「好き」からも「好かれる」からも逃げたくなる

恋愛がむずかしいと思うのは。

恋愛はむずかしい。きっと古今東西だれもが言ってきたことだ。友達と恋愛の話をすると結論はいつだって「恋愛ってやっぱりむずかしいよね」そんなところに落ち着くのはよくあることだ。

でも恋愛をむずかしくしているのはなんなんだろう?だれなんだろう?きっと僕は人より恋愛が苦手だ。だからその気持をつらつらと書いてみる。

恋は胸が痛い。それは自分が恋をした時だけじゃない。誰かが自分を好きになってくれたとき、気に入ってくれたとき、同じように胸はちょっぴり痛くなる。

好きなるのも好きになられるのも怖くて。

僕は昔から恋愛が怖かった。いや、今もそうだと思う。

恋愛という要素が絡むと、友達だったものが友達じゃなくなってしまったりする。それがとっても寂しいんだ。あたりまえのように仲が良かった人と距離ができてしまうこと、もっと仲良くしたい人とと距離のとり方がわからなくなること。

どっちも同じくらいどこか居心地が悪い。

誰かが自分に好意をもってくれると、距離のとり方がわからなくなる。自分が好きになる人のことはなんとなく直感でわかる。こんな人好きになるか?と思って予想外の結果になった経験はない。

僕にとっていつだって好意をもつ人は、はじめて会ったときに「風の流れを感じる人」だ。

好きになれない人に好かれてはいけないと思う自分がいる。それと同じように好きになってくれない人を好きになってはいけないと思う自分がいる。

そう思って自分や相手を傷つけないように、恋愛に繋がらない振る舞い方、そうならない距離のとり方を無意識にするようになった。恋をする機会はめっきり減った。そんな僕の世界は平和で平穏だけれど、恋のない世界は少しさみしくもある。

恋はいつだって意味があるもの。

付き合うに至らない恋ははたして悪いのだろうか。恋で傷つけたり傷つくことははたして悪いんだろうか。

いや、そんなことはないはずなんだ。自分はなんとなく「恋」をタブー視して、聖域のように自分にルールを課してしまっていた気がする。

どんな恋だろうと相手にとっても自分にとっても絶対に意味があるのだから、無理に目をそらす必要なんて無いと思うんだ。

「付き合う」に悩まされる自分

自分にとって人と人との関係性はしなやかで曖昧でだけど特別なものだ。

高校生の頃、「友達と親友の狭間はなにか」という問いにぶつかって苦しんだ。ある友達は親友といえるけれど、ある友達はそういえない。そんな風にくくったり差をつけるのはなんとなく気持ち悪い。だけど自分の中で差は明確にあるという事実。そのむずがゆさ...!

それと同じように「付き合う」というくくりは自分を悩ませる。「付き合おう」ってなんなんだろう。付き合うは1対1というルールはどこから来たんだろう。宗教なのか法律なのか親なのか。

きっとそれは本能にインストールされているものではなく後付けで学習したことだ。

その後付でした学習を相手と自分がもちよって、お互いに認めあって「付き合う」が成立する。そのプロセスは自分にとってなんだか異質にも見える。

この悩みはナチュラルに生きたいが故のこむずかしさでもあるのだ。

付き合うとか結婚とかそういう契約に関係なく、好きな人といっしょにいて、なんとなくくっついたり離れたり、それが別に何人いてもいい。それがお互いを傷つけもしない。そういう関係性こそが自然な気がする。

そこにルールやシステムや文化が入ってきてなんだかこむずかしいものに思えてくる。そう思ってしまうのだ。

でもそうやってややこしいからこそ、制約があるからこそ「選ぶこと」に意味や美しさがあるんだろうなって思う。

もうめんどうなことに頭を悩ませるのはやめようって思う。好きな人を好きになって好きっていって、好きになられることも躊躇しない。自分からも相手からも逃げない。片思いは無駄じゃない。絶対にそう。だから大丈夫。自分は自分のままでいよう。

P.S.人がルールなく人を大事にするのはむずかしいし、子どもたちを責任をもって育てるだってむずかしい。人が自分以外の人に責任を持てる数や範囲は限られているから、そこにある程度のしばりは必要だってことは理解しています。それでも僕はここまで書いてきたようなことを思わずにはいらないのです。


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