誰にも負けない身体と心

完全に統制された空間の中で、わたしだけが偽物である。とんだスパイ野郎だ。スパイのわたしはひとりひとりの顔や魂をこんこんと観察する。見た目に一般人との差異はないが、彼等の背中には、背骨に沿っていっぽん線のタトゥーが入っている。もちろん普段は服に隠れているわけだが、彼等の使命は、その線を常にまっすぐに保つことである。ぴんと背筋を伸ばして生きるのだ。笑うときも。泣くときも。食べるときも。交わるときも。タトゥーの色は赤・青・紫・茶から選ぶ。昔は男が青、女が赤、と決まっていたが、差別的だとの指摘があり、15年前から自由度が増した。わたしの左隣に座るお婆ちゃんは、首が前にいくらか出ているが、背筋はやはりぴんとしている。壇上でスピーチをする男性をまじまじと見ているが、その目は虚空を見つめているようにも思える。お婆ちゃんの前、わたしの左斜め前に座る髪の薄いおじさんは、スピーチをする男性の一言一言に反応し、ほー、とかへー、とか感嘆の声を漏らす。話の切れ目には、両腕が壊れそうなほど力強い拍手を送る。ウンウンと頷きながら。彼等の背筋はみな太陽に照らされた木々のように地面に対して垂直に伸びている。わたしの背中にタトゥーはないが、背筋をぴんと伸ばしている。そうしないと、スパイだとバレて、ここから帰れなくなるかもしれない。  

「たしか、15年前に法が変わったんだよ」  

会合のあと、近くのカフェでシャンディーガフを飲みながら彼は言った。彼の背中には紫色のタトゥーが入っている。血管くらいの太さで、ほんとうに鮮やかな色合いをしている。わたしはぐったりとしてテーブルの上に顎を置いた。もともと猫背なので、背筋を伸ばしたまま会合の約2時間を過ごしたら腰のあたりが凝った感じがした。彼は背筋を伸ばしたまま、わたしを見て笑っている。筋肉が足りないから、姿勢が悪くなるんだよ、というようなことを言った。それはじゅうぶん聞きましたよ、とわたしは返した。会合の中でスピーチをした何人かの人々はみんな、姿勢を正すことで起きる健康上の利点、精神面の安定・成長などについて話していた。「誰にも負けない身体と心は正しい姿勢から生まれる」らしい。スパイのわたしはそれについて考えながら、テーブルに顎を置いたまま、向かいの席の彼の左手に触れた。彼の手はいつ触っても硬い。悲しくなるほどに。19号のごつい指輪をはめた薬指を撫でる。  

「ねぇ」
スパイのわたしは言う。小さな声で。
「どうして紫なの?」



photo:赤土奈津 (@akatsuchi)

#詩  #写真 

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