見出し画像

義父との尊い日々

私がこちらへ嫁いできて28年。


「都会から嫁さん、来てくれるんやから、キツイこと言うたらアカンよ」と、義母の義父への言葉がけではじまった、義両親との同居。


親でもないのに、「義父さん」「義母さん」と呼ぶのはどこかこそばくて、それでも「よいヨメにならなくっちゃ」と必死だった。


義父は、義母、夫がいうように「外へは良い顔をする」一面があって、本来は会話術やコミュニケーション能力は抜群だが、家のモノに対しては、いわば「働くコマ」のそれ以上でもそれ以下でもないので、私にも、雑談のひとつも話しかけてこなかったし、私も人との会話は苦手なので、距離は縮まることはなかった。


仕事のことも含め新しい生活に慣れるのに必死だったし、何にしろ義父は家族の中でいちばん畑にいないし、私たちが寝た後に帰ってくることもザラにあって、共に時間を過ごすことが少なかった。


畑に出てくるのは、義母と一緒にする薬剤散布の時と、親戚の人に手伝ってしてもらう柿の摘蕾や収穫の時に、随分と遅れてやってくるくらいのことで、あまり一緒に仕事をした覚えがない。


それでも、昔の人で、特に息子が生まれると、たいそう喜んでくれて可愛がってくれた。
可愛がりように差がありすぎて、娘が可哀そうに思えるほどに。


息子のことが可愛すぎて、息子が私に叱られ泣いているのをみて、一度だけだけど、胸ぐらを掴みにやってきたこともあるし、庭で懸命に息子にサッカーの自主練で声を掛けようものなら、「そんな毬(まり)蹴りみたいなものさせて」と、つっけんどんに言われた。

その時は、かぁーーーーーーっ!(怒!)ときたが、「義父さん、こんなサッカーの自主練習ができるくらい広い庭、普通はないでぇ。すごいなぁ!」と言うと、自慢の庭を褒めちぎられて気は悪くなかったようで、「そうか!」と、ご機嫌で返ってきた。


私も負けじと、年月が経つにつれ強くなり、義父とのいざこざがあった時に「義父さんのような、昔ながらの考えの舅のいるところなんて、誰も嫁いでこおへんよ!」と、言い返したこともある。


それに、山椒の栽培が始まってから出来た、私たち夫婦と義両親との溝は深かった。


当たり前だ。
私たちが担当する柿は、山椒の売り上げに比べれば比べ物にならない位に少ないし、山椒が大きくなり収穫量が増えてきて、自分が高齢で身体が動かなくなったうえ、いよいよ手が回らないとなると、私たちが駆り出され無償奉仕に近い形で仕事をしても、なかなか手放さなかったので、特に夫と義父の確執は深くなっていった。


義両親は、私たちのことを「あのもんら(あの人たち)」と敵対視し、家のなかはギスギスし、夫と義父が喧嘩するうえに、義母と私が加担することもあった。


若かりし日、外の味に舌が慣れた義父が、私の作ったおかずを全くというほど食べてくれない時には、「普通、人が作ったおかずをこれだけ残すなんて失礼ですよ!」と言ったこともあったが、大好きなお粥だけは平らげてくれて、「実父にはお粥さえ作ってあげること出来ひんかったなぁ」と思うと嬉しかった。


それに共に暮らしていると、何かしら何気ない日常会話は生まれるもので、ごくまれだが、義母以上に義父とは会話をした。


それに、自分が仕事をしない後ろめたさもあるのだろうが、義父は時々家族のために、「これ、食えよ」とテーブルに自分が買ってきた何かしら食べ物を置いてくれた。

いちど、義父が蜂に刺されて、アナフィラキシーショックで救急車で運ばれたときには、私が背中をさすると、たいそう感謝して喜んでくれた。


子供たちがいよいよ大学に入学するころには、やっと全部を譲渡してくれるようになって、家が丸く収まる感じはした。


義父母はその時期に農作業を引退することになったが、数年後に義父のがん治療が始まり、途中余命宣告まで受けた。


それでもそんなに会話することはなかったが、その状況が一転したのは、昨年6月の事。

急に義父の状態が悪くなった。


義父は「お別れの挨拶をするんだ」と言って、私たちに「お前らは、本当によくやってくれている。おおきによ」と言ってくれ、私たちは「義父さんと義母さんがずっと畑を守ってきてくれたから・・・」と返した。


加えて、「実のお父さんより、長く一緒に居れて嬉しかったよ」とも「ここに嫁いできてよかったよ」とも伝えた。


義姉もかけつけて誰もがその時を覚悟したが、生き延びた。


だけど、伝えたいことを伝えることができて、もう言い残すことはないなというのが私の心の内だった。


それから、義父の状態は徐々にではあるが、悪くなっていくのが、目に見えて分かった。

足の筋力が衰えて、家の中でも手押し車を使うようになったのもこの頃だったし、時々タクシーで出歩くことはあっても、寝る時間も増えていった。


奇しくも、それがきっかけとは言わないが、何かと手助けすることも増えることもあって、私と義父の距離感も縮まり、会話をすることはさらに増えた。

夫は、義父が肝臓を患っているにもかかわらず、台所の食卓テーブルで晩酌をすることが増えたが、それがちょっぴり羨ましくも思った。


義父が、入院前に家で介護を要したのは、ほんの数週間のことだったが、そのあいだ、食事を手伝ったり、着替えを手伝ったり、何かを手助けするたんびに、「おおきによ」と繰り返し言ってくれた。


入院の日の朝、さいごの食事を運びに行くと、「kakiemon・・・。せっかく先生が手配してくれたし、行ってくるかな?!」

穏やかに、私に問いかけるように聞いてきた義父。

それに加えて、「もうおとちゃん(お父さん)は、お前と長く一緒に居てやられへんかもしれん」と言っていたのを思い出す。


言葉が適切だったかどうか分からないけど、「もう十分一緒に居てくれたよ」と涙声で返した。

私も、それなりの覚悟をしてのことだった。


その日の朝食に出したお粥を平らげ、「こんなふうに炊いてくれたら嬉しいよ」と言ってくれ、かぼちゃを一切れ食べてくれたが、最期の義父の思いやりだった気がしてならない。

そのときは、気付かなかったが、食欲がどんどんなくなっていき、痰に血が混じっていたというから、柔らかく炊いたつもりだったが、固形物は食べれなかったと思う。


本当は、家で逝きたかったであろうことは知っている。


私がもう少し踏ん張ればよかったのか・・・と、多少の後悔もした。


それまでは、ここの義両親に対しては、実両親にたいして以上に孝行したから後悔はない・・・とずっと思っていたけれど。


共に過ごした30年近くものあいだ、もちろん、何度となしに同居したことを後悔したこともあったし、家を出たいと思ったこともあった。


だけど、28年もの間、実父以上に感情をぶつけ合い会話し、そして、最期にこんなに尊い時間が流れるとは思わなかった。
なんて優しい時間だったのだろう。

亡くなって、仏の間の棺で眠る義父を前に、セレモニー会館の担当の方が、「女性のかた、ちょっと・・・」と呼び出され、「家を出るまでの間、一日三回、ご飯を炊いてお茶碗にお供えしてあげてください」と言われたときには、「えっ?!1回1回炊くんですか?」と思わず聞き返してしまったけど、最近使い始めた土鍋で焚く作業も尊かった。


お坊さんの都合で、家を出るのが一日延びたので、余計に回数を重ねることができた。
柔らかめのご飯が好きな義父のことを考えて、少し水を多くし、ほんの気持ち規定の時間より短めに火を止めると、上手い具合にご飯が炊けた。


祭壇を決めるときには、義兄も義姉も居るのに、私のひと言で決まった。


義父が「派手にやってくれ」と言ってたように、豪華に煌びやかに見える出来栄えだった。
家族葬という割には、交友関係が広い義父らしく、大勢の方が来られていたので良かった。


お悔みのお言葉に加えて、「きっと義父は幸せだったし、私の伝えたいことは伝わっているよ」と、何人かの方がコメント欄で伝えてくださったこともあり、上手に気持ちを切り替えることができそうです。


ありがとうございました。


昨日から仕事を再開しているが、うまいこと雨の日を挟み、いい具合に軌道に乗れそうだ。


やっぱし、義父はそういうことも考えて、亡くなる日を選んだのかなと思う。

この記事が参加している募集

noteでよかったこと

今こんな気分

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?