袁世凱

君主に仕える臣下としては優秀だけれども、国の最高指導者としてはふさわしくない。
清朝滅亡の時代に軍人として政治家として活躍した袁世凱について、杉山裕之氏の「清朝滅亡」を読んで、そういう人物かと思いました。

「満州滅亡」を読むまで、袁世凱とは清朝末期の混乱を利用して蓄財し、自分より地位の上の将軍や官人に大量の贈物を送って懐柔し、清朝の軍隊の中で成り上がって強力な軍事力を持つ政治家となり、清朝滅亡後は中華民国の大総統となるものの、帝政を布いて皇帝になると宣言して国内外の反発を招き、仕方なく皇帝の地位から退き、最後は失意のうちに亡くなった時代錯誤の野心家というイメージでした。

しかし杉山裕之著「満州滅亡」を読むと、袁世凱は近代国家の元首としては適任ではないけど、清朝に仕える臣下としてなら清廉潔白には遠いけど、情に厚い面があり、有能な人物であり功績もあったと思うようになりました。

袁世凱は1859年に生まれ、官吏の試験である科挙に落ちて、山東の淮軍の幕僚だった張謇(ちょうけん)の世話になり、そこで張謇に実務能力を認められ、それから李鴻章に気に入られて出世し、袁世凱が記した軍政改革案の意見書は清朝首脳に評価され、皇帝が袁世凱に直接意見を聞くまでになります。

袁世凱が若いころに世話になった張謇は1894年の科挙の首席・状元となります。
張謇を状元にしたのは当時の皇帝の側近の翁 同龢(おうどうわ)でした。
翁同龢は康有為の変法を否定したため、戊戌の政変の前に皇帝の信認を失い失脚します。

翁同龢によって状元に抜擢された張謇は、北京を去る翁同龢を見送りますが、袁世凱も厚い餞別を送って感謝されたと本書に記されてます。

政界を追われた翁同龢に厚い餞別を送っても、袁世凱には何のメリットも無いでしょう。
翁同龢への餞別は見返りのためではなく、かって世話になった人を抜擢してくれた恩人への感謝の印であると感じました。
袁世凱には、こういう情に厚い面があったのでしょう。

袁世凱の実務能力の高さについても「清朝滅亡」に記述されてます。
1895年に新軍建設の任務を与えられると、兵士に必要な体力のない者や規律の守れない者は外して、兵士と装備を一新した「新建陸軍」という7千人からなる部隊を創設。
戊戌の政変で西太后と皇帝が対立すると、政治的能力が高い西太后の方につく。
義和団の乱ではすばやく鎮圧に動き、山東を平定。
直隷と呼ばれた今の中国の河北省付近の行政区画において産業振興と制度改革を実施。
教育を重視し、西洋式教育に力を入れ、直隷において当時の中国の中で突出したペースで学校教育を拡充。
保定滞在中に、日本人顧問を招き、日本の制度に基づいて、新建陸軍の兵士3千人を対象に、半年間、清国初の警察官の訓練を行った。

「清朝滅亡」を読むと袁世凱が出世できたのは、政界有力者に贈り物や金品を渡したこともありますが、行政と軍事と状況判断の能力が、清朝末期の時代の中では飛び抜けて高かったことがわかります。

日清戦争前は清朝の朝鮮駐在代表。
1895年に新建陸軍を創設して、直隷按察使の肩書を得て、一軍を率いる人材を育てる。
義和団の乱直前に山東巡撫となる。
1903年に西太后の信認厚かった李鴻章が亡くなると、李鴻章の後を継いで直隷総督兼北洋大臣となる。
1906年に立憲君主制への移行準備を行うよう求める意見書を朝廷に出す。
1907年に西太后により軍機大臣に任命される。
西太后の死後の1909年に官職を辞し故郷に帰るも、家に電信設備を備えて各地の部下と地方大官と常に連絡を取り、影響力を維持する。
1911年10月に武昌蜂起から始まる革命の反乱が全国に波及すると、袁世凱の軍事力を頼りにした朝廷により、11月13日に内閣総理大臣として北京に入る。
革命勢力との交渉全権大臣に任命される。
革命勢力が中華民国と国名を改めると、西太后に代って太后となった隆裕に中華民国との戦いの非を説き、皇帝退位と国の主権を清朝から中華民国に譲るように勧める。
袁世凱や他の大臣、軍人、皇族の意見を聞き、隆裕は皇帝の退位を決断、1912年2月12日に清朝は滅ぶ。

清朝が滅亡した5年後にロシアで革命が起こり、この時は皇帝一家が参殺されます。
フランス革命の時も国王や王妃マリー・アントワネットは断頭台に消えます。
2つの革命とは違って辛亥革命の後も清朝の皇帝一族は、生活を保証され存命することができました。

清朝の皇帝一族が存命できたこと、あるいは過去の王朝滅亡時に比べて平穏に清朝から中華民国に国家主権が交代したこと、その最大の要因が袁世凱の動きであると杉山氏は述べていて、「清朝滅亡」を読んで、私もそうだろうなと思いました。

惜しらくは、清朝では立憲君主制、国会開設など、康有為の急進的な改革ではなく穏健な改革で近代化の意見を朝廷に出してきた袁世凱が、中華民国大総統に就任後に時代に逆行するように帝政を言い出し、実際に皇帝になって反発を招き、人々の支持を失ってしまったことです。

清朝統治下で高い実務能力と、世話好きな性格と、先進国の技術と制度を積極的に導入する姿勢を見て、清朝皇帝に変わって袁世凱が優れた国家元首になると期待した人々は、皇帝即位を宣言した袁世凱にがっかりしたことでしょう。

大総統になるまでの袁世凱は人民の声に耳を傾けていましたが、大総統になってからの袁世凱の耳に人民の声は入らず、心地いい側近の言葉だけを聞いていたのかもしれません。

権力を握る前と後で人格や周囲に対する態度が変わってしまう人物は、歴史上珍しくありませんが、袁世凱もその一例かと思いました。



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