは、東海道の五十三次目・大津宿から大坂に向かうには、三条大橋ではなく五条大橋を経由するほうが便利。実際に、東海道が発展した現在の国道一号線は、五条大橋を通っています。
 そして、五条大橋といえば、古くから清水寺参拝の道としても親しまれ、源義経と弁慶が出会った優美な伝説の舞台でもある。江戸から東海道を旅して京都にやってきた人たちも、終点が五条大橋だったならば大いに観光気分を満喫できたことでしょう。
 ちなみに東海道五十三次から西、秀吉が整備した京街道は、京都と伏見を結ぶ鳥羽街道と、伏見から五条大橋までの伏見街道というふたつのルートによって成り立っていました。つまり、本来は三条大橋を通るルートなど存在していなかった。家康は五条大橋を通る従来のルートをわざわざ曲げて東海道を整備したことになりますが、では、いったいなぜ、三条大橋を東海道の終点とする必要があったのか。ここにも家康の遠謀深慮が隠されています。
 家康は、一刻もはやく人々の脳裡から秀吉の残像を消し去ることを考えていたのだと思います。そこで、誰もが「できれば渡りたくない」と考える三条大橋を東海道五十三次の終点とし、そこから先、大阪までのルートに脚を踏み入れることを妨げようとしたのでしょう。大坂は、言うまでもなく秀吉が居城を置いていた土地です。
 自分の時代を確立するために、ここまでやる。自己PRは、やるのなら緻密に、徹底してやらなければ意味がありません。中途半端な自己PRは「目立ちたがり屋」という印象を周囲の人々に与えるだけの結果に終わるでしょう。ただ、それにしても本当ならば五十七次だった東海道が五十三次になってしまったことは、少し残念な気もします。

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以降の章では、北政所や宮本武蔵から学ぶPR術や、未来へ活かすことについて語っています。


<収録内容>
はじめに
 四〇〇年前のPRに「成功の秘密」が隠されている
 日本の歴史と、グローバリズムの本当の関係
 ○○県のA市とB市は仲がわるい
 カミソリ後藤田の歴史活用術
第一章 徳川家康の恐るべきブランディング
Ⅰ 徳川家康から学ぶPR術
 戦国武将たちのプレゼンテーション
 関ヶ原の戦い、勝敗の決め手は家康の「見える化」戦略
 キーマン・小早川秀秋を炙り出す
 二六五年の太平の世は、いかにして実現したか
 「東海道五十三次」によって示された〝秀吉後〟の体制
 サン・ファン・バウティスタ号の謎
 伊達政宗と家康が利用しようとした「YTT」の法則
 日光東照宮は北を護る砦だった
 日光東照宮に〝伊達もの〟が奉納した南蛮鉄灯籠
 大権現として神となった家康のブランディング
 家康の再来
 徳川慶喜が示した「自虐PR」とは?
第一章〈Ⅰ〉まとめ 《家康流PRのココが凄い!》
Ⅱ 徳川家康のPR戦略を現代に活かす
 生き残るためのPR
 「見える化」戦略をさらに徹底
〔コラム〕 歴史は今も生きている
第二章 腕利きロビィストとしての武将・北政所
Ⅰ 北政所から学ぶPR術
 なぜ、豊臣秀吉は征夷大将軍ではなく関白太政大臣だったのか?
 武家と公家の政略結婚
 良妻、賢母、そして知謀に長けた女性
 権力よりも人脈・コミュニケーション能力が必要とされるロビィ活動
 大出世で生じるリスクを、笑い話で回避
 ねねに対する信長と朝廷の評価
 北政所とヒラリー・クリントン
 なぜ、家康をサポートしたのか
 関ヶ原の戦いで勝敗の行方を決めた女性
第二章〈Ⅰ〉まとめ 《北政所流ロビィ活動のココが凄い!》
Ⅱ 北政所のロビィ活動を現代のPRに活かす
 「日本酒ブーム」に忍び寄る危機
 フランス人の抜け目ないブランディング
 フランス流に対抗する「暖簾の守り方」
 リピーター観光客は、どこを目指すか
 ある歴史学者の旅
 「小さなアイテムで大きな効果」の実例
 リニア新幹線に対する危機感から始まったサクラエビPR
 「観光都市・京都」が誕生するまで
 誇れるものは、なにか
〔コラム〕 地元の誇りがブランドをつくる ──宇治茶はなぜ、日本一の銘茶になったのか
第三章 宮本武蔵の「剣豪伝説」が語り継がれた本当の理由
Ⅰ 宮本武蔵から学ぶPR術
 武蔵が書き、未来へと発信したPRレター
 三条大橋に掲げた「公開挑戦状」
 モハメド・アリは『五輪書』を読んでいたか
 〝真実味〟を増すためのPR戦略
 「二刀流」のブランディング
第三章〈Ⅰ〉まとめ《宮本武蔵流〝刺さるPRレター〟のココが凄い!》
Ⅱ 宮本武蔵のPR術を現代に活かす
 人間は「情」で動く
 血だらけ(知だらけ)のニュースリリースはNG
 日本人の特性と、外国人旅行者が求めるもの
 知に訴えていたら「ひこにゃん」は消えていた
 ヴィジュアルの重要性
 自信を持つことが「情」を活性化する
第四章 歴史を活かすPRの本質とコツ
 FCバルセロナに長年スポンサーがつかなかった理由
 「フルーツパフェの街 おかやま」が奏でる郷土のハーモニー
 ライバル意識を逆利用して成功へ
 「ひこにゃん」は、なぜ白猫なのか
 自分を「見える化」できているか?
 武将のPR戦略と歴史を今に活かすために
 隠れた歴史を活かすために
第五章 武将のPR戦略を未来に活かす
 二〇二〇年・東京五輪、二〇二五年・大阪万博に向けて
 千利休が切腹した本当の理由
 日本文化で世界の「情」をつかむ
 新元号「令和」に込められたPRの極意
 歴史をヒントに自分たちの居場所を探す
おわりに

著:殿村美樹『武将たちのPR戦略 - すごすぎる! -
紙書籍定価 ¥830+税 / 電子書籍価格 ¥800+税
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