中島梓『タナトスの子供たち』について

「やおいは「強姦」を「愛してるよ」と翻訳する、そういうシステムです。」(p. 88)

 断言しているが、これはもちろんやおいに限ったことではない。
 『センセイ依存症』という電書のTLマンガに、小学生の女子が男に下着を触られて「嬉しかった」と感じる描写がある。まあこの場合は強姦されたわけではないし、彼女は人の性的部位の意味も教えられず理解していなかったのだろうから、うれしいと感じることが絶対ないとは言えない。
 しかしながら、私は同時に映画の『ジョニーは戦争に行った』の冒頭も思い出す。戦争で身体のほとんどを失うケガを負った主人公を前に、医師たちはこういう会話をする。

「どうしてひざを曲げてるんです」
「生殖器を守ろうとしているんだ 本能的にな」

このとき主人公は意識不明であるが、自らの局部を守る姿勢をとっている。その部位は「防衛すべき箇所」として私たちの意識できない形で印づけられているのかもしれない(これについて生物学の知見を補完することは後の課題だ)。
 たしかに、股間に手をやられることを「自分のことを可愛がってくれている」という愛情として翻訳することは可能だと思う。しかし、「防衛すべき箇所」が防衛されなかった恐怖の手触りは、たとえ即座にではなくとも、自覚がなくとも湧き上がるおそれがある。気絶しているジョニーが膝を折り曲げるようにである。

アニパロ同人誌の世界

 著者は述べる。虐げられ、自尊心を踏みにじられ、自分にはまったく価値がないと感じている少女たちは、「優しいディスコミュニケーション」(p. 95)の世界であるやおい界隈に集う、と。ただ、筆者はその界隈の中にある優しさに、嘘臭さというほどでもないが奇妙さを感じてもいる。これは私も全く同感である。
 この優しさは、実のところ息苦しさとほとんど同じである。同席し密な交流をし、それぞれ能力も特性も違うお互いのことを知りつつあり、その上で全員が全員に等しく良い感情を向けようと思えば、当然のこと無理が生じる。「みんな一緒」では自分が優れていることの実感もないから、誰にけなされなくとも各自がじわじわと自尊心を食いつぶし、狭いコミュニティ内で内心の見下し合いを開始する。 「優しさ」というのは、この軽蔑を押し隠しつつ、必死に相手を持ち上げあうことである。ある一人のオタクが決して相手をけなさないのは、「そこ(同人誌界隈)の他人たちだっていつでも自分をけなす用意があるのだ」と思っているからだ。
 この人たちはつねに他人に目を光らせていて牽制し合っており、非常にコミュニカティブである。こんな「ディスコミュニケーションのコミュニケーション」に満ちた場所が本当に逃避の場としてふさわしいのか、私は全く疑問である。彼女たちはコミュニケーションから逃避したというよりも、より人格崇拝の度合いを強めたコミュニケーションの作法を編み出しただけではないか。
 著者はその作法に、誤解や軽蔑にいつでも遭遇しうる本来的なコミュニケーションを対置する。しかし、彼女たちはまさにその誤解や軽蔑こそが絶対的に耐え難いのであった。一方には本気で思っているわけでもない称賛の必要性があり、他方には誤解、軽蔑されるという最悪の可能性がある。いったいどこに逃れれば自分たちは安心できるのかと、少女たちは叫ぶだろう。
 一つの提案としては、コミュニケーションについて優しい/厳しい、真正/欺瞞的といった区分を設けるのではなく、そもそも情報がリアルタイムで交通する速度を制限してはどうか。もはや部室には沈黙が満ちていなければならない。自分自身とフィクションの世界に集中し、他人の挙動を逐一監視していてはならない。むしろ同席する必要もない。他人を、うっかりその名を口にできない神として遠ざけておかなければならない。沈黙交易のようにして情報を交換し、非人格的な痕跡によってのみ他人の存在を感じなければならない。彼ら彼女らはそこまでしてやっと一息つけるのではないだろうか。
 もう生の言葉を次々に投げつけ合うのはやめにして、情報をある程度まとまった単位に厳選し、その交換に時間差や空間差を取り入れたらどうか。ブログとその読者、メッセージなど投げないが見ているSNS、とくに雑談もしないで黙々と各自読書に励むサークル、必要最低限の言葉しか交わさずに帰路につく同人イベント。視聴者のコメントがない、そもそも視聴者のないままに継続されるライブキャスティング、またはその録音。死んだ言葉を他人の目につくように陳列しようと思うなら、昨今いくらでもやりようはある。そんな寂しいことはできないとか、やってはみたけど空しくて二度とごめんだというのなら、その人は今までの規模と速度のコミュニケーションでやっていけばいい。本当に疲れているときは、その寂しい情報交換に不思議な満足感があるはずだ。
 そうやって死んだ言葉を並べているうちに、もうこんな物足りない行為はうんざりだ、もっと目まぐるしい交換が欲しいのだと思えてきたならば、それこそあなたが十分に休息を取れたという証なのである。満を持して、不毛かつ不快なコミュニケーションを再開すればよい。
 リスクとリターンは同時に取るか、同時に諦めるかしかない。そして投資でよく言われるように、自分に余剰資金があるときにだけリスクを取ってリターンを狙うべきなのである。

中島の苛立ちと少女たちへの同情

 著者の文章全体には、「自分はやおいというジャンルの生みの親である」という自負がにじみ出ていた。そして彼女は、自らが切り拓いたやおい黎明期を黄金の時代として回想するが、それ以降のBLというジャンルについては限定的な評価しか与えていなかった。じっさい議論の展開としては、やおいに当初あった革命性・先鋭さが失われて、現状に迎合したBLになってしまった、というものになっている。「やおい」に共感を寄せる者の数は中島が当初思っていたよりも非常に多く、やおいの後継者が次々に現れたが、その大衆化は中島にとって必ずしも好ましい結果には思えなかったらしい。例えば「ウケ、セメは美しい男に限る」というルッキズムや、肉体関係と恋愛とをイコールで結びつける信仰(性と人格の同一視)がジャンルを席巻してきたことに対し、中島は苛立ちを隠さない。なぜなら、それらは少女たちをずっと苦しめてきた当の価値観だったのだから。
 自分を傷つけるものから逃れながら、そのパロディであるようなフィクションに依存しなければ生きていかれない。そんな少女たちに、中島は同情の目を向けている。本書の煮え切らない論調の理由はその同情にある。中島は、大きく発展したやおいコミュニティを「誰も傷つかない楽園」という共同幻想にすぎないと突き放しつつ、「いいじゃないの幸せならば」と肯定もしてみせる。彼女は、牙を抜かれたBL作品について「それは少女たちを傷つけてきた価値観の再演だ」と断じつつも、BL作品に依存する少女たちのことを責めたくはないのだろう(「自我を確立していない」等、ところどころ見下しているような表現もあるが)。
 何かに依存しなければ生きていけない時というのはある。たとえその依存対象が自分を苦しめてきたもののパロディであったとしても。私も、その点についてだけは同意見だった。本書のように、依存して何が悪い? と開き直る気にまではなれないが。


 私は、やおいという自分の知らないジャンルに対する野次馬根性でこの本を繙いた。ただ、やおいという一ジャンルの特権化に昨今あまり意味はないのかもしれない、という結論に至った。結局、人が集うところに興るのは私の知っているあの不毛なコミュニケーションだからだ。やおいもBLも、そこで挙げられる共通の話題のひとつに過ぎなかった。
 ひとたびコミュニティが形成され始めると、結局はコミュニケーションの息苦しさが回帰する。当初、「やおい」に逃避場所を求めてコミュニティに参入した人たちの中でも、そこも結局は一つの教室でしかないことを理解し嫌気がさした人たちはじきに撤退するだろう。その後、彼ら彼女らはあまりジャンル自体に拘泥せず、複数のクラスタを渡り歩きながらやっていくのではないかという気がする。

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