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「恩送り」の本当の意味とは。恩送り誤用の検証と、恩に対する日本語の変化

こんにちは、桂大介です。noteでは寄付や贈与について書いています。

今日は「恩送り」という言葉について。現代における「恩送り」の誤用と、その背後にある日本語の変化に迫りたいと思います。

1 「恩送り」はもともと「もらった恩を別の人に送る」という意味ではない

ネットで「恩送り」という言葉を調べてみると、たいてい「江戸時代から使われていた言葉で、恩を受けた人に返すのではなく、別の人に送ること」なんて説明がでてきます。これは現代においてかなり定着した使い方となっており、新聞紙面においても同様の使い方が多く見られますが、もともと「恩送り」という言葉にそういう意味はありません

最大の国語辞書である『日本国語大辞典』で「おくる」を調べると「相手への恩返し、つぐないなどを果たす」という意味が出てきます。「恩送り」「恩を送る」という言葉は昔からあるのですが、「恩返し」とまったく同じ意味で使われていたのです。岩波や大野晋氏の古語辞典でも同じような表記です。「別の人に送る」という意味は、辞書ではまったく出てきません。

コトバンクでも「恩を送る」を引くと「恩に報いる。恩返しをする。」と出てきます。

「親の恩は子で送る」ということわざもあります。「子へ送る」ではないんですね、「子で送る」です。親の恩は子育てをすることで親に送られるという意味ですから、やっぱりここでも「送る」は「返す」を指しています。他に「親の恩はおくっても水の恩はおくられぬ」というものも。こちらも「親の恩は返せるけど、水の恩は返せない」という意味ですね。

現代の新しい「恩送り」の使われ方はすっかり定着してしまったようなので、それはそれでもいいんですが、少なくとも「昔からそういう意味の言葉があった」というのは明確な間違いです。ちなみにこの間違いを流行らせたのは故・井上ひさし氏と見られ、『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』の末尾にこの話が出てきます。

2 恩は送るもの?返すもの?

ここからは少し視点を変えてみましょう。なぜもともとの意味の(つまり恩返しという意味の)「恩送り」という言葉は使われなくなったのでしょうか。この言葉が恩返しという意味で使われ続けていれば、このような誤用問題は起きなかったはずですし、実際に「恩送り」という言葉がすっかり忘れられていたからこそ、今回のような問題が起きたわけです。

上述したように一応いまでも大きな辞書にはその意味が載っているものの、たとえば『日本古典文学全集』では「恩送り」という言葉に対し「恩返しのこと」という註をつけており、「恩送り」は「現代には伝わらない言葉」「消えた言葉」という扱いになっています。

なぜ「恩送り」は使われなくなったのか。このタネは歴史を紐解くと簡単で、実は「恩返し」こそが「恩送り」に替わって出てきた最近の言葉であり、「恩返し」という言葉が流行ったからこそ「恩送り」は使われなくなったのです。今日では当たり前となった「恩返し」が登場したのは18世紀以降であり、それ以前の用例はわたしが探した限りでは見つかっていません。

そしてさらに歴史を遡れば、「恩送り」もまた16世紀頃に生まれた言葉です。それ以前は「恩に報う(報いる)」「恩に報ずる」という用法が一般的でした(これは中国語の「報恩」から来ていると思われます)。恩は返すものでも送るものでもなく、報いるものだったのです。ざっくりと時代区分を整理すると以下のようになります。

  1. 報う時代 上代〜江戸

  2. 送る時代 室町〜明治

  3. 返す時代 江戸〜現代

これは言葉の上のささいな違いでしょうか。わたしはそうは思いません。これらは「恩」という観念に対する、日本人の意識の変化を表しているのではないでしょうか。

3 なぜ新しい「恩送り」が流行ったのか

こうして恩につく動詞の歴史を振り返ってみますと、「恩を別の人に送る」という意味の、いわば「新・恩送り」が流行を見せる背景もすこし見えてくるように思います。昔は恩は「返すもの」ではなかったのです。

「恩返し」「恩を返す」という語をもう一度吟味してみましょう。「恩に報いる」「恩を送る」という言葉たちに比べて、どこか「恩は返すべきものである」という規範が香ってきませんか。「返す」という言葉は、たとえば「借金」に用いられるように、どこか「借りたもの」「自分のものではない」というニュアンスが付随します。

「報いる」「送る」の時代に、そのニュアンスがゼロであったとは言いません。しかし古くは「恩」とは人が授けるものばかりではありませんでした。先にあげたことわざの「水の恩」のように自然の恵みをも指して「恩」と言ったもので、「恩に報いる」とは、その恩に応える、恩を大切にするという意味が、ひいては今日の「恩を別の人に送る」という意味までも包含していたような気がします。

それがいつしか恩は「送る」ものになり、ついには「返す」べきものになってしまいました。その流れのなかには封建社会における「御恩と奉公」があったり、「鶴の恩返し」という説話があったり。さまざまな社会や文化の変化の影響を受け、言葉が百年単位で変化していったようです。

しかし、おそらく現代人は気づいたのでしょう。恩は返すべきものなのか。恩って返せるものなのか。「恩返し」という新しい言葉に、少しずつ違和感を抱くようになったのでしょう。そうした当惑が当て所なく彷徨っていたところに、井上ひさしの恩送りの話がぴたりとハマって、「新・恩送り」がここまでの市民権を得るに至ったものと思います。

4 恩を別の人に送ることを何と呼ぶべきか

調査と考察は以上ですが、最後に大きな疑問が残ってしまいました。「恩送り」が誤用だとすれば、恩を別の人に送ることをわたしたちはなんと呼べばいいのでしょう。ここにはおよそ二つの選択肢しか残されていないように思います。

一つは「恩送り」を使い続ける方法。もとは誤用だったとはいえ、一度ほとんど利用の絶えていた言葉ですし、新たな意味で市民権も得て、新聞紙面にすら登場するほどですから、今後「恩送り」を新しい意味で使い続けることの問題はほとんどないでしょう。強いて言えば古典を読むときに意味がズレてしまうことでしょうか。また「日本には昔からこういう言葉があった」という言い方には注意が必要ですね。

もう一つの選択肢は「ペイフォワード」です。2000年の映画『ペイ・フォワード 可能の王国』(原題: Pay It Forward)で有名になってフレーズで、こちらは意味が明確にわかりますし、辞書や古典とのズレも起きませんからスムーズです。一方で、カタカナ語であることや、「恩返し」との対比が作りづらいことが難点となります。

どちらを選ぶのか、もしくは第三の選択肢が必要となるのか。なかなか難しい問題ですが、言葉は生き物ですからどれが正解だとか間違いだとかいうことはできませんし、恩送りや恩返しも百年単位で入れ替わってきた言葉ですから、色んな表現を試しながら気長に新たな言葉の定着を待つのがよいかなと思います。

5 あとがき

ここまでご覧いただきありがとうございました。今回「恩送り」という言葉の意味と歴史について書いてきましたが、わたしは言葉の研究者でもなんでもない市井の人間ですから、何か誤りや不適切な記述があればご指摘いただければさいわいです。

もし寄付や贈与の話に興味があれば、新しい贈与論のウェブサイトものぞいていってください。

また付録として、調査でまとめた「恩」にまつわる用例の年表を記しておきます。この問題に興味を持った方はどうぞご活用ください。

0720 酬・報 日本書紀・顕宗「酬恩答厚」「有恩不報」
0830 報 西大寺本金光明最勝王経平安初期点・八「恩を報むとして供養せしめ」
0984 報 観智院本三宝絵「我等共に行て此恩を報む」
1223 報 蒲原より木瀬川「宿世の恩を報せむとて」
14XX 送 幸若・大臣「われにしばらくみやづかひ、恩を送れとぞ申ける」
1593 報 天草本伊曽保・鹿と葡萄の事「ヲンヲ アタヲ モッテ fozureba(ホウズレバ)」
1603 送 日葡辞書「ヲンヲvocuru (ヲクル)」
1606 送 寸鉄録「かくの如くおもひやりのあることはかたじけなきとて、この御恩ををくらんとおもふぞ」
1656 報 俳諧・世話尽・曳言之話「恩は仇で報ずる」
1657 送 いつくしまのゑんぎ「ひじりの御おんおくりたまふなり」
1763 報 談義本・根無草・前・三「かかる時節に忠義を尽さずんば、いつの世にかは御恩を報じ奉らんや」
1779 返 咄本・金財布・狐「母きつね、何にても此御恩返をいたしとふ」
1780 送 浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)「実の親にも勝った御恩、送らぬのみか苦をかけるも」
1786 送 譬喩尽「親の恩はおくっても水の恩はおくられぬ」
1797 送 諺苑「親ノ恩ト水ノ恩ハヲクラレス」
1814 送 松翁道話二・上「少しは産みの親達へ御恩送りにもならうかい」
1860 送 歌舞伎・三人吉三廓初買・五幕「少しも早くよくなって、御恩送りがしたうざます」
1874 報 小学読本〈榊原・那珂・稲垣〉四「恩を受けては必報ぜむ事を心がくべし」
1893 返 古今俚諺類聚「親の恩は返されても水の恩は返せぬ」
1838 返 人情本・英対暖語・四・二四章「お前様のお行衛をお尋ね申て、寸志の御恩がへしをと」
1867 送 和英語林集成(初版)「オンヲOkuru (オクル)」
1867 返 和英語林集成(初版)「オンヲkayesz (カエス)」
1887 返 浮雲〈二葉亭四迷〉一・二「世話になった叔父へも報恩(オンガヘシ)をせねばならぬ」


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