Mis-directionとestimation

人の流れに逆らうように、サラリーマン風の男が、道行く人に声をかけている。短くも、長くもない髪。眼鏡。特徴が見当たらない。たすき掛けにした鞄が、学生の延長にあるような印象を与える。鞄のストラップが食い込み、襟首の隙間から覗く、過ぎる肌の露出が、シャツが凡そ身体に合っていないことを知らせている。

案じ、ちょっと実験してみることにした。彼と目があうと、途端に斜め下に目をやる。それがtriggerだったのか、ホントのところわからない。彼は間髪入れず「手相を見せていただけますか?」と声を掛けてきた。

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"胡蝶の夢"を敷衍すれば、"liberal-arts"自由学芸群を包摂する、"engineering"制御を志向する学群となる。真理や普遍を探求するのではなく、横たわる事実と機能を描写する。予期せぬ帰結を防遏するのを"control"とするなら、予期せぬ帰結を想定する構えをengineerと呼ぶ。閾値を越えた人形に、ghostが宿るのを待っている。

人の腕には動きを制御する神経系統が2系あり、それぞれ前腕『親指・人差し指・中指・薬指』と、後腕『薬指・小指』を担っている。"薬指"が動かしずらいのは、その2系の神経系統が"輻輳"するためで、疲れていると薬指は、隣の中指と同調しやすい。ジャンケンにおいて、均一に分かれるはずの3手は、統計をとると、複雑な形状を要するチョキの、出る頻度が少ない。『手相鑑定』は相手の手相を見ているのではなく、手を差し出す際の、雰囲気や佇まいを視ている、としたらどうだろう。

死刑制度が広く容認されないのは、冤罪の可能性を排除出来ない、というより、"mildな優性思想"を前に、にわかに立ち止まっている、と言った方が得心がいく。"優性思想"という似非科学を、手段的に利用したのがNazismだった。

当初は政治的に利用し、その存在の空虚さゆえに、"優性思想"が目的化、最終的にoccultへと堕するNazismだったが、日本において"優性思想"がactuallyに膾炙するのは、戦後だった。"bubble経済"もそうであったように、ある現象が文化のlevelに到達するには、"deley"が発生する。lead-timeやover-shootと言い換えてもいい。中世末期の魔女裁判が、近代の"罪刑法定主義"導入の呼び水であったように、制度的欠陥が飽和した先に、新たな地平は現われる。

徴兵・軍閥内出世の、私的な潔癖による選抜を目のあたりにした銃後の人々は、戦後、liberalismの謳う、"veil of ignorance"に覆われゆく『ぼくたちわたしたちの民主主義』と、反目するように、"mildな優性思想"の布教・普及活動に勤しむ。キリスト教にも頻出する、2000年以上にも渡り、受け継がれるハンセン病。これに纏わる『らい予防法』が、最近までactiveであったことを以てしても、日常の感覚的な部分と、文化的delay現象は、心情的にもfitする。いわば、"わからないまま"する差別と、"わかっててする"差別。どちらがより罪が重いか。しかしこれは、比べても宜なるかな。つまり罪の重さの問題ではなく、何を以て罪とするのか、が核となる。

一般教書演説において、『聖書』に誓いをたてる、"宗教立国USA"。信仰の自由主義陣営に対する、"科学立国Soviet"の棹指す『科学的社会主義』。かつての冷戦体制にも、『幸福の科学』は見て取れる。予防的に申し上げれば、cultが寄りかかるoccultを『似非科学』と呼ぶのではなく、寄りかかる姿勢そのものを『似非』と呼ぶべきで、"mildな優性思想"を眼前に立ち止まる、先進各国の真摯さは、よほど科学的といえる。

被差別部落出身とそうでないものとの婚姻に、『親』は反対をする。それでも彼等は関係を継続し、やがて子を為す。その"孫"を見た『親』は、この子が世間的に差別されるのなら、むしろその理不尽と闘う、という。この"尻軽"な『親』の振る舞いを、誰も蔑むことはできない。ヒトなんてそんなもの、だからこそ理不尽は無くならず、そんなもの、だからこそ其処に希望を見出す。"差別解消"を理念的な啓蒙運動として唱導し続ければ、差別が解消されるとする。そんな道理はない。むしろそこでは、差別的なものが徹底される。感情的手当てや名誉の挽回と、制度的補償や承認は、位相の異なるlayerにあり、それぞれに応接する必要がある。

"なぜ自殺してはいけないのか"への有効な応接は、"なぜ自殺しなきゃいけないのか"という、frameそのものへ照準にある。無論これは、"なぜ人を殺してはいけないのか"という反語の、analogyとなっている。

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"なぜ人を殺してはいけないのか"への有効な応接は、"なぜ人を殺さなきゃいけないのか"とする、反問の構えにある。日本の死刑は、3人の担当官が、それぞれ3つのボタンを同時に推すことで執行される。個別の抱える、心的負担を軽減する、のがその理由とされる。介護の現場で殺人、つまり"嘱託殺人"が無くならないのは、その背景に「与える」のnuanceがある、と指摘する向きは多い。"殺してあげる"の大義があると、人は躊躇なく人を殺せる。これらは有名な"Stanford-Univ.監護と囚人"実験として流通する。

罪刑法定主義は、懲罰の"相場観"を内化することで、法秩序の徹底と、犯罪の防遏を眼差す。つまり『伝家の宝刀(=抜かないことに意味がある)』による"暴力"のチラ見せにより、行政costを著しく減少せしめることに加えて、法定主義以前の、つまりは魔女裁判や、Robes pierreのみせた帰結。いわば罪刑専断主義に対置する、冷静さ、を担保するための枠組みと謂われている。正しさ、を後押しに人を殺してしまう、暴力に歯止めを掛ける法律code。その"正しさ"についての合意形成とは、何なのだろう。

"mildな優性思想"が、なぜ似非科学なのか。
『アタマの良くなるsupplement』に喩えよう。

『アタマの良くなるsupplement』が売っていたとして、その"アタマの良さ"について合意形成は不可能であろう。仮に、部分的に"頭の良くなる"ことが可能であってもやがては順応し、更にそれが幸せに結実するかは、またかなり別の問題といえる。つまり"筋トレは最強のsolution"だとして、何故そうまでして"筋トレ"するのか、の問いが残る。アドラーが、traumaなんて存在しない、と言ったとして、何故そうまでして"鬼化"(ego-boost)するのか、には応えない。要するに、科学はwhyに応えられない。どんな"ボクの考えた最強のsolution"も、使い方次第ではまるでセカイ系の域を出ない。

そう、つまりperiodの向こう側にtake-offするには、今すぐ"アタマの良くなるsupplement"を買って飲まなければいけないぜベイビー

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