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紙風船から学ぶ座禅と沖縄古武術空手

座禅と沖縄古武術空手の理解が、紙風船で繋がったというお話を書きたいと思います。

これもまた、体感を含む、目に見えない認知を表現するため、伝わらないかもしれませんが、この体に起きた事、そしてそれをどう脳が解釈したかということを書きます。

まず、月に一度に通っている曹洞宗の和尚様、藤田一照禅師の座禅会で、紙風船で遊ぶ大人たちの光景が目に入りました。

その日は15分ほど遅刻してしまったので、何をしているのか全く見当もつきませんでした。子どもの頃、よく紙風船で遊んでいたことを思い出しました。

一照禅師の座禅会はまず準備運動から始まります。
いつもは、テニスボールを踏み、足の小さな関節も伸ばし足裏の感覚を呼び覚ますソマティックワークがメインです。

それが、遅刻した日に限って参加メンバー全員で紙風船を一人一つずつポンポンと叩き上げているところに私は入っていきました。遅刻して、事前の説明を聞かなかったことを理由から、参加者のお一人筒井先生によるご指導の下、検証が始まりました。

正座した状態で、紙風船を両手で持った時と持たなかった時の体のふらつきの違いを確認しました。明らかに自分の中に芯が出来たのが感じられ、左右横からの押す力を吸収しているような壁になったような動じなさも感じました。

紙風船「重さ・軽さ」より「触り心地」の方が印象的で、そのものの機微というか、可変しやすい性質に気持ちが向きました。少しで指に力が入れば、「パリっ」と音がして変形します。

空気の出入りがある穴が一つ。水よりも抵抗がない「空気」の「枠」として存在する「風船」

両手で大事なものを包むようにすればするほど、手のひらと指先は敏感になり、背骨からそれを支えるように姿勢が整います。

何も持たないで、座禅の印を作るときや、立禅で両腕を胸の高さで丸く、木の幹を抱くように上げているだけの時は、腕や肩に力が入っているのが判ります。それが、神風船を胸の高さで大切なものの台座のように手を作った時、まったく何もないときの手に対する感覚と異なったと認識することが出来ました。もちろん腕の下(脇)を開けている立禅と、両手で包むように紙風船を持つために脇が閉まるのとでは、感覚が異なっても当たり前かもしれませんが、明らかに、手首の先の感覚は異なりました。それは、まだ私が、腕の筋肉だけで腕を上げているからなのではないかと、推測しました。

また別の視点で、気功では、何もない両手の間に光の玉をイメージする練習方法があります。紙風船を両手で持っているときに、ふとその練習を思い出しました。

「何も両手の中にない」状態と「紙風船がある状態」の違いとしては、紙風船があるときの方が、鮮明に両手の中で何かが起きていることが判りました。

まず、紙風船自体が熱を発することはありません。したがって、温かく感じるのは、「私が発している熱」であり、それが伝わったものと考えられます。その時に、中の空気が動く感覚がありました。外気と内気の温度差が生じたとまでは、言い切れない程度ですが、間違いなく、手の温かみを以上に紙風船から戻ってくる熱を感じました。

優しく手を添えているだけなので、持っているというより置かれているという状態なのですが、優しさをもって包む感覚によって指先からは力が抜け、腕全体、そして腕を支える背中全体そしてその中心の背骨が安定し、呼吸が静かになりました。

頭であれこれ考えるときと紙風船を両手で【つぶさないように】もつときとの違いもはっきり表れ、「心ここにあらず状態」と「意識が集中する状態」による体のふらつきの違いを体験した時に、現在学んでいる古武術空手の形【サンチン】を思い出しました。【脇を締める】という点でも、紙風船を両手で包むときとサンチンの形に近いものもあったからかもしれません。

現在、心道流空手道心道会創始者座波仁吉師の愛弟子、宇城憲治師の流れを汲むカタを学んでいる中で、その共通点を感じました。

古武術空手では、指先まで丹田で動かすことが重要となります。
身体のそれぞれの筋肉を使い「力」を使うのでは、相手との「ぶつかり合い」が生じてしまうので、体本来の能力は発揮できないとされます。

人間本来の能力というのは、火事場の馬鹿力のような通常では出さない力を持っているということだと説明されます。その力を必要な時に出せるように体を慣らすために必要なのは、「力まない」ということ。

力まないためには、体を緩め、緊張ではないほど良い張を持たせ、丹田に気を集中し、そして最終的には内外が消えるように全てと調和することによって、最高の能力の発揮が出せるというものです。

武術であるゆえに、生死を掛けた戦う技術であることには間違いないのですが、空手の武芸としては、調和の精神もその伝統の中に残しています。

今回、紙風船のワークショップの後に、空手の練習へ行き、この紙風船体験が古武術空手の練習に通じるものがあると師匠に伝えると、師匠はご理解いただけました。もちろん完全一致というものではありませんが、紙風船を持つことによって起きる体内感覚は、古武術空手の検証と類似することがあげられます。

古武術空手では、入門から上級者までそれぞれ検証方法があります。
靴を脱いだときと揃えたたとき、呼吸を整え丹田に気を落す前と落とした後、正座からの立ち上がりと、正座をしながら両手を回しながら立つなどなど、多くの検証方法によって、体の軸のあり方やグランディング(地に足がいしっかりと根付く)感覚を確かめることが出来ます。

そこで、共通なのは、意識の集中の仕方でした。
意識が散漫になったとき、体はブレます。古武術空手の検証では、「靴を揃える」、「本を丁寧に置く」というモノを伴う行為に集中によって軸が整うことが判ります。紙風船ワークショップでも、「紙風船をつぶさないように持つ」というモノを伴う行為によって、体の反応が無暗に持つのとでは異なる反応が生じます。

紙風船というとてもか弱い存在でありながらも実存する枠を持つことは、イメージトレーニング前に必要である学びにも感じました。

武術空手のすり足を初めて学ぶとき、どうしても体全体が前後左右に揺れてしまいますが、丹田で歩くということを練習するために、箒や傘などを手の平に乗せて歩く方法を使いました。これも子どもの時に遊んでいたこともあり、わかりやすくイメージがしやすかったという経験があります。

紙風船を膨らませ、それをつぶさないように、しかし確実に風船の内側にある空気をしっかりと感じ取りながら意識を向け、風船内の空気が穴から漏れない程度の圧を掛け、その返ってきた感覚を感じる。それは脳みそだけでなく体全体のバランスが重要だということが判ります。

ヴィパッサナー瞑想では、足の組み方、手、舌のポジションが大切だと教わります。手については、膝の上に載せるか、丹田の前で両手を上下に合わせるということだけで特に深い意味を中級レベルまで指導要綱にないためか特に焦点はあてませんでしたが、今回の紙風船をもつことによって、それぞれの意味があるのだと感じられました。

紙風船は、座禅の形(カタ)の練習にとても良いものだと理解できました。
この感覚を、紙風船を持たないで維持できるようになることが、まず手のポジションの安定と集中力につながり、さらにその先に体全体が紙風船の中に入りながら広がり続けると同時に、その紙風船が「自他」の境が無くなることで「座禅の形」の守破離なのではないかと感じられました。

座禅も空手も偶然的に、一瞬「集中の極み」「無の境地」のようなゾーンに入るときは稀にありますが、その一瞬の連続が可能になれば、その先に新しい道が観えるのかもしれません。

偶然を選ぶか、形を選ぶか。。。凡人と非凡の違いかもしれません。

心身一如、身心一如、どちらが先でもありません。

ただ、この身を知ることの大切さを感じられる紙風船のワークショップでした。

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