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コロナ禍での実家帰省と祖母の変化と。

noteを書こうとするといつも「一定ちゃんとコンテンツにしなければいけない」という意識がはたらき挫折してしまうのだがあまりに更新頻度が減ってしまったのでTwitterの延長のような、あるいはもっと気軽な気持ちで今日はnoteを久しぶりに書いてみようと思う。特にメッセージもないけれどただただ最近のできごとと思ったことを綴っていく。

先日、約2年ぶりに実家に帰りった。新型コロナウイルス流行以降は初めての帰省だ。

1年以上帰省の期間が空くのは社会人になりたての年ぶりだった。

時の流れを感じた家の前の畑の変化

うちの実家の前にはとても大きな空き地があるのだけれど数年前にその空き地を使ってぶどう畑をつくりはじめたおじいちゃんがいる。帰省するたびに進捗を眺めているのだけどしばらく畑を耕すフェーズで自然を満喫するために帰省したのに肥料の糞の匂いを漂わせてよく不快にさせられたものだ。そんな進みの悪い畑に元気に植物が育っていて、ぶどうこそまだなってはいないものの時の流れを感じるには十分だった。

おばあちゃんと痴呆と

2,3年前からおばあちゃんは痴呆が進行している。今回こんな中でも帰省を決断したのはいつ記憶がある状態のおばあちゃんに会えるかわからないことも大きい。まだ名前を覚えてくれていて安心した。昔はとにかく働きもので気が強かったおばあちゃんはすっかりおばあちゃんになった。テレビを見ながらほのぼのと感想を言うおばあちゃんは別人のようにも見えるけどだけどやっぱりおばあちゃんだなと思う。

変わることをどんな風に自分が受け止めるのか怖い気持ちが昔からあったのだけれどいざ変わってみるとすんなり受け入れられた自分がいた。覚悟をする瞬間も時間もたくさんあったからかもしれない。おばあちゃんとお話をしてからトイレに行って戻ってくるときにおばあちゃんと廊下ですれ違った。するとさっき会話したことはすっかり忘れていた。ありゃりゃという気持ち半分、でもあの会話の記憶はきっとどこかに残っていて、おばあちゃんの中にお話ができたという満足感を残すことはできたんじゃないかな、という祈りが半分。

遠く離れていると会いたいなーと思うけど実際に会うとすぐに満足する自分もいる。耳の遠さ×マスク×ソーシャルディスタンスによってほとんど会話は成立しなかったけどそれでも会えたという事実だけで安心した。もしかすると会いたい気持ちよりも会えなくなる怖さの方が大きいのかもしれないと気づかされる。例え特別やりたいことや話したいことがなくても会える人には会えるだけ会っておいた方がいいとなんとなくそう思う。その分だけ自分の中に誰かをちゃんと残しておくことができる気がするから。自分にとって大切な誰かがいるという確かさを強めるほどに心豊かに生きられる気がするから。

コロナ禍での実家帰省

うちの地元は田舎だから東京に比べると感染者数は20人前後と大分少ないのだけれど都会よりずっとシビアだ。親の友人も外食には久しく行っていないらしい。帰省前にはかなり強めに自粛を行ったが空港PCR検査が予約がいっぱいで受けられず未知の感染力を誇る新株が蔓延する中で機内での感染可能性も否定できない。

そういったこともあり実家ではマスクを極力つけてご飯も別部屋で食べて過ごした。親もできる限りマスクをつけて生活をしてくれた。実家には自分の部屋がないので気を張りながらの生活はとても疲れたけれどこんな状況下で受け入れてもらえているだけありがたいと思う。

こんな状況下でのんきだとは思うけれどマスクをつけてソファーに2人並んで座っている両親の姿がなんだか可愛らしかった。そういえばお父さんは最後に会ったときより大分痩せたのでちょっぴり別人のような感じがする。

温度感や厳しさにグラデーションはあるけれど世界中で似たような事があるのだと思う。これが今を生きるリアルだ。

生きていて思うようにはいかないことはたくさんある。こんな状況じゃなかったらもっと楽しめたこともあるんだろうなーってことも色々ある。だけど今は今だなって思っている。いつまで続くかわからないコロナ禍だけどこの時間も一つの人生として、大事にしたいと思っている。

大変なことも色々あったけど今月を、今を、無事にすごせてよかったなーとしみじみ思う。

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