新しい贈与論は何をしようとしているのか

 こんにちは、新しい贈与論の桂です。

 新しい贈与論で久しぶりに会員募集をしていますので、今日は新しい贈与論が何を考えているのかについてちょっと書いてみようと思います。

新しい贈与論の信念

 新しい贈与論の根本的な信念は、以下の3つに集約されます。

  1. 人は贈与によってつながっている

  2. 贈与は「私」に穴を開ける

  3. ままならない贈与こそ、贈与である

 今日はこのことについて書いてみたいと思います。

1 人は贈与によってつながっている

 多くの人にとって、寄付や贈与という言葉には、非日常的なニュアンスを感じるかもしれません。しかし実際のところ、贈与は極めて一般的で、人と人が関わるこの社会において、ありふれた出来事です。

 新しい贈与論のトップページには、こんな文章を書きました。

 あの日の誕生日プレゼント。好きな人にあげたチョコレイト。お互いに手渡したクリスマスギフト。最近もらっていないお歳暮。姪っ子にわたすお年玉。わたしたちの社会はもともと贈与にあふれていた。
 コスパなんて考えてなかった。効率とか投資対効果とか、そういう言葉は知らなかった。そういう言葉を知ったことで、わたしたちは贈与から遠のいた。
 あらためて考えよう。寄付のこと、贈与のこと。誰かのしあわせを願うことに、コスパなんて関係ないってこと。 「新しい贈与論」は、あなたのお金の贈る先をみんなが決めるコミュニティ。私有や自己決定権が朽ち果てた世界は、どこか懐かしい匂いで満ちている。わたしたちはここで、新しい社会を考える。

https://theory.gift/

 人と人の関係するところに、贈与は灯ります。

 とりわけ日本社会は、古来より贈答にあふれていました。たとえばバレンタインは海外由来の文化ですが、日本はそこに義理チョコやホワイトデーを独自に組み足し、贈答文化を拡大させてきました。
 旅行にいったときのお土産も日本など東アジアに顕著な文化で、東京のディズニーランドは他国に比べて物販の売り上げシェアが大きいそうです。

 「寄付が少ない」と嘆かれるこの国において、「贈与」が他国に比して盛んに行われているという事実と、古来より育まれてきた日本の贈与文化をわたしたちは再び見直したいと考えています。

2 贈与は「私」に穴を開ける

 大前提として、贈与や寄付とは喪失です。
 交換や貸与などの損失を伴わない行為は、贈与ではありません。誰かに何かを与えることによって、与え手が物品や金銭を純粋に失うとき、わたしたちはそれを贈与と呼びます。

 なぜ人は贈与という名の損失を自ら被るのでしょうか。
 経済学者のボールディングは、贈与は「贈り物を手放す与え手が、それをもらう受け手の福祉と自分を一体視すること」によって起こると書いています。
 これは贈与に対する見返りや返礼を指しているわけではありません。見返りや返礼はあくまで与え手にもたされる利益ですが、ボールディングによれば、贈与の動機は与え手と受け手の「一体視」によるものです。
 わたしの経験からここに一言付け加えるとすれば、与え手と受け手の一体視は、贈与の原因ではなく結果にもなり得ます。

 わたしたちは、ふだん「自分のものは自分のもの」「他者のものは他者のもの」だと考えています。それは私的所有を認める近代社会の基本的な約束ごとでもあります。
 贈与はこうした「私有」という原則に穴を開けます。
 見返りもなく贈与するときにわたしたちが得るのは、「自分のものは自分 のものでなかったのかもしれない」という感覚です。逆に受け取ったときに抱くのも「自分のものでなかったものが自分のものになっている」という不思議な当惑です。そのとき、相手との絆が生まれます。

 これは「共有」「シェア」とも異なります。共有から贈与は起こりません。贈与は私有を起点とし、そこに穴を開けるときにのみ出来します。
 贈与にはそういう作用があります。贈与を行うことによって、わたしたちは「自分のもの」を喪失すると同時に、「自分のものは自分のもの」だという観念をも毀損します。
 贈与を繰り返すことは、「私」に繰り返し穴を開けることです。

3 ままならない贈与こそ、贈与である

 新しい贈与論は贈与の新たな実践「共同贈与」を行っています。

 ふつうの寄付が宛先や金額を好きに選べるのとはちがって、共同贈与では決められた会費を納めたのち、毎月一度の推薦・投票により寄付先を決定し、全員の会費をまとめて寄付します。

 投票に負ければ、自身のお金にもかかわらず、好きな宛先に寄付できないことがままあるという、不自由な贈与です。

 わたしはこの不自由な贈与、ままならない贈与こそが、極めて重要であると考えています。
 人と人の関係を紡ぐ贈与とは、そもそもが義務的なもの、儀式的なものでした。お中元、お歳暮、お年玉、ご祝儀、お見舞いといったものはすべて、したい気持ちと同じくらい、しなければならない気持ちによって為されるものです。

 自分の意志によって自分の財産を贈与するのではなく、誰かの意志によって自分の財産を贈与する。そういう営みによって、私たちは「私有」「自己」「利他」「贈与」といった概念に、新たな展開を引き込むことができるはずです。

さいごに

 「贈与」は社会生活を送る上で極めてベーシックでありふれたものであると同時に、人の価値観の根っこが露わになるラディカルな体験であるとも思います。
 このテーマについて考えることは同時に、消費や投資や貸与について、もしくは人間関係やコミュニティについて、さらには多くの社会問題について考えることにもつながるでしょう。

 新しい贈与論はオンラインサロンや他の多くのコミュニティのように、多くのものが得られる場所ではありません。むしろ贈与することによって、自らのものを失い、手放すための場所です。
 毎月毎月の贈与という名の喪失を共にし、語りあうための仲間を募集しています。ご興味のある方はぜひウェブサイトからご入会ください。


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