見出し画像

攻めの姿勢で拠点を変える

住む場所が変わると仕事も変わります。
というか、「仕事の都合上、住む場所を変えられない」と思いがちかもしれません。

ここで、戦国時代において、拠点を次々と変えた革命児・織田信長を紹介します。

▼ 拠点を変えない常識

当時の武将(大名:だいみょう)の間では、拠点を変えないというのが常識でした。何故なら、大名というのは元々「守護大名」という職業で、室町幕府により割り当てられた土地・地域一帯を警護・治安維持する代わりに年貢の取り立てを行うという領国管理職です。足軽という戦役時の軍隊も、半農半兵で、農繁期には自国で田畑の刈り入れ等をしていたと言われています。

なので、自国を養うために他国に侵攻、占領して自国を拡張することはあれど、「一所懸命」という言葉通り、父祖伝来の土地を守ることにこそ命を懸けていましたし、そもそも天下統一等と謳うものすら居ませんでした。

▼ 織田信長が進めた兵農分離

以前記載したように、織田信長は商売人気質で、経済力が他の大名に比べて非常に優れていました。

織田信長は、その経済力を以って、各家の次男三男を雇い(長男は家を継いだり、家の仕事をする必要があるため)、職業軍人として兵農分離を進めていきました。

これは、織田信長が経済力があることによって進められた施策です。

※ 戦国時代中期〜後期には、各国において戦争を行うことが多くなったため、食うため、生きるために職業軍人が増えてきたのも事実としてあります。

▼ 攻めの姿勢で拠点を変える

また、織田信長は商売人気質であるため、拠点変更を厭いませんでした。

織田信長の元々の拠点は尾張(愛知)でしたが、1567年に斎藤龍興を破り、美濃(岐阜)を攻略した後に、岐阜城に拠点を移して天下統一に乗り出しました。

そして、1576年にはさらに拠点を安土(滋賀、琵琶湖のほとり)に変えました。琵琶湖は水上交通の要衝で、淀川を通じて大阪湾にも出れますし、中山道や北国街道など主要な街道も通っていました。政治の中心地である京(京都)と数時間で行き来できる上に、元々の本拠地である尾張や美濃と京の中間点に位置していました。

以前記載しましたが、武田勝頼は移転を試みたものの周囲の理解を得られず滅びてしまいましたが、織田信長は常に下剋上のビジョンを謳って周囲を納得させながら、目的を遂げるために必要な移転を進めていきました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?