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十一月に 1


 今年の秋はいつにも増して順調に冷え込んできたな、と思いながらヴォイチェフ・スラーンスキーは工房の小さな窓から細かな雪が舞うのを眺めていた。まだ積もるほどの寒さではなく、雪は地に落ちると同時に姿を消した。
 十五年前のビロード革命直後にやっと独立して開いた中古ピアノの修理販売店は平屋建てで、建物の前半分が数台のグランドピアノが置いてある接客用の展示室、後ろ半分が展示室と同じくらいの広さの修理工房という造りになっている。四十代も後半にして一人で新たな事業を始める、という事実に躊躇しなかったと言えば嘘になるが、それまでに培った確固たる技術が客を呼び、その客がまた新たな客を引き寄せた。今ではどこにも広告は出しておらず、展示室の表通りに面した大きなガラス窓に書かれた『中古ピアノ・スラーンスキー』の金色の文字もその下に並んでいる電話番号もほとんど読めないほどに色が落ちてしまっているが、それでもヴォイチェフの噂を聞きつけた購入希望者は後を絶たなかった。
 壁の柱時計に目をやると、午前十時五分前だった。午前中のこの時間帯は、本来なら窓から雪などを眺めている暇もなく仕事に精を出しているのが常だったが、この日は十時に客を迎えることになっていた。接客は苦手だ、特に新しいのは、と思いながらヴォイチェフは立ち上がり、作業着を脱ぐとそれまで座っていた椅子の背に掛け、工房を出てドアに鍵をかけた。そして狭い廊下を挟んだ向かい側にある展示室へのドアを小さく開けると、自分の他には誰もいないのにもかかわらず、まるで忍び込むように展示室に体を滑り込ませ、そのドアも施錠した。客が足を踏み入れられるのは展示室だけだ。客の希望通りのピアノが裏庭の倉庫にある場合は倉庫まで連れて行くが、工房は一切見せないし、そこに工房があることさえ口にしないことにしている。
 ヴォイチェフの腕時計が十時を指し示した瞬間、展示室と屋外とを直接繋ぐ出入口のドアに設置してあるベルの音が室内に鳴り響いた。客の来店は完全予約制だ。約束の時間きっかりに来ないとここの店主は対応してくれないという話を聞いているのだろう、と思いながらヴォイチェフは磨りガラスでできた出入口へ向かった。
 ヴォイチェフがドアを開けると、ドアの向こうには四十前後かと思われる背の高い痩せた男が立っていた。もともと身長が低い上にこの数年で猫背がひどくなってきたヴォイチェフより頭二つ分くらい背が高いように思われた。男ははにかんだような笑顔で
「初めまして。昨日お電話を差し上げた……」
と言いながら名刺を差し出した。男は癖のあるブロンドを短く刈り上げていて、笑った顔は十代の少年のようだった。ヴォイチェフは笑い返すこともせず、展示室のガラス窓と車道の間にある車三台分くらいの広さの駐車スペースに目をやり
「今日は、車ではないのですか」
と尋ねた。プラハの南の端にあるこの店は、店の前の車道をあと数百メートルも先へ行けば市外に出られてしまうほどの街はずれに位置しており、一時間に一本だけ走っている市営バスを除けば、自分で車を出すくらいしか他の交通手段は考えられない。しかし、店の前の駐車スペースは空だ。
 男は少し困ったような笑顔に表情を変化させると
「車が止められるかどうか分からなかったので、少し離れた路肩に駐車して、ここまで歩いてきました」
と答えた。ヴォイチェフは男の言葉を聞きながら男の手の中の名刺に視線を移した。先月アップライトピアノを購入していった若い女の勤めている出版社と同じ社名が書いてある。昨日も同僚の紹介でこの店を知ったと電話で話していたから、あの女の上司なのだろう、と思いながらヴォイチェフは男の役職名に目を走らせた。ヴォイチェフは客の身なりにはあまり頓着しないが、確かに男はそれなりの地位がありそうな服装をしている。少年のような顔とはどことなくちぐはぐだな、と思いながらヴォイチェフは漸く男の名刺を受け取ると粉雪の舞う玄関先に立たせたままだった男を店の中へ促した。
 展示室の中央まで歩を進めた男は、展示してある三台のグランドピアノに囲まれるような位置で足を止めた。ヴォイチェフは暫く玄関を開けていたせいで湿度が下がり過ぎなかったか心配になり、湿度計を確認してから男のほうへ向き直った。展示室に置いてあるのはスタインウェイが二台、ベヒシュタインが一台。二台のスタインウェイのうちの一台はコンサートグランドだ。ヴォイチェフは展示室には手持ちのピアノの中でも一番良いものを置くようにしていた。もちろんその三台は大抵の客には手の出ない値段だったが、「こういったものを扱う店なのだ」という印象を植え付けるために置いている。
 男は暫く何も言わずに自分を囲む三台のピアノを眺めていた。加湿器の微かな音が、妙に大きく聞こえる。ヴォイチェフは男にゆっくりと近づくと
「どのようなピアノを、ご所望ですか」
と話しかけた。男は一瞬、そこにヴォイチェフがいることに驚いたかのような表情を見せたが、すぐに笑顔になって
「具体的にどのようなものが欲しいかも、まだ決めていないのです。せっかく買うなら家にスペースもあることだしグランドピアノを、とは思ってはいるのですが」
と恥ずかしそうに答えた。
「新しいものを買おうとは思われなかったのですか」
「ピアノのショールームをいくつか回ってみましたが、思うような音を出す楽器に出会えなくて」
「ここに置いてあるものも、試しに弾いていただいてもいいのですよ」
 ヴォイチェフがそう言うと、男は少し戸惑った様子を見せ
「私は、弾かないのです。妻が、子供の頃習っていたと言っていて、彼女へのプレゼントを探しているのです」
と言った。ヴォイチェフは少し呆れた顔をして、男の薄く緑がかった灰色の瞳を見つめた。
「それでは、奥様と一緒に来たらよかったではないですか」
「あの、妻にはまだこの話はしていなくて。驚かせたい、というか。確かにこんな大きな買い物をするのにいつまでも黙っているわけにはいかないのですが」
 男は一瞬黙った後、
「でも、音の良し悪しは、分かります。それは、誰よりも自信があります」
と言いながら一番近くに立っているベヒシュタインの鍵盤の蓋を上げ、鍵盤の表面にそっと触れた。
「象牙、なのですか?」
「もちろんです。その子は製造年が一八八〇年代でしてね、その頃のものなど、象牙以外まず考えられないでしょう。ウィーンからブラチスラヴァへ向かう途中の居酒屋に置いてあったんです。あんなところに長年誰にも弾かれずに放っておかれていたのに、保存状態がとても良かった。もちろん修理の段階でかなり手は入れているが、音は元々持ち合わせていたものを保っているはずです」
 ヴォイチェフは今年二〇〇四年五月にチェコがEUに加盟した瞬間には何の感動も覚えなかったが、こういった国境を跨いだ買い付けが税関などでの複雑な手続きもなく国内と同じようにスムーズに運ぶようになったことには感謝していた。まだチェコのEU加盟前に見出し、苦労してプラハへ持ち帰ったこのベヒシュタインは、元々高品質だった上に修理も満足度の高い仕上がりで、それなりの値段がついている。
 男は顔を上げ目の前のグランドピアノの大屋根の先端部分を見つめ
「これは、いわゆるベビーグランド、なのですか」
と聞いた。
「いや、そこまで小さいものではありません。隣にコンサートグランドが置いてあるから小さく見えるのでしょう。ご自宅にスペースがある、とのことですが、これもかなりの場所を取りますよ」
「居間に入ります、きっと大丈夫です」
「音に関しては、どう思われますか。ご近所に迷惑がられる可能性も考えられましたか」
「うちもお隣も庭がありますから」
 そう言ってから男は白鍵を一鍵、右手の人差し指で躊躇いがちに押した。少し間の抜けた、しかし澄みきった中央オクターブの「A」が浮き上がるように空気を振動させて、そして空気に溶け込むようにすっと消えた。それから男は、まるで安堵したかのような、少し場違いな笑みを浮かべた。
「これだと、思います。きっとそうです、探していたピアノは、探していた音は、これです」
 男の言葉を聞いて、ヴォイチェフは訝しげに男の顔を見据えた。居酒屋で拾ってきた年代物だから気軽に買える値段だろうとでも思っているのだろうか。確かにこのベヒシュタインは素人でもたった一音耳にしただけで惚れ込んでしまうような音色を持っている。しかし、このピアノを購入できるだけの金を持ち合わせていたとしても、このピアノの希少価値が分からない人間に買い取られ、結局大して奏でられることもなくインテリアの一部としての機能しか果たさなくなってしまうのには我慢ならない。そんなことを考えながら、ヴォイチェフは男の顔を見つめたまま再び口を開いた。
「奥様は子供の頃に習っていた、という話ですが、今はどの程度演奏なさるのですか」
「今は……今はうちにある電子ピアノを時々触る程度で。上の子が生まれるまでは、いろいろ弾いて聞かせてくれていたのですが。上の子が」
 そこまで言って男は一旦言葉を切り、再び困ったような笑顔を見せ、それから続きを話し始めた。
「上の子が五歳くらいの時でしたか、それまで楽器なんて習わせたことも触らせたこともなかったのですが、ラジオから聞こえてきた曲を一回耳にしただけでその曲のメロディーを電子ピアノで再現してしまったのです。両手の人差し指で鍵盤を次々押して、丸々一曲。……あの子は、天才なのです」
 ヴォイチェフは心の中で大きなため息をついた。いわゆる親馬鹿というやつだ。実のところ当てずっぽうに押した数音が主旋律に含まれる音と一致してそれらしく聞こえただとかそういった話だったのだろうが、と思いながらヴォイチェフが
「曲は、何だったのですか」
と聞くと、男は
「『シシリエンヌ』です、フォーレの。ラジオから流れてきたのはピアノのソロ用に編曲されたものでした。あの子はテンポさえもラジオから聞こえた演奏と全く同じように再現したのです」
と笑って答えた。そして男はヴォイチェフの呆れ顔を気に留める様子もなく話を続けた。
「それ以来、妻は少しへそを曲げてしまいましてね、才能のない人間は演奏する意味などないのではないかと」
「しかし、奥様のためにピアノを探しているのですね?そのお子さんのためではなく」
「あの子は、弾きません。興味を持ちませんでした。習ってみたいかと聞いてはみたのですが、つまらない、と言って。あの子は他にできることがたくさんあるので」
 ヴォイチェフは自分の子を天才だと信じて疑わない、そしてそれを他人の前で隠そうともしない男の態度に閉口したが、それにしても解せないのは、なぜこの客は大して弾くこともなくなった妻のためにピアノを、しかもグランドピアノなどを探しているのかという点だ、と心の中で独り言ちた。
 再びいくつかの白鍵を無邪気に押しながら「この重すぎず軽すぎない鍵盤がいいですね」などとつぶやいている男の手元に目を落とし、ヴォイチェフは
「購入されたところで、奥様は演奏されない可能性もあるのではないのですか」
と少し厳しい口調で言った。男はヴォイチェフの声音の変化に気が付いたのか、手を止めるとヴォイチェフの顔に視線を動かした。
「私は、丹精込めて生き返らせたピアノが金持ちの気まぐれで購入され、一切演奏されないまま家の中の装飾の一部としての機能しか果たさなくなるのには耐えられない。残念ながら、そういったことは今まで何度も経験してきた。こういった世紀を跨いだ古いピアノはアンティーク好きには受けがいい。しかし、それでは何のために汗水たらしてピアノをピアノとして再生させたのか、と無念でならんのです」
 男はヴォイチェフの言葉を神妙な顔で聞いていたが、ヴォイチェフが話し終わると、静かに
「きっと、弾きます。もしかすると下の子のほうが興味を持つかもしれない。とにかく購入の最終決定の前に妻を連れてきます。きっと彼女はこのピアノに夢中になることでしょう」
と言い、再び笑顔を見せた。
 ヴォイチェフは「この男、顔だけじゃなくて頭の中も子供なのか」と思いながら展示室の隅に設置してあるデスクに近づき、引き出しからバインダーを取り出すと男のところへ戻った。そして
「こちらが、このピアノの値段となっています」
と言ってバインダーに挟まれた一番上の用紙に印刷された表の中で上から三番目に記載されている値段を指し示し、男のほうへ向けた。
「更に運送料もいただきます。運送料はピアノの値段の一割ほどの金額に設定しています」
と続け、ヴォイチェフは男の顔を観察した。男は所望したピアノの値段を目にしても驚いた顔はせず
「大丈夫です。グランドピアノなのですから、このくらいはすると思っていました」
と返した。
 ヴォイチェフはバインダーを再び自分のほうへ向けたが、男の顔からは目を離さなかった。
「お支払いは全額現金でご用意願います。運搬が完了した後、その運送業者にその場でお渡しください。全額です、ピアノの代金も運送料も。私自身は運搬には同伴しません」
 これがほとんど最後の関門だ、とヴォイチェフは接客のたびに思う。銀行振り込みもカード決済も普及しているこの時代に、このような大金を現金で揃えなくてはならず、しかも売り手本人ではなく運び屋に渡さなければならない。その条件を受け入れられるか否か。しかしこれは何もこのヴォイチェフの店に限ったことではない。これはヨーロッパの至るところで見られる中古ピアノの伝統的な取引の手段だ。
 男はヴォイチェフの危惧に反して、やはり表情を変えず
「分かりました」
とだけ答えた。
「運送業者は、ガタイのいい厳つい連中です。まだお子さんたちも小さいようですから怖がるかもしれません。お子さんたちの在宅時に運び込むのは避けたほうがいいかもしれませんね」
「上の子は、もう十七です。下はまだ小さいですが、そういったことを怖れるような子ではありません」
 そう言ってから、男はふと思いついたように展示室を見渡し、
「お一人で、経営なさっているのですか?」
と聞いた。ヴォイチェフはバインダーを戻すべくデスクのほうへ近づきながら
「一人息子と一緒にやっています。奴は調律に出回っていることが多いので、ほとんど店にはおりませんが」
と答えた。ヴォイチェフの返事を聞いて、男はなぜか安堵したかのような表情を見せた。ヴォイチェフは一瞬「偏屈な爺が堅気ではなさそうな運び屋と取引をしている店にも、まだ他に人間がいるということに安心したのか」と勘繰ったが、男の少年のような顔を見ているうちに、単にこの老人に身寄りがないのではないかと心配しただけだったのかな、という気になってきた。
 ヴォイチェフが再び男の傍に戻り
「では、近々奥様を連れてきてくださいますね?」
と聞くと、男は
「ええ、もちろんです」
と答え、大きな笑みを浮かべた。


十一月に 2 へ続く


『Ten dotek, na který nikdy nezapomeneš』 21 x 23 cm ペン、墨汁


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