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強い太后

1894年に起きた日清戦争から1911年の辛亥革命、そして清朝滅亡までの混沌とした中国の政治を担った主要な人々の動向、経歴、風貌をわかりやすく語り、そして歴史小説のような面白みのある本がありました。

杉山裕之氏の「清朝滅亡」です。

西太后、李鴻章、光緒帝、康有為、袁世凱、孫文、宣統帝などの人物は清朝末期の国政、戦争、革命にどのように関わったか世界史の授業、映画、小説などによって、ある程度知っていました。

杉山裕之著「清朝滅亡」では上記の主要人物の他に清朝の皇族、軍人、官僚、宦官、革命家など様々な人々が登場します。
明治維新よって先に近代化した日本を参考にして、急激な改革を皇帝に訴える人。
近代化の必要性は認識しつつも、最も強い権力を持つ西太后と妥協しながら近代化を進めようとする人。
新しい国家を造るために清朝を武力革命によって滅ぼそうとする人。
欧米の宗教や科学を一切拒否する人。

このように思想や野心で対立する人々がぶつかりあって、時にはおびただしい血を流して、日清戦争、戊戌の政変、義和団の乱、日露戦争、西太后の死、武昌蜂起、辛亥革命、清朝滅亡に進んでいく「清朝滅亡」を読むのは、壮大な伽藍が崩れ落ちてゆく様を見てるようです。

「清朝滅亡」を読んで西太后と袁世凱の見方がやや変わりました。
改革を皇帝に説いた康有為らと、その期待に応えて急激な改革を実行しようとした光緒帝について、康有為らは明治維新に倣った改革を主張したことから、私は康有為と同志達に親しみのような感情を持ってましたが、残念ながら彼等の改革プランは当時の中国の実情に合わず、支配層の感情も平民の感情も逆なでするものだったと本書で知りました。

変法という改革を進め、西太后を殺害しようとした康有為らの改革派と光緒帝に対し、西太后は反撃に出て光緒帝の権限を奪って無力化し、康有為は亡命して処刑は免れたものの、西太后襲撃に関わったと嫌疑された6人を処刑します。

これを戊戌の政変と呼びますが、本書を読むまで康有為らと光緒帝の改革派は、清朝の将来を危ぶむ人々からある程度は支持されていて、権力を失うことを恐れた西太后が強引に改革派を弾圧したと思ってました。

実際は変法は全く歓迎されず、変法を弾圧した西太后の方が当時の中国の人々の支持を集めたわけですね。

戊戌の政変の後に義和団事件が起こり、「扶清滅洋」を唱える義和団らの排外運動に同調して、中国本土から欧米の宗教と軍隊を追い払おうとした清朝の強硬派を、西太后は抑えるどころか支持したのは、西太后の大失点でしょう。

義和団事件鎮圧のために出兵した欧米と日本に対して、清朝は各国が要求する謝罪と権利の付与、そして4億5千万両の賠償金を39年間で支払うことを条約にして認めます。

この条約を中国では辛丑条約、日本では北京議定書と呼ぶと本書にあります。

「扶清滅洋」を唱えて暴力を伴う排外運動を、欧米や日本の軍隊ではなく清朝が鎮圧すれば、清朝は排外運動を支持する民衆から怨嗟を受けたかもしれません。

しかし4億5千万両という賠償金は巨額です。wikiの北京議定書を見ると、賠償金は年利4%の利子をつけて払うとあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E8%AD%B0%E5

「清朝滅亡」の中に清朝の度支部の1911年の予算原案が紹介されていて、1911年の財政収入は2億9696万両、財政支出は3億8035万両と記述されてます。

geminiで4億5千万両を年利4%、39年払い、元利均等返済で1年間支払額を計算してもらうと、2080万両と答えてくれました。

賠償金の支払額は清朝の年間財政収入の7%にも及び、それが財政支出が収入を8439万両上回る原因の一つになりました。
負債は1部は外国の借款で補い、wiki によると清朝滅亡後は中華民国が支払いを引き継ぎ、総支払額は6億5千万両に減額されたようです。
減額されたとしても賠償金の負担は民衆にとっては重く、産業育成の障害になったわけで、義和団事件の被害が全て西太后の失政というわけではありませんが、当時の最強の権力者として事件の鎮圧を命じなかった西太后の責任は小さくはないでしょう。

1905年に日本がロシアに勝利すると、西太后は5人の大臣を視察のために立憲諸国に派遣することを決定し、清朝要人の意見を聞いて、科挙試験の中止と小学校の設置を命じたと本書に記述されてます。

日露戦争の結果を見て、清朝が存続するためには憲法を公布して法令を整備すること、人材の登用には海外の新知識を身につけた者を優先すること、これらの重要性に気づいた西太后は、清朝のためなら千年以上続いた中国独自の制度を変えることも中止することも厭わないという事で、頑迷な守旧派ではなかったわけですね。

西太后は新し物好きで好奇心が強かったと本書にあります。
西太后は若いころから洋務運動や政治改革を進めたとあり、日本に比べてゆっくりと西欧技術の導入したわけですが、西太后の新し物好きと好奇心の強さが、もっと広範囲の西欧の技術導入と産業育成と人材開発に向かってれば、20世紀を迎える清朝はもっと違った姿になった気がします。

「清朝滅亡」を読むまで、西太后は独占欲が強くて競争相手は全て粛清し、敵対する者は許さないという恐怖で人を服従させ、国家予算を自分の豪遊に浪費して中国の近代化の邪魔をした人物と思ってました。

その考えは違うようで、西太后に反発する人もいるが、支持する有能な人も少なからずいて、西太后を支持する有能な人は恐怖からではなく、西太后の政治的能力の高さを評価して支持していたことを「清朝滅亡」で知りました。

ただ西太后の功績と失点を比較するなら、失点の方が大きいと今でも思います。

西太后は1908年11月15日に亡くなります。

西太后のことを書いてると字数が多くなったので、「清朝滅亡」に登場する別の人物の感想は後の機会に書きます。

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