「行ってきましたクッキー」から考える贈与のメタメッセージ

今日は「○○に行ってきました」と書かれたお土産のお菓子についてです。ご存知でしょうか。今もあるのかよくわかりませんが、ぼくが子供の頃はお土産物屋さんにいくとよく置いてありました。ご当地の名前を冠して「日光に行ってきました」とか「八ヶ岳に行ってきました」とか、そういう商品名がつけられたクッキーです。「行ってきましたクッキー」とか呼ばれていますので、今回はそう呼びたいと思います。

まずは本題の「行ってきましたクッキー」について話す前に、少し前提のところから話します。

1 贈与はメタメッセージである

いきなり小難しい話になりますが、メタメッセージというものについて考えてみたいと思います。メッセージがあれこれ書いたり発したりする言葉の内容そのものだとすれば、メタメッセージはその時その人からその言葉が発せられることによって伝わる、文脈的なメッセージです。

難しい話ではありません。たとえば朝に会社で同僚とすれ違って「おはよう」という。これはとうぜん字面上の「お早う=お早いお着きですね」という意味ではありませんよね。なんとなくの好意を示している。お互いの友好を確認している。それくらいのものです。朝の挨拶は字面である「おはよう」から離れた意味を持っています。送られた中身ではなく、送られる文脈が意味を持っています。べつに言葉は「おはよう」でなくてもいいのです。

ふつうの文章ではそういうことは起こりません。例えば今ここに書かれた言葉は、それぞれそれなりの必然性を持っています。でも贈与においては往々にして中身が意味を持たなくなります。もちろん中身がすべてどうでもいいわけではない。しかしより意味を持つのは、贈与が行われる文脈のほうです。

バレンタインにおいて重要なのはチョコレートのおいしさではなく、誰にチョコレートをあげるか/誰から受け取ったかです。お祝いに花束をもらったときの喜びは、もらった花束の内容によってではなく、花束をもらったという事実そのものから起こります。年賀状を受け取ったときに覚えておくべきは、書かれた内容ではなく、いつ誰からもらったのかです。

贈与はコンテンツの享受ではありません。人間関係を紡ぐものです。ですから、贈与においては贈られた「物」のほうがむしろ副産物なのであって、重要さは贈与の「文脈」にあります。

2 お土産に込められた思い

贈与の一形態であるお土産にも同じことがいえます。友人が旅行帰りに、お土産のお菓子を買ってきてくれたとしましょう。あなたはきっとそれを味わう前から嬉しく思うでしょう。もちろんお土産が美味しいに越したことはありませんが、それが多少口に合わないとしても、友人への感謝の気持ちは変わらないはずです。そこでわれわれが感謝しているのは、お菓子の美味しさに対してではなく、友人が旅行先でまで自分のことを考え、そこに時間を割いてくれたということに対してであるからです。

ただし贈り物やお土産ではメタメッセージが重要だといっても、中身がどうでもいいというわけではありません。なぜならメッセージがそうであるのと同様に、メタメッセージにもまた豊富な情報量があるからです。

素晴らしいお土産とはなんでしょうか。みなさんもきっとお土産を買うときに心を砕いた経験があるでしょう。その土地に固有であることは外せません。特産品や限定商品がいい。しかしあまりにマイナーな特産品も選びづらい。どこのお土産か伝わらなければ厄介です。それでいて、定番とは少しちがったものだと申し分ない。美味しさもしっかり考慮したい。会社へのお土産であれば小分けになっているといいですよね。お土産にはそういう細かな配慮がたくさん詰まっています。

3 むきだしであることの無粋さ

そういうことを考えるのは一方でたいへん面倒です。いやはや、贈与とはまったく面倒なものなのです。気の利いたプレゼントを考えることほど悩ましいことはありません。だからこそ、その苦心のぶんだけ喜ばれもするのですが。

そういう面倒を避けたい人もいるでしょう。そもそも素晴らしいお土産について考えるのが苦手だという人もいるでしょう。そういう人たちはどうすればよいでしょう。
お土産を買わなければいいでしょうか。でも日々受け取っていたなら、やはりそこには返礼の義務がありますね。返さないのは無礼です。そのへんのコンビニで売っているものを買えばいいでしょうか。それではお土産になりません。困ったものです。

そういう人たちへの、とっておきの商品があります。もうおわかりですね。それこそが「行ってきましたクッキー」です。あれにはメタメッセージがそのまま刻印されています。そのお菓子がお土産であること、どこからのお土産であるのか、一目瞭然です。なぜなら、書いてあるからです。メタメッセージを読む必要はありません。メッセージとメタメッセージは完全に一致しています。

これはとんでもないことですね。すべてを説明すること、それはとても無粋なことです。しかし無粋すぎて潔いというか、こざっぱりとした印象すら覚えます。割り切った爽快感があります。これがこのお菓子の特筆すべき点でしょう。メタメッセージをむきだしにして、文字をお土産にしてしまえるのです。

行間や文脈を読んだり、メタファーを受け取ったりすることが忌避されつつある今日において、こういう不粋はますます広がっていくのかもしれません。

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