美術品テロリズムに対する雑感

言及の元となった記事

この記事の話題に刺激を受けてこの記事を書きました。

追:20240509 AM 公開後に文章を若干直しました。

アルカイダの斬首の構造

ぼくが美術品テロリズムの出来事で連想したのは、2000年代のアフガニスタン・イラクで続いた戦争の中で行われていたアルカイダによる相手国の戦争関係者に対する斬首行動でした。

国内にて活動している戦争関係者を拉致して、身代金の要求をし、それが通らなければ、拉致した人間を斬首しその様子をインターネット上に公開するという内容です。

なぜあのような示威活動をするのでしょうか?
あのような活動の背景には、構造の巻き直しとも言えるようなものがあると考えます。
国際資本とグローバリズムを盾にしながら自国に対して文化的・武力的侵略をしてきた相手国に対して、その構造と同じようなことを拉致によって保護から孤立した個人に対して行う。
つまり、「お前がやっているのはこういうことだぞ」ということをデモンストレーションしてみせる行動がこのアルカイダの斬首行動と私は見ます。

美術品テロリズムへの見方

さて、あらゆる示威行動がこういう性格を帯びているとしたら、世界各地で起きている美術品に対する抗議活動は果たしてどういう意味を帯びてくるか?

美術品というのは単に価値のある絵なわけではないですね?
ある意味では投機対象でもあり、さらなる価値の増大を約束してくれるものでもあり、金をそこに掛けている限り確実にその価値は持ってくれる・保ってくれるような財であると見ることが出来ます。みんながその美術品をほしがる限りという前提において。

資本というのはあらゆる活動の元手であって、それはとある地域に対する開発も例外ではありません。環境破壊につながるような開発もその元手となるお金をどこかから引っ張ってこなくてはなりませんから、その時にあらゆる人間の活動の蓄積や委託の結果である資本からそうした開発活動資金を持ってくるわけです。

この時芸術はどういう役割をしているかというと、むしろそのような活動に反抗するどころか、財として活動する限りにおいてそうした開発活動に加担している存在になってしまっています。
資本をモノに変換したときに利を生み出し続ける財として機能し続ける美術品は、資本の保存機能を損ねるばかりか、むしろその機能を強めていて、最終的にはそうした環境破壊活動・開発活動に対する支援を迂回的に実現してしまっている。
美術品というモノはそうした機能のモノでしかなくなっていると。

では、なぜ美術品にトマトスープをぶっかけたりするのだろうか?
さきほど、アルカイダの事例を挙げたときにこういうことを書きました。
アルカイダがディスプレイの対象に対して「お前がやっているのはこういうことだぞ」と示威活動を行っていると。

トマトスープというのはアンディ・ウォーホルのプリントスクリーンの技法で大量に描かれたトマトスープの絵が有名ですね。
そういう意味では、トマトスープは工業や生産の象徴であるとも言えるでしょう。それで美術品を物理的に傷つけようとしているわけです。
トマトが実際の開発と関わっているのかは分からないのですが、森林の破壊によって作られるのは石油拠点の創設や農地の開発などが挙げられます。
つまり、あなた方の手元に満足できる品を送ること・さらなる生産や事業の拡大のために、環境が破壊されていき、その結果若者の未来も地球環境的により不明瞭な状況になっている=犠牲になっていると見ることが出来るでしょう。そして、芸術品は資本の保存機能を通じてそれに加担している、と。
つまり、「おまえらがやっているのは、工業品の生産・製造、または購買・消費を通じて、芸術そのものの価値や実在の意味を傷つけている」ということをディスプレイするのがあの活動の意味なのではないでしょうか。

そして、「あらゆる芸術品というものが単に現在の環境破壊活動を始めとする、開発活動といったものに資本の形で関わるものでしかないのであったならば、むしろそれは破壊された方が世のためではないか?」という問いかけを含むような活動とも言えるでしょう。

芸術的なものの価値について

芸術を自分はどう捉えるのかというと、「音楽や絵画などという作品形態に身に迫る実態や本質的な視点、ある種の真実が入ってきてしまうのが芸術」と自分は書きました。ゴッホも絵を描きながらその表現を酷評されながらも自分の絵が売れるか認められるかどうかを苦心しつつ活動しました。
この場合は、渇望や希求のようなものが作品そのものに入り込んでいます。
ゴッホの場合、悲劇的な結末を迎えたものの、最後まで自分の表現にこだわり向き合い続け、自らの全てを絵という活動に注ぎ続けたその姿勢が人々の胸を打ち、そこに人々は価値を与えたのではないでしょうか。

その性格を含んでしまう自己表現やその活動を芸術的なもの、と考えます。

最後に対象となる記事について

こういう背景について僕が考えることがなかったならば、たぶん自分の見方もこういう人たちは変な人たちで終わっていると思います。
また、Xをはじめとする世間一般の論調も「この人たちは変な人だ」という認識であるのではないかと思います。

あらゆる人が姓名を持って活動している=職業と結びつけられている、ということはあらゆる人がその社会に対して立場を持っていると見えるのではないでしょうか。社会に対して立場を持つというのは、社会機能を保持する立場として各人が役割を持っているということで、それは「プロ」と呼ばれる人たちであるならば例外はどこにもありません。
そういう人たちが果たして、自ら所属する機構に対する不信を募らせるような言説をわざわざ解説したりするのでしょうか?
それはある意味では、自らの職位に対する存在理由に対する疑念を生む活動を自らに対して行うということでもあります。
「あれ?自分ってなんでこういうことをこの立場でやっているんだっけ?」
人は良いことを目指して各々の目的意識を持って自立的に活動するものと思われるのですが、そうしたこと――ここで言うと、資本に対するあらゆる活動が環境破壊につながっている。アートという領域でさえも。――を意識することを望む人は果たしてどれほどいるのでしょうか?
では、それが本当だとして、何で我々自身が不利になるような解説をわざわざこの立場にいる自分が自分の姓名でもって行うのか?
そういう視点からもこれを見ることが出来るでしょうし、その結果がここで紹介した人たちに対する一般的な論調の表れ――「こいつらは許せん・変な人たちだ」――なのでしょう。
著名と言われている人たちにそうした試みを行う心はあるのか?
そういうことは問うてみても良いのかもしれないですし、それが出来ない・関心がないからこそその立場にいて、私はぐずぐずこの立ち位置にいる。
私もそちら側に意義を感じつつも、そういう話でもあるのかもしれません。

最後に誰が虎なのか?狐なのか?についてですが、一体誰でしょうか?
僕はよく分かりません。
僕の視点から書き表してみるならば、ちょうどお札には福沢諭吉の顔が描いてあるわけで、借りるにはちょうど良さそうな顔ではあります。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?