2021年のあゆみかた

年が明けた。今年は2018年ぶりに東京で年をこした。年末の東京は普段のにぎやかさが嘘みたいに静かですきだ。今年はいつもより少しばかり人の気配がしたがそれでもやはり静かだった。

東京暮らしも5年。いつの間にか4年の札幌暮らしよりも長い時間を東京ですごしていたようだ。

実家に最後に帰ったのは2020年1月。今、十勝にはどんな空気が流れているのだろう。11月に結婚式で札幌に帰った。かつて生活の中心だった街なのに今暮らしている街と全く違う空気が流れていることを感じるほどに自分は東京の人間になったようだ。

札幌に帰ってから自然と共に生きることを心や身体が訴求している。

0か100か、白か黒か、善か悪か。グラデーションなき二項対立に疲れたようだ。

社会はどんどんアップデートしていき、よりきもちいいものが差し出されるようになっていくのだろう。インターネットではわかりやすく刺激的なことばばかりが目に入るから目に入る情報を意図的に絞ることにした。

もともとデジタル人間の自分だが、最近はアナログの価値に惹かれている。手触りの実感、自分の手で感じて、目で見て、空気を帯びること。

珈琲をハンドドリップで淹れることが日課になった。自炊は食材との対話。昨日、ミドリのノートを買ってきた。これからこのノートを日記帳にする。字が汚くともこの紙に万年筆で文字を綴り、自分の手で、自分のことばを、誰に見せるでもなく、綴っていこうと思う。

文学や芸術を身体が欲している。粗くなった世界の解像度を取り戻すように心が世界を欲している。しばらく離れていた読書や芸術鑑賞を再開した。

先日マヒトゥ・ザ・ピーポーの『ひかりぼっち』という本を読み始めた。彼のことばは私の身体にとても調和するのだ。彼をきっかけに久しぶりに青葉市子さんの歌を聴いてすごしている。彼女の唄も私の心と調和する。

彼らに共通しているのは流行りや快楽を差し出すのではなく、極めてプリミティブな音楽を奏でていることだ。原始的でありながら革新的、根源的でありながら未来も鳴り続ける音。きっと今年の私の心の支えになるだろう。

2021年はどんな年になるだろうか。どんな年にしようか。

2020年は壊れたものを拾い集めて、ほころびた自分を再建するような1年だった。1年かけて自分が自分であれる自分が戻ってきたように思う。

2021年は世間が求める正解には流されない。自分を磨き、心を磨き、美しいものの美しさに気づき、その気づきを誰かにまで届けられるような、豊かな人であろう。自分が自分であり続けること、心うつくしく生きようと努めることがきっとこの1年間の生き方。あ、あとはユーモアも忘れずにね。たくさん感動してたくさん笑おう。

豊かなおばあちゃんみたいに生きたいね。

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