代替品としてのアーマード・コア

アーマード・コアVI発売を前にして

かつてのフロム・ソフトウェアの看板商品として知られるアーマード・コアの新作である『アーマード・コアVI』が今月25日に発売されるとして話題になっているようですが、かつての同作を知っている層にとっては、この話題になるという展開自体が予想外であるといえるかもしれません。

というのも同作は(今となっては)評判の悪いPlayStation向けのタイトルとして当時は知られていたからであり、2000年代にかけてはマイナーなタイトルといえましたし、実際にプレイステーション クラシックに同シリーズの第1作が収録されたことも話題になったとはいえないでしょう。

事実ナンバリングタイトルとしてはVIは前作であるVから11年ぶりに発売されるということで、この期間というものが全てを物語っているといえるでしょう。

しかし、この間に会社は神直利(前社長)体制から宮崎英高(現社長)体制に移行しており、ローカルなゲーム会社であったフロム・ソフトウェアはいつしか世界的な大企業へと変貌を遂げたといえるわけであり、その間の期待の蓄積によって今月発売される予定のVIは過去のアーマード・コアとは別次元の注目を集めるにいたったようです。

とはいえ大多数のユーザーはアーマード・コアという作品がどのような経緯をたどってきたのかについてはほとんど前情報をもちあわせてはいないでしょうから、ここでは筆者個人の体験も踏まえたうえで当時の時代背景について多少の解説を加えてみたいと思います。

この背景を知っているかどうかで、VIに対する向き合い方も多少は変わってくるといえるでしょう。

消去法的に選ばれたアーマード・コア

最近ではファイナルファンタジーのピクセルリマスターが話題になっていることからも明らかなようにドット絵時代への回帰の流れもみられるわけですが、その点アーマード・コアは典型的なポリゴン時代の作品といえるわけであり、その分野において画期となったPlayStation向けのタイトルとして発売されました。

もちろんシューティングとロボットという組み合わせは典型的といえば典型的な例ではあり、テレビゲームの黎明期からそのようなタイトルは存在していたわけですが、実はポリゴンゲームの先駆例であるAtariの『I, Robot』(1984年)の時点でポリゴン、ロボット、シューティングという組み合わせは完成していました。
しかし同作はゲームセンター向けの作品であり、特製の筐体によってようやく技術的に実現可能になったものにすぎず、一般層に広く普及するものとはいえませんでした。
要するに家庭用ゲーム機のレベルに落とし込んではじめて一般層にもとどく作品になったといえるわけであって、それには10年以上の月日と、従来型のドット絵ではないポリゴンに特化したゲーム機の台頭が必要になりました。

その分水嶺となったのがセガサターンとPlayStationであるということはゲーマーならば知っていることかもしれません。

そのうちポリゴンに特化したのがPlayStationだったわけであり、まさに『アーマード・コア』はその市場を選択した作品だったわけです。

しかし、当時のフロム・ソフトウェアはゲーム市場に飛び込んでからそれほど時間が経過していないということもあり、また前作までとゲームジャンルそのものが変わってしまったということもあり、同作は当初から高い注目を集めていたというわけではありません。

実際に当時子供であった筆者もアクションシューティングなどをよく遊んでいた関係からロボットとシューティング、更にはポリゴンという組み合わせには関心があったものの、いの一番で『アーマード・コア』にたどりついたわけではありません。

そんな筆者が当時興味を抱いていたのは『ファミ通』で断片的に紹介されていたアニメ『装甲騎兵ボトムズ』のゲーム化作品である『装甲騎兵ボトムズ 青の騎士ベルゼルガ物語』でした。

実は筆者が心の底から興味を抱いたのはこちらのほうであり、『アーマード・コア』は消去法的に選ばれた妥協の産物にすぎなかったわけです。

どういうことかというと、『装甲騎兵ボトムズ 青の騎士ベルゼルガ物語』はタカラによって開発され1997年10月30日に発売された作品だったわけですが、『アーマード・コア』は同年7月10日に発売されており、筆者が当時地元のゲーム屋さんに前者を購入しに行った時には在庫がなかったか中古でも高かったかどちらかの理由で購入できなかったわけですが、後者は中古で手が届く範囲に値段が下がっており、それで妥協の産物として似たようなジャンルそうという理由で後者を購入したわけです。

当然当時フロム・ソフトウェアなどという会社は存在すら知らなかったので、子供が手を出すにしてはギャンブルともいえるような話だったわけですが、これが結果として想定外に面白かったわけです。

ここから筆者はフロム・ソフトウェアという会社に興味をもち、その作品の動向も『ファミ通』を中心にして追うようになったわけですが、実は見限るのも早かったわけです。

第1作のファンは早くも第2作目で脱落……

そのように97年中にはフロム・ソフトウェアに注目した筆者だったわけですが、実は同年中に同社に対して見切りをつけてしまうような展開もありました。

そのきっかけとなったのが第1作から半年も経たずに発売された『アーマード・コア プロジェクトファンタズマ』だったわけであり、これを『ファミ通』の紹介記事で見た瞬間に筆者は「あ、自分の知っているアーマード・コアは終わったな」と直感したことを昨日のことのように覚えています。

どういうことかというと、第1作はそれ以前に発売されたキングスフィールドにも通ずる粗削りなポリゴンとそれゆえの無機質な世界観が小学校高学年であった多感な年ごろの筆者には刺さりまくったわけですが、ヴィジュアル系のバンドがメジャーに移行することで面白味がなくなるような軽薄さの端緒のようなものを当時の筆者は第2作のストーリーを紹介する紙面から本能的に感じ取ってしまったわけです。

筆者はPlayStationの全盛期というのがまさに当時であったと認識しているわけですが、97年ごろというのは各社が粗削りなポリゴンから脱して技術的に洗練されつつあった時期であり、そのことは同年始めに発売された『ファイナルファンタジーVII』のポリゴンを最大限いかしつつも映画路線を確立させた作風に端的にあらわされていたといえるかもしれません。

良くも悪くもポリゴンらしいポリゴンというのは97年ごろというのが一つの到達点であったと考えられ、まさに『アーマード・コア』はそのような時期に発売されたタイトルでありました。

と同時にある種の飽和状態に達してしまったともいえるわけであって、それを感じたのが『アーマード・コア プロジェクトファンタズマ』だったわけです。

その後同社は『エコーナイト』などを発売することで初期作品にみられたような硬派な世界観を取り戻そうとしたようにも感じられたわけですが、これもそれをするには洗練されすぎていたといえるわけであり、食指が動くものではありませんでした。

その後発売された『アーマード・コア マスターオブアリーナ』も同様に筆者は紙面だけで満足しており、後にこれらは三部作として知られることになるようですが、筆者にとっては1プラスアルファという印象であり、正直にいってアーマード・コアは第1作が全てという認識は今にいたってもまったく変わってはいません。

だから2018年に発売されたプレイステーション クラシックに同作がシリーズとしては唯一収録された際には多少喜んだものですが、やはりというかなんというか世間的には冷笑で済まされたようであり、これがアーマード・コアの素直な世評なんだろうなと実感させられたものであります。
もちろんこの点に関してはフロムの問題というよりもSIE(ソニー・インタラクティブエンタテインメント)の問題というべきなのでしょうが。

記憶されるべきPSP時代の迷走

筆者がその後アーマード・コアに手を出したのは記憶が正しければ一度限りであり、それはPlayStation Portable向けタイトルとして2004年12月12日に発売された『アーマード・コア フォーミュラフロント』でした。

これは同機種のローンチタイトルとして発売されたものであり、AIに操作を任せるという、アクションシューティングであるはずのアーマード・コアのゲーム性を全面的に否定するような作品だったわけですが、筆者が手をだしたのはそのオリジナルかインターナショナル版かは記憶が定かではありません。

後日発売されたインターナショナル版においては自機の操作も可能になったようですが、これは今であればネットの反発を受けてということなのでしょうが、当時はそうした時代でもなかったので、どのような経緯で修正が入ったのか、また筆者自身がそれをどう感じていたのかについては多くを語れないというのが実態ではあります。

一つだけ確実にいえることとしては、PSPの操作性が問題として挙げられ、アーマード・コアにおける上下の視点操作をおこなうためのL2・R2ボタンがPSPには欠けていたため、これが原因で当初自分では操作できない作風が採用されたのだと思われます。

ちなみに同じ理由かどうかは定かではありませんが、やはり同じくL2・R2ボタンを視点操作で用いるキングスフィールドのPSP版もウィザードリィのようなゲーム性に改変されて不評であったようなので、当時のフロム・ソフトウェアの迷走ぶりを反映する事例として記憶しておいて損はないでしょう。

おおむねこの迷走ぶりは『Demon's Souls』が発売された頃まで継続しており、同作の発売された同年には『3Dドットゲームヒーローズ』のような今のフロムからは想像もできないような作品も発売されるなどしています。

当時は宮崎英高がクリエイターとして台頭しつつあったものの、まだ社としては神直利体制であったため、そのような旧態依然としたようなところが残存していたのかもしれません。

もちろん現在においてはフロムといえば宮崎ということなのでしょうが、今でも筆者のようなやや古い時代の人間はフロムというと神の時代を思い出してしまうわけであり、この時代錯誤感を内心楽しんでいるというのもまた実態ではあります。

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