【短編小説】Love Lies Bleeding
ある若い男がいた。彼の日課は音楽を聴くこと。聴くのは主に洋楽で、レコードをかけて聴くという古風な男だ。
その部屋にはレコードプレーヤーとスピーカーが鎮座していた。相対するようにソファが置かれている。
いつもは彼だけが座るソファに、今日は彼以外の人間が腰かけていた。妙齢の女性である。彼女はただソファに座って、どこを見るともなくリラックスした様子だ。
一方で彼の方はというと、レコードが詰まった棚の前でしゃがみ込み、頭を抱えていた。
彼の人差し指は、レコードで埋められた棚の前を悩ましそうに滑り、やがて一枚の前で止まった。止まったかと思えば彼は首をひねり、またも指は滑る。滑り、止まって、また滑る。
その間、彼女はただ物珍しそうに部屋の様子を一通り眺めていた。彼女が退屈してはいないかと、彼は不安を抱えながら急いで人差し指を滑らせる。手をやや震わせながら。それを必死に隠して、彼女が気づいているかどうか思案しながら。
彼の指はまだ悩ましげだ。レコードの前で指は滑り、止まることを繰り返す。
一つのレコードで指が止まる。レコードを取り出して、ジャケットをまじまじと眺めた。
真っ黒な背景に、光で照らされた横顔が写っている。それはスティーリー・ダンの『Aja』。ロマンティックな一夜を演出するには最適だが、彼女の耳には難解すぎるだろう。再びアルバムを探す彼。ソファに座る彼女。
またも一つのレコードで指が止まる。世界で最も有名な4人組が横断歩道を渡る、世界で最も有名なジャケット。ビートルズで『Abbey Road』だ。
彼は彼女に問いかけてみる。
「ビートルズは聴いたこと、ある?」
すると彼女は「有名な曲はいくつか知ってるかな。「Let It Be」とか」と。
これはビートルズの事実上のラストアルバムである。最初に聴くことは避けるべきだ。
悩まし気な人差し指。止まっては滑りを幾度となく繰り返した末に、彼の指は一つのレコードに辿り着いた。
ジャケットには、レンガでできた茶色の壁に手をかける眼鏡の男。壁の奥には赤い夕焼け。夕焼けは道を黄色に照らしている。どことなく空も黄色く染まっているようだ。
男の名はエルトン・ジョン、レコードの名は『Goodbye Yellow Brick Road』。邦題は『黄昏のレンガ路』だ。2枚組の傑作である。
やや渇き気味ののどに鞭を打って、彼は口を開いた。
「あの、エルトン・ジョンって、知ってる?」
唐突な質問に、彼女は瞬きを数回し、頭を縦に振った。
「うん、名前は知ってるかな」
「じゃあ、あんまり曲は知らない?」
「聞けば分かるかもしれないけど、どうだろうなー」
彼女は眼を上に向けて、少し考える。「やっぱり分かんない」。
彼は少し落ち込んだが、彼女がエルトン・ジョンを「名前は知ってるアーティスト」として認識していることに若干の喜びを感じた。
しかし、彼はまたも頭を抱える。このアルバムを一緒に聴きたいけれど、彼女は恐らく一曲も知らないだろう。それに、レコード2枚分の大作である。そのようなアルバムを聴いて、彼女は退屈しないだろうか。
ええいままよ。このまま悩んでいても埒が明かないと考え、直感に従った彼はアルバムを取り出し、1枚目のレコードを引き抜いた。プレーヤーの電源を入れて、レコードを乗せる。円盤を回転させた。後は針を乗せるだけである。
「何ていうアルバムなの?」彼女が尋ねる。
「ああ、言い忘れてた。これはエルトン・ジョンの『Goodbye Yellow Brick Road』。邦題だと『黄昏のレンガ路』。まあ、2枚組だから結構長いね。
で、これを一緒に聞きたいんだけど、どう?」
彼女は顔に微笑を浮かべて、「いいよ、聴こう」。
彼は深呼吸を挟み、考える。彼女は快く了承してくれたが、彼女が退屈しないか、それだけが心配だ。しかし緊張もあってか、いくら考えても彼女と一緒に聴くのに最適なアルバムが他には思い付かない。
そうだ、どうせこれを機に彼女に嫌われたとしても、その時はその時、受け入れよう。時には歩くよりも先に走り出すことの方が大事さ。そう自分に言い聞かせて、針を指で挟む。
彼の指はやや緊張で震えていた。それもそのはず、彼が他の人と一緒にレコードを聴くのはこれが初めてだからだ。しかもその相手は、よりにもよって彼女である。緊張しないわけがない。
しかし、もう後戻りはできない。彼は口をすぼめ息を吐きながら、ゆっくりと、慎重に円盤に針を落とす。針は回転する円盤の上を滑り始めた。
最初は無音だった。本当にアルバムが始まったのか不安に思い、彼は回転する円盤を見守る。しかし、徐々に風の音が聞こえ始めてきて、彼は安堵のため息をついた。彼女には分からないように。
やがて物々しい雰囲気からアルバムは始まった。シンセサイザーが怪しく鳴り響き、レコード2枚分の物語が幕を開ける。
彼はソファの前まで行く。彼女が気を利かせて横にずれ、一人分の座るスペースを用意した。彼は口元だけで「ありがとう」と告げ、ゆっくりと座る。
隣には彼女が居る。横目で彼女の方を盗み見ると、彼女は目を閉じていて既に音楽に聴き入っているようだ。
せっかくレコードをかけているのだから、やはり音楽を聴かなければ。彼女を盗み見たことを心の中で反省しつつも彼は目を閉じ、エルトン・ジョンの音世界へと意識を向けた。
* * *
1曲目は「Funeral for a Friend / Love Lies Bleeding」。
最初は無音である。しかし、徐々に風の吹く音、鐘の鳴る音が聞こえてくる。
シンセサイザーが怪しく鳴り響く。その間、風はずっと吹き続け、鐘は鳴り続けている。シンセサイザーは怪しさ満点のサウンドを奏でる。
やがて、怪しい音色とは打って変わって、シンセサイザーは勇ましさを感じさせる音色を鳴らし始めた。まるで、この2枚組アルバムという壮大なショーの開幕を告げるラッパのような勇ましさだ。
やがて静寂が訪れ、彼のピアノが聞こえてきた。
彼の名はエルトン・ジョン。稀代のミュージシャンにしてメロディーメイカーだ。この旋律もまた美しいメロディだが、どこか物悲しさも感じるようであり、優しさ溢れる音色は聴く者の感情を震わせる。その間ドラムが、こちらもどこか物悲しくビートを刻む。エルトン・ジョンの声は聞こえない。
お次はギターだ。ドラムに乗って、感情が露わになった音色を聴かせる。けれども、その音色はどこか理知的だ。ドラムが一定のビートを刻みながら、ギターは轟き続ける。ギターの理性と感情がせめぎあう。まるで何かと戦っているかのようだ。自分との戦いか?
一転、ピアノはさらに物々しい雰囲気をかもし出し、勇ましく鳴り響く。さっきまでの優しさ溢れるサウンドとは正反対だ。先ほどのピアノと同じ楽器だとは到底思えない。打楽器としてのピアノの底力を存分に引き出している。シンセサイザーとドラム、パーカッションが空白を埋め、ピアノをさらに盛り上げ立てる。未だにボーカルは聞こえない。ピアノはどこまでも力強い。
ピアノの力が弱まったかと思うと、今度は再びギターにフォーカスが当たり、シンセサイザーやピアノ、ドラムの上でどこまでも理知的に動き回る。その音色は理性で抑えられているように聞こえるが、それでもどこか感情的で、聴く者の心を揺さぶるかのようである。
今度はまたも静寂。そこからピアノが乗り出してきて、次にハイハットがリズミカルに主張する。ボーカルは無い。ただのインストルメンタルだが、全く先の展開が読めないことに驚かされる。「Funeral for a Friend」。この曲は、ピアノとギターの応酬が一つのテーマだと気付く。
そんなことを考えていると、今度は曲調が変わってピアノが入り、またもハイハットが盛り上がりを演じる。ギターも入り込んできた。ギターのメロディは単純に聞こえるが、それゆえに力強さを感じる。
その時である。彼のボーカルが入ってきた。そう、エルトン・ジョンのあの声だ。そして曲は「Love Lies Bleeding」に移り変わる。
“窓際に飾っていた薔薇は萎れてしまった”
“この家で起きた全てのことは終わるべくして起こったのさ”
“ああ、1年前のあの日がつい昨日の出来事のようだ”
“君は言った。「あなた、ごめんなさい。歩幅を変えないと明日を迎えられないの」と”
そしてタイトルにもあるように“Love lies bleeding in my hands(愛がこの手で血を流す)”と歌われる。
“君が別の男といると考えただけで僕は死にそうになる”
“あの頃僕はロックをかき鳴らし、君はただそれ楽しんでいたよね”
“でも君は僕のギターの元を離れ、僕らの関係は終わりを告げた”
“愛はこの手の中で血を流し続ける”
高らかに歌うエルトン・ジョン。魂がこもった声に感情が揺さぶられる。ギターは前奏と同じメロディ。シンプル、だがそれゆえにパワフルな旋律を奏でつつ、曲は2番に入る。
“この変化が君に傷跡を残しやしないかと心配しているよ”
“ちょうど君と僕が炎の輪を通り抜けた後のような傷跡を”
“君は青い鳥だ。今も幸せであってほしいと思うよ”
“そうだね、もし変化の風が君の道に吹き降ろすなら、君は何とかして元に戻ろうとするだろう”
再び“Love lies bleeding in my hands(愛がこの手で血を流す)”と歌う。
“君が別の男といると考えただけで僕は死にそうになる”
“あの頃僕はロックをかき鳴らし、君はただそれ楽しんでいたよね”
“でも君は僕のギターの元を離れ、僕らの関係は終わりを告げた”
“愛はこの手の中で血を流し続ける”
ギターはいつものメロディで演出を盛り上げていく。
しかし静寂が訪れ、聞こえるのはピアノだけ。
やがてシンセサイザーが浮遊感のあるサウンドを奏でる。
今度はドラムが入ってきた。ハイハットが軽やかだ。バスドラムが静かに「ここにいるぞ」と主張する。
すぐにギターがシンプルなメロディを奏で始める。
するともう一本のギターが滑らかな旋律に乗って激しく轟く。ベースの主張も激しい。
そしてお決まりのフレーズ。
“Love lies bleeding in my hands(愛がこの手で血を流す)”
“君が別の男といると考えただけで僕は死にそうになる”
“あの頃僕はロックをかき鳴らし、君はただそれ楽しんでいたよね”
“でも君は僕のギターの元を離れ、僕らの関係は終わりを告げた”
“愛はこの手の中で血を流し続ける”
感情に乗ったエルトンの声は1曲目から最高潮だ。「オーーー!」と咆哮するエルトン。ギターが合いの手を入れ、コーラスもボーカルを盛り上げる。
そして再び“Love lies bleeding in my hands(愛がこの手で血を流す)”だ。「ウーー、ウーフー!」とエルトン・ジョンの声はどこまでも軽やかだ。彼のボーカルと共に曲も最高潮を迎え、ギターが激しく鳴り響く中フェードアウトしていった――。
* * *
スピーカーから聞こえてくるのは、人生が刻まれた音だ。
それは歌詞に登場するキャラクター達の人生であり、それを歌うエルトン自身の人生でもある。人生における、喜び、悲しみ、怒り。感情の機微を歌に乗せ、真実味あふれる声で聴く者に感動を与える。
そう、エルトン・ジョンが歌う曲には真実味がある。まるで、これまで生きてきた多くの人間の人生が刻まれているかのような真実味がある。そう感じさせる迫力や存在感のあるアーティストだと、彼は思うのである。
A面が終われば、レコードを裏返しB面に移る。
B面が終われば、2枚目のレコードを乗せてC面に移る。
C面が終われば、またもやレコードを裏返してD面に移る。
D面が終われば、アルバムは終わる。
スピーカーはぷつっと音を出し、人生を歌う物語は幕を閉じた。
目を開けて横を見ると、彼女はこちらを見ていた。目が合った。その瞬間胸が高鳴りつつも、すぐにその心を落ち着かせて「どうだった?」と言葉を絞り出す。
「結構長かったと思うけど」
彼女はかぶりを振った。
「いや、あっという間だったよ。良い曲ばっかりだったし、特にレゲエみたいな曲が私は好きかな」
「僕は1曲目が好きだな。アルバムの幕開けに相応しい、壮大で美しい曲だよね。ながーい曲だけど、何となくプログレッシブ・ロックっぽさもある」
彼はその言葉をすんでのところで飲み込んだ。代わりに口から出たのはつまらない言葉である。
「僕も、それ、好きだよ。「Jamaica Jerk-Off」っていう曲だね」
彼女は「ふーん」と相槌を打ち、彼らの間に沈黙が訪れる。
ソファから立ち上がった彼は、円盤の回転を止めてレコードを手に取った。エルトン・ジョンとのしばしの別れを惜しみつつ、レコードを棚に戻した。彼女もソファから立ち上がり、彼の隣に立つ。
彼らの足元には、エルトン・ジョンに辿り着くまでの過程が山になっていた。平積みされたレコードに手を伸ばす彼。一番上には『Abbey Road』。
すると彼女はこう呟いた。
「『Abbey Road』はいつかの機会にまた、ね」
彼はレコードに伸ばした手を止め、彼女を見上げる。すると彼女は顔に「しまった」という表情を浮かべた。
彼は驚いて手を止めたのだ。なぜなら、彼はそのアルバムのタイトルを一度も口に出していない。にもかかわらず、彼女はタイトルを正確に言い当てたからだ。明らかにタイトルを知っているのだ。
何が起こっているのか分からず、彼女を見上げる体勢のまま固まる彼。そんな彼に彼女は表情を崩して笑いかける。
「『Goodbye Yellow Brick Road』も良いアルバムだよね。でも、次作の『Caribou』は聴いたことある? こっちも名盤だよ」
「…『Caribou』は、聴いたことない、ね」
彼はなんとか答える。訳が分からなくなる彼を置いてけぼりにして、彼女はケラケラと笑ってこう続けた。
「ごめんごめん、そんなに驚かせるつもりじゃなかったの。
実は私も洋楽が好きでよく聴くからさ。ちょっと君をからかおうかなと思って『かまとと』ぶっちゃった」
その時の彼の心には、これまで感じたことのない得も言われぬ感情が渦巻いていた。
彼女がさも洋楽を全く知らないものと思って知識をひけらかしてしまった恥ずかしさもあったが、その半面、彼女が洋楽をよく知っていて趣味が合うかも知れないという嬉しさもあった。
彼は汗がにじむのを肌で感じながら、言葉を振り絞った。
「さっきさ、 『Goodbye Yellow Brick Road』の中でレゲエっぽい曲が好きだって言ってたよね。それは本当なの?」
彼女は首を横に振る。
「ごめんそれも嘘」
そして彼女が口を開くと、二人の目が合った。彼女はいたずらっぽく笑ってこう続けた。
「本当に好きなのはね、1曲目のながーい曲」
それを聞いた瞬間、彼の胸はこれまでにないほど高鳴った。そして、それは決して彼女と目が合ったからではなかった。
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