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十一月に 2

十一月に 1


 いつになく図書館が混んでいるのは急激に外が寒くなったせいだろう、と憂鬱な思いを抱きながら、カテジナは肩が触れ合いそうなほど近くに座っている隣の席の少女を見やった。今カテジナが座っている簡素な造りのテーブルは四人掛けだが幅が狭く、通常なら知らない人間とは同席したくないくらいの大きさだ。カテジナが通う高校のすぐ側にあるこの市立図書館は、図書館としてはとても小さい。カテジナはプラハ市内に点在している市立図書館の中では旧市街広場の近くの中央図書館が一番好きだったが、学校からは地下鉄やトラムを乗り継がなければ辿り着けない。この図書館も中央図書館くらい大きければいいのになと思いながら、カテジナは自分の真向かいの席で勉強しているエミルに視線を移した。
 カテジナは、主にエミルの勉強の邪魔をするために図書館に通っている。エミルは勉強なんてしなくても充分いい成績が取れるはずなのに、勉強をやめようとしない。そんなのは癪に障るから、ほぼ毎日学校が終わってからエミルを誘って図書館へ行き、ずっと無駄話をしてエミルに勉強をさせないようにする、というのがカテジナの習慣になっている。
 しかし今日の図書館はあまりにも人が多く、いつものようにエミルに話しかけることができない。それを好都合とばかりにエミルは何やらカテジナでは理解できないような専門書を開いて熱心にノートに書き写している。時々エミルが伊達眼鏡を押し上げるしぐさを見つめながら、カテジナは「そんなに邪魔ならかけなければいいのに」と思った。夏休み前までは、こんなおかしな眼鏡はかけていなかった。この秋、新学年度が始まった最初の日「見えすぎるのを助けてくれる気がするんだ」と言いながらただのガラス板がはまっているだけの伊達眼鏡をかけて現れ、以来ずっとその眼鏡はエミルの鼻の上に乗っかっている。
 確かにエミルは異常なほどに視力がいい。本人も「見たくないものまで見えている気がする」と言うほどだ。その視力に負けず劣らずエミルは聴力もすごい。こっちはどうしているんだろう、実は常に外からは見えないくらい小さい耳栓でもしているんだろうか。そんなことを考えながら、カテジナは何とかエミルの気を引く手段はないかとテーブルの上を眺め、筆談を試みることにした。
 カテジナは自分のノートの新しいページの一番上に
『E. A. ポーの「大鴉」のチェコ語訳は間違いって知ってた?』
と書いてエミルのほうへ向けてノートを滑らせた。エミルはカテジナのノートを上目遣いで一瞥したが、今取り組んでいる作業をやめる気にはならなかったらしく、右手は自分のノートの上で働かせたまま左手でカテジナのボールペンを握ると、カテジナの質問の下に
『何それ』
と上下逆さに、つまりカテジナがノートを回転させなくても読める向きで書き加え、ノートをカテジナのほうへ押しやった。
 また一つ癪に障る芸当を見せつけられることになっちゃった、と思いながらカテジナは更に
『ポーの詩のタイトルは「The Raven」、英語のravenはチェコ語でkrkavec』
と書きなぐってエミルに送った。エミルはまた左手で返事をした。
『Havran』
『そうなの、チェコ語にはたくさんの翻訳者が翻訳してるのにみんな「Havran」って訳してる』
『どうしてそんなことになったの』
 やっとエミルが興味を示したかのような質問を返したのに、カテジナは答えを持ち合わせていなかった。どうしてそんなことになったのかなんて、知らない。
 それでもカテジナはせっかく始めたエミルとの”会話”をやめる気にはなれず、急いで
『ハルキ・ムラカミの「Norské dřevo」知ってる?』
と書いてエミルのほうへノートを飛ばした。エミルがいきなり変えられた話題に呆れたように深い青色の瞳をカテジナのほうへ向けたのと、カテジナの隣で読書をしていた少女が二人を睨んだのは、ほぼ同時だった。どうやらカテジナの強い筆圧がかかったボールペンの立てる音とノートがテーブルの上を往復する動きが気に食わなかったらしい。
 カテジナがエミルに「出よう」と目で伝えるとエミルは肩をすくめたが、すぐに本を閉じてすべての持ち物を鞄にしまい、立ち上がった。カテジナも素早く荷物をまとめると腰を上げ、椅子の背に掛けてあったコートを羽織り、袖に腕を通しながら出口へ向かった。エミルは無言でカテジナの隣に並ぶと、カテジナの歩調に合わせて歩き出した。
 図書館の外に出ると、粉雪が舞っていた。カテジナはマフラーを首に巻き付けながら
「来週は積もるらしいよ、雪。すごくたくさん」
とエミルに話しかけた。エミルはコートのボタンをかけながら
「それはちょっと早いね。まだ十一月だって言うのに」
と返した。二人の吐く息が白い。予定よりも早く図書館を出たからまだ帰路を急ぐ必要はないはずだが、二人の足は普段の癖で自然とカテジナの利用しているバスの停留所のほうへ向かっていた。
 エミルが前方に視線を向けたまま
「鴉の名前の話から、どうすればノルウェイ産の木材の話になるの?」
と聞いた。
「あれはravenの訳間違いであるhavranの発展型として話題提供したつもりだったんだよ」
「どういうこと?」
「ムラカミは日本のすごい人気作家なんだ。エミルはフィクションは読まないから知らないかもしれないけど。彼の代表作が、いつだったかな、たぶん去年くらいにチェコ語に翻訳されたんだけど、そのタイトルが『Norské dřevo(ノルウェイの木材)』っていうの」
「何だかロマンに欠けるタイトルだ。どこかで聞いたことがある気もするけど」
「でね、日本語のオリジナルのタイトルは『Norský les(ノルウェイの森)』って言うんだって」
「随分とチェコ語訳よりも詩的だね。どうしてチェコ語の翻訳者はそんな改題をしてしまったんだろう」
「これはチェコ語翻訳者の罪じゃないんだ。この小説のタイトルはもともとビートルズの曲のタイトルにちなんで付けられてるんだって。それでその曲のタイトル『Norwegian Wood』が日本では『ノルウェイの森』と訳され、チェコ語には『ノルウェイの木材』と訳された。だから小説の翻訳者は既にチェコ語に訳されている曲のタイトルは変えようがなかったんだよ」
「それで、どっちの訳のほうが正しいんだろうね、その曲のタイトルが意味するところは」
 たぶん日本語のほうが誤訳だ、とは思ったが、カテジナはハルキ・ムラカミを非難しているように聞こえるのは嫌だなと思い、口にしなかった。大学生の兄が自室に置いていたのを無断で持ち出して読んだ『Norské dřevo』はすごく良かった。
 カテジナは数メートル先の地面に落としていた視線を少し上げ、もうすぐバス停だ、と思いながら
「金曜日、映画観に行く時間、ある?」
と聞いた。再び話題が全く別の方向へ飛んだのに呆れたのか、エミルはすぐには返事をしなかった。
「分かってるよ、金曜はエミルが妹ちゃんを迎えに行く当番の日だってことは。でもさ、妹ちゃんを家に送り届けた後でも、時間はたくさんあるよ」
 そう言いながら、カテジナはエミルの顔に視線を移した。エミルの先月九つになったばかりの妹は家からかなり離れたところにある小学校に通っていて、朝は父親が通勤のついでに学校へ送り届け、帰りは両親とエミルが交代で迎えに行っているらしい。そんなの近所の小学校にしておけばよかったのに、とカテジナが言うと、エミルは、あの子は特殊なんだと答えた。どう特殊なのと聞いたら、あの子は天才なんだという答えが返ってきた。
 フィクションは読まないと傲語しているエミルだから、カテジナに付き合わされて映画館に通うのにも実はうんざりしているのかもしれない、とカテジナはエミルの顔を見つめながら少し不安になったが、何かに気を取られたかのようにカテジナになかなか返事をしないエミルの視線は、前方のバス停を通り越して、そのずっと先に注がれているようだった。
 一体何を見ているのだろうと思い、カテジナがエミルの見ている方向に顔を向けると同時にエミルが走り出した。体育の授業は男女別々だ。カテジナは「エミルがこんなに足が速いなんて知らなかった」などと頭の片隅で考えながら、何が起きたのかも分からないままエミルの後を追って走り始めた。
 エミルはバス停を越え、その前に横たわる車道も信じられないスピードで走って渡った。カテジナはエミルに追いつく前に車が何台か立て続けに通ったので車道を渡る寸前で立ち止まざるを得ず、そこで初めて、エミルは車道を挟んだ向かいの歩道に立っている子供を目指して走り出したのだ、と気が付いた。
 カテジナが数台の車をやり過ごして車道を渡ると、エミルが鞄を地面に降ろして子供の前にしゃがんで子供の顔を覗き込み、
「ジョフィ、こんなところまで一人で来て、どうしたの」
と話しかけたところだった。その子供がエミルの妹のジョフィエであることは、一目瞭然だった。カテジナはジョフィエを見つめながら、まるで人形だ、エミルのミニチュアだ、と思った。腕のいい人形師にエミルをモデルにして作品を依頼したんだ、と言われても信じてしまいそうなほど似ている。八つも年が離れていても、こんなに似てしまう兄妹っているんだ、とカテジナは感心した。顔は実年齢の十七歳よりも幼い印象を与えるエミルと瓜二つ、髪の色もエミルと同じ明るさのブロンドだ。もちろん髪型は違う。ジョフィエは長く伸ばした髪をきれいに編んで二本のお下げにしているが、これは母親の趣味かもな、とカテジナは思った。瞳もエミルと同じ深い青色をしているが、何となくエミルとは違った印象を与える目だった。
 エミルの問いに、ジョフィエは少し間を置いて
「お母さんが、迎えに来なかったの」
と答えた。ジョフィエの返事を聞いて、エミルは反射的にコートの右ポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出した。母から着信がなかったか確かめたのだろう。しかし、何の連絡もなかったようだった。
 エミルはジョフィエの顔に目を戻すと
「先生たちには、話した?」
と聞いた。
「ううん。なんで?家族が迎えに来なきゃいけない決まりなんて、ないよ?心配しすぎなんだよ、お父さんもお母さんもエミルも。あたし、学校から家に帰るくらい、一人でできる」
「それで、なんでここまで来ちゃったの?」
「……だって、おかしいじゃん。お母さんが何も言わずに迎えに来るのやめるなんて」
「だから先生に話さなきゃって言ってるんだよ」
 エミルから三歩ほどの距離を置いて立ち尽くしていたカテジナはジョフィエを見つめながら、きっとこの子は「先生たち」という生き物を信用してないんだな、と思った。エミルの言葉に対する返答が見つけられなかったのか、ジョフィエは何も言わずに暫くエミルの顔を見つめていたが、そこでやっともう一人の人間が傍に立っていることに気が付いたのか、カテジナのほうへゆっくり首を回した。
 睨んでいるわけじゃ、ないのだろうな、という言葉がジョフィエの眼差しを受けたカテジナの頭の中をよぎった。このタイプの顔立ちは睨んでも様にならないことが多いから迫力に欠けるが、何となくジョフィエは笑うことを覚えずに育ったかのような印象を与えた。家族以外の人間に対する警戒心が強いのかもしれない。カテジナはへらりと笑って見せ、「心配するな、私は君から兄ちゃんを奪ったりしない。私が兄ちゃんの女だとか、そういう話じゃないんだ」と念を送ってみたが、ジョフィエには通じないようだった。
 エミルもジョフィエの視線に気が付き、カテジナのほうを指し示して
「ジョフィ、この人は友達のカーチャだよ」
と言った。カテジナはへらりとした表情のまま
「初めまして」
とジョフィエに向かって言ってみたが、何の反応も得られなかった。エミルが途端に申し訳なさそうな顔をしてカテジナのほうを見たので、カテジナは慌ててエミルに「大丈夫だから」と目配せで伝え、
「二人とも、早く帰ったほうが良さそうね。私、もうすぐバス出るし、もう行くよ。じゃ、明日学校でね」
と心持ち早口に言葉を並べると、バス停のほうへ向かって走って車道を横切った。
 バス停に着いて振り返ると、エミルが既に立ち上がってカテジナのほうに手を振っているのが見えた。カテジナが手を振り返すのを見届けると、エミルは鞄を持ち上げ右肩に掛け、左手で妹の右手を握って、右手に持ったままだった携帯電話を耳に押し当てて歩き出した。きっと母親に電話をかけているのだろう。カテジナはエミルの動きを目で追いながら、何か大変なことが起きたんじゃないといいけど、と思った。それから、金曜日の映画のことは明日決めればいいか、などとぼんやり考えながらバスを待った。


十一月に 3 へ続く


『Snad jsem se neztratil v překladu?』 21 x 29,7 cm ペン、墨汁


【補足】
『ノルウェイの森』(村上春樹, 1987)のチェコ語翻訳は2002年に出版された。村上氏の作品でチェコ語に翻訳された最初の小説。


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