フィクションとリアルに対するつぶやき 2024-01-02~2024-01-03

ツイートとして連続で展開するには自分の描画力が足りないので、書きながら整理できるこのnoteで書くことにしました。
含み込みたい論点もまだいろいろあるけれど、それは時間が経ってからなのかなという感じです。

・フィクションとリアルを「区分けできる」人にはとあるフレームが存在する

自分は大晦日にTwitterで「フィクションはそもそも自分がそれを手に取ろうと思った理由は何よ?」という話があるのでは?と書いていて、まあなんか入り口みたいものがあると。作品は作品を楽しむという上で作品を見るし、とあるフィクションに目を通す上で何かしらの決まり事を持ってその内容を眺めるみたいな態度がある、と。
物語を例にすると、
姓名を持った演じる役者【リアル】// 物語に登場する役【フィクション】
実際に存在する地域や場【リアル】// 物語上の地名・場【フィクション】
その作品 - フィクションを手に取る動機そのものが物語をフィクションとして見るための取り決めになっている。
これはたぶん、フィクションをフィクションとして最大限楽しみ没入するための態度なのかもしれないし、そう見るとある意味では真っ当な態度であるのかもしれません。もしもフィクションの中からあなたの両親が出てきてあなたの名前を呼んだとしたらあなたが楽しもうとするフィクションとしてはよく分からないものになってしまいます。
いろんなレベルでそのフレームはあって、ある映画を手に取ったならその先で展開されることはフィクションとしてみなすだろうし、もし全てがリアルの素材でもって展開されているのであるならば、それであれども「ここから先はそのように見るべきである・見ると良い」という態度がある。会場の入り口に入ったらとか開演のブザーが鳴ったらでもいい。
フィクションを最大限フィクションとしてみるための態度がある。どこから始まるかというと、それは手に取った時点からなのではいか?と自分は見ました。

・現実への耽溺は現実を見るべきであるということを暗に訴えている

以前の自分を振り返りつつ思ったのは、現実への没入は現実に対する考慮を持ち深めるように周囲に示していることがあったのでは?ということでした。リアルの素材で「無力な」フィクションをまくろうとする。
フィクションといえばそれは作り話であって、金融経済の法則ではないし、政治的な知識ではないし、とある真実に対して直接的にそれを表現してくれるものではありません。
いくらフィクションが存在するからといって自身を取り巻く現実が変わってきたことはなく、むしろフィクションが現実に何かを解決してくれるのであるならば、現実の自分に対しても何らかの解答や解決があったっておかしくないはずである、と考えるのも不思議ではないと思います。
自分を取り巻く現実が変化することを望んでいる。
本当はこのような人間こそフィクションに救われてもおかしくないのでは?と思う。けれども、そういう態度を取ってはいなかった。
フィクションを手に取るそもそもの動機というものが何かを楽しむとか何かを得るために手を伸ばしたというものになる。ここに冒頭で述べたようなフレームの一線が関わってきて、なぜフィクションを人は手に取ったのかという動機の部分はフィクションを見る上では全く邪魔で、まるでフィクションが現実と分離されたバリアのような構造の中にあるのだとしたら、現実を知るためにそれは適当なものなのでしょうか?そういう視点から現実への耽溺が生まれるのでしょう。

・フィクションをリアルへ行使することは基本的に楽しいことである

例えば、何かのマンガの主人公になってみたい、と。で、そのような振る舞いを真似してそれでうまく行ったならば、それは楽しいはずである。
成功へのサクセスストーリーがあるとして、あなたはとあるジャンルの活動に身を投じていって、実際にあなたは成功の実感を得た、と。
モデルや型みたいなものがあって、それらは伝記でも実話話でも神話でも何でもいいのだけれど、話として流通している中にそういう真似ごとに値する型やパターンを通して実際にこのリアルにおいて行使する。
自分はおそらくその過程は楽しいものであると思われる。
自分がそれを楽しいと感じることよりは、それが楽しいものであるからこそフィクションに傾倒したり参加したり従事している人がいて、現にそれを目指したり実際にやったり、場所の大小を問わずそれを行っている人が現実にいるというところから考えたことです。

・これはパブリックとプライバシーの議論に関連しうる

最初にフィクションにはとあるフレームがあると書きました。
フィクションとリアルの区分けが必要である!と主張していたとしても、そういう楽しみ自体はあるわけで、そうしたフィクションの領域をとある圏域で楽しんでいる人だっているわけです。
自分はそうした圏域が、まさかプライバシーの領域がそれになるのでは?と考えました。
何かの約束事を共有しあった中で、そうしたフィクションに由来する楽しみを共有する関係があるのかもしれません。
しかし、パブリックとプライバシーの境目はあらゆるところにあります。
国民としての自分・法に縛られる人間としての自分とプライバシーな心の中、職場に属する自分と自分の私生活、このグループに対する自分とあのグループに属する私‪…‬‪…‬。なんかいろんな網があるぞ、と。
それらのボーダーはおそらく自分や相手の活動によって適応範囲が変わってプライバシーであるはずの行為がパブリックな法律の範囲で判定されるということも生じうる。また、プライバシーの領域にあるあなたの楽しみをパブリックの領域に広げていくこともあなたの活動次第でも可能でもある。
そうしたところにフィクションの可能性があるのかもしれません。

まとめ

フィクションに対する態度の始まりは、それを手に取ったところから始まる。そのことに対して、フィクションを手に取るということはそのもの自体が現実に対する具体的な思考の放棄ではないか。
しかし、フィクションを現実に行使していくことは基本的には楽しいことであり、それはどの圏域で展開するかにパブリック/プライバシーの話題が乗っかってそのボーダーはそこに関わる人間その人の活動で移動しうる、みたいなことを書いてきました。

ちょっと書いて見直しながら思ったのは、割と現実とフィクションはシームレスだなと思ったし、フィクションを手に取ることは自分のことに置き換えて具体的なものや人に手を伸ばすことと相似で関連付けてみることもできるなと思うし、自分を取り巻く具体的な「リアル」――戦争や災害が起きている・お金が無い・何か困ったことが身近に発生している、などなど――でさえも、自身が手を伸ばせる物事に関わることで変えうる部分もあるのかもしれません。
フィクションそのものの構造――フィクションを手に取る過程を含んで――は、自身の活動へのなにかを形式的に教えてくれるものかもしれません(そうすると「【フィクション】はフィクションである」ということになります‪…‬‪…‬か?←)。

また思いついたら次回、またはツイートで。

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