愚者一徳ならぬD次郎の「一徳」
プロローグ
「愚者一徳」という言葉がある。
この言葉は、「愚か者でもたまには良いこと言いますよ」的な意味で使われることが多い。
たとえば、「愚者一得ということもあるので、人の上に立つ者は広く意見を聞く耳をもたなければいけない」とか、「別紙にて、この案についての私見を述べさせていただきました。愚者一得ということもございます。」などがわかりやすい。
私はこの言葉と出会った時に、とても心に響いたのを今でも覚えている。
意味をしっかり理解してというよりは、見つけた瞬間にストレートに心に突き刺さった感じだった。
そもそも「愚者とそうでない者」それの境界線がどこにあるのか?
はっきりとした境界線を定義できないという曖昧な境界線こそが、逆に境界線になっている?
誰しも愚者にはなりたくないが、誰も賢者になる方法がわからない。
境界線はあいまいで、簡単に行ったり来たりできる。
今日の賢者は明日の愚者。
誰が賢者?で、誰が愚者?
こういったはっきりしない霧がかかったような曖昧さが、自分の人間性と重なって気に入ったのだ。
D次郎という男
ここまででも少し語ったが、私はとても曖昧な人間だ。
何をやっても長続きしない。
熱しやすく冷めやすい。
思い描く理想はそこそこ高いのだが、日々の忙しさに理由をつけてここまで何もしていない。
そんな自分の「今」に満足してなくて、それでも変える努力よりも楽な「今」に甘えている。
ここまで自分を卑下して書くと、あまりにもダメ人間さが露出されてしまうため、落ち込んでしまう。
とはいえ、こんな私でも、趣味や好きなことがまったくないというわけでもない。
家族と過ごす時間は癒しになっているし、どうでもいい事をいつまでも考えて熱中しているときは意外と充実している。(すぐに飽きる場合もあるが)
実際、この記事も思いついたことをそのまま書いているだけだが、意外と楽しめている。
要は、どんな小さなことでも「楽しめる」ということが重要で、それは意外にも自分の長所なのでは?などと考えたりもする。
というこで、D次郎を一言で表現するなら「熱しやすく冷めやすい。自分というものをはっきりもっていない境界線曖昧男」といった感じだろう。
このコンテンツでやりたいこと
こんな感じなので、日々いろいろな事を考えて妄想することを楽しんでいる。
しかし、それらを整理して何かに活かしている訳ではないので、凄く勿体ないのではないか?と、最近ふと思うようになった。
そこでとりあえず、自分の思考を整理するということを大目標にこのコンテンツを作っていこうと思う。
好きなことを好きなように書いて、勝手に自分が満足できればそれで良しだ。
読者の皆様へ
私の好きなことを好きなように書いています。
せっかく読んで頂いたのだから、少しでも身になればなんて全く思っておりません。
それでも、もし面白いと感じていただき、少しでも役に立つ、活用できるなどと思っていただければ幸いです。
皆様にとって、D次郎の記事が「愚者一徳」となりますように。
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