【詩】すべてを書きたかった - リマスター
5月も下旬だというのに、とても冷える日だった。時刻は19時をまわったところで、吉祥寺の街はまもなく夜になろうとしていた。駅前にはたくさんの人がいた。僕は春物のストールをぐるぐるに巻いて、冷たい風を受けとめようとした。とても信じがたいことだが、吉祥寺にいる全ての人たちが、何かをじっと考え込んでいた。通り過ぎていく人たちの瞳を眺めると、思考の断片がちらりと覗けるような気がした。
僕は仕事が終わったあと、あてもなく吉祥寺の街を歩いていた。夜はますます近づいてきている。遠くの空に、小さく三日月が浮かんでいるのが見えた。三日月は一瞬だけ姿を見せると、すぐに建物の影に隠れてしまった。僕はそこで立ち止まると、目を閉じてから、大きく息を吐き、また吸い込んだ。ゆっくりゆっくりと、それを何度か繰り返すうちに、身体が少しずつ夜に馴染んでいくのが分かった。
どこからか、鳥の鳴き声が聴こえてきた。甲高い、哀しげな声で、鳥は何かを訴えていた。それは映画の冒頭の象徴的なシーンのようだった。僕はある映画に出てきた詩人のことを思い浮かべた。彼は鳥よりも、ずっと哀しい人だった。彼は人生の深みに嵌ってしまい、そこからもう文字通り、まともに歩くことすら出来なくなってしまった。
「すべてを書きたかった」彼は言った。
「あの完璧だった一日も」
「私の気持ちも、君の人生も」
「すべてを書きたかったんだ」
僕も心から、そう思う。
(2013.5.19 初稿)
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