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【読書】2023年5月に読んだ本

4月にリリースされたAlfa Mistの『VARIABLES』、とてもいいですね。応援したいので2017年の『ANTIPHON』からすべてCDを購入しています。6月の来日公演も行きたかったのですが諸事情により諦めました。

Jasmine Kayserのドラムは煽情的なスタイルで、状況や対話における起伏より、ジャズロックな統一感を提供するのに専念しているように感じます。これまでのJamie Houghtonの伸び縮みするチャカポコしたスカスカのドラムが(いかにもビートメイカーという感じで)とても好きだったので、Jasmine Kayserはジャズ方面にストレートすぎて物足りないと感じます。

『VARIABLES』、YouTubeで全曲聞けます。興味持たれた方はどうぞ。
ビジュアルを生成AIで作っているようですが、これもKaya Thomas-Dykeの手になるものでしょうか。すごいですよね。ずっと見ていられます。

さて、我が家の3Dプリンターをほとんど触っていない日が続いていますが、仕事では金属3Dプリンティングを検討しており、興味が途切れたわけではありません。そちらの話題はぼちぼち参ります。


5月は以下の本を読んでいました。

大澤絢子『「修養」の日本近代 自分磨きの150年をたどる』(NHK出版)

前半の1~3章では、向上への欲求が明治から大正にかけてどのように発生し変化していったのか述べられています。後半の4~6章では、とくに松下幸之助や鈴木清一(ダスキン)の事例を引きながら、日本企業に根付いた修養の関係史をまとめています。

「関係史」と申しましたが、これは、修養の興りと変遷をめぐる本書の記述がとても因果的(科学的)だと感じたからです。修養の概念が世相や人物の影響を受けてどのように発展したのか、ほぼ時系列にそって、「原因─結果」のペアのもと説明されます(例えばp38、p68、p133など)。

そもそも修養自体、個人の思考や行動が自身の品性や処遇や成功に帰結すると説かれ、これが必然的に所属団体や社会全体の利益に寄与するとみなす、ものごとの関係を因果的にとらえた概念です(例えばp86、p152)。

本書は、修養の前提となる因果的思考をもって、修養の勃興を因果的に理論的に説明しています。

わたしたちはしばしば、自分の人生を思って「どうしてこうなってしまったんだろう」とつぶやきがちです。自身が成熟していても未成熟であっても、個人史を何かの結果だととらえ、その原因を自身の内外に見出したくなります。

自己啓発や修養は、その思いにわかりやすい─ゼロか100かの全称的な─因果関係の提示や例示でもって答え、宙ぶらりんの煩悶を和らげる作用があるのではないでしょうか(これもまた因果的な説明です)。

人間は自身のサスペンスに耐えられる生き物ではないのですね。疑問を疑問のまま放っておけないのかもしれません。マンガや映画やドラマの考察─真因の探求─が流行るのも、そういうことだと理解しています。

なおご参考までに、世界や個人の、今目の前にある現象の奥底に原因を絶えず求めてしまう心性─好奇心─の歴史については、ハンス・ブルーメンベルク(忽那敬三訳)『近代の正統性 II ─理論的好奇心に対する審判のプロセス─』が面白いです。


前田泰樹、水川喜文、岡田光弘(編)『ワードマップ エスノメソドロジー ひとびとの実践から学ぶ』(新曜社)

世界に対し、疑問や結果が存在するからには答えや原因もまた存在しなければならない、と求めるのはあまりにも負荷の高い考え方ですが、ものごとに秩序があることを認め、その秩序を少なくとも説明可能であると捉えるのは、十分妥当な考え方だと思います。

本書は、「どのようにしたら人びとの行為を適切に理解できるだろうか」(p38)という問いに答える学問的伝統「エスノメソドロジー」の概説書です。
『急性期病院のエスノグラフィー』(前田泰樹、西村ユミ)や『エスノメソドロジー』(ハロルド・ガーフィンケル(山田富秋、好井裕明、山崎敬一訳))を読んだことはあるのですが、この分野を十分に理解しているとは言えないので本書を読むことにしました。

基本的に、どんな本であれ、本の内容をまとめるという作業はたいへん困難な作業なので、ここでは避けますが、本書はたいへん素晴らしい内容だったので繰り返し読み直したいと思います。


上で「因果的」と申しましたが、これは問題のある言い方で、推論と呼んだほうが適切でした。学術書に推論が書いてあるのは当然ですから、上の私の文章は何も説明できていません。

私たちは日ごろから推論をおこなっています。日常の推論の様子を常識的に描くこともでき、あるいは統計的因果推論として記述することもできます。それらが合理的な推論かどうか評価することもできます。推論はふつう複数あるのに、どういうわけか、私たちはそのどれか一つを決定的な、優先的な(つまり合理的な)ものとして特別視しています。どれでも等しいなどと、形式的にとらえたりはしていません。

これは、人間が、同時に複数のことを考えることができ、しかもその中から一つを選択できるからこそ生じる現象です。私は、知性ある生き物に当然備わっていると思われがちなこの能力は、実はすぐれて特殊な能力なんではないかと思い始めています。

そうすると、自己啓発や意識高い系の論調というは、推論の複数性を極端に切り詰めて初めて成立するものだと思えます。

最も合理的と自分が思っている物事には、他の合理的な説明がいくつも成立します。可謬性を忘れないことと、そこらじゅうに無数の選択があったことを忘れずに、慎ましく生きてまいります。


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