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"性表現規制"は争点になるのか?

DNFです。


以前、国際男性デー(11月19日)に「男性専用車両の実現」に対する話題が持ち上がりました。

"女性専用車両により女性への支援がある状態に対し、男性への支援が無いのは男女差別である"として、男女平等の精神から男性専用車両の実現を訴えるものでした。
私のフォロワーさん達も多くがその思想に賛同し、支持を得ていました。


私は反対でした

男性専用車両に反対の理由

まず一番最初に思ったのは「同性から性被害を受けた男性の居場所が無くなってしまう」という事でした。

当然そういった被害者の方は【男性専用車両】には乗れませんから共用車両に乗るようになります。しかし【男性専用車両】と【女性専用車両】が存在する場合、共用車両に乗る人間に対して必ずこういう声が出てくることでしょう。(今でもすでにあります)

「何故男性専用車両があるのにそっちに乗らないの?」
「何故女性専用車両があるのにそっちに乗らないの?」

これがエスカレートすると

「痴漢したいから共用車両を選んでるんじゃないの?」

となるかもしれません。
理由があって専用車両に乗れない人間にとっては辛い状況です。


そもそも女性専用車両は痴漢を抑制できているのでしょうか?

上記記事の前半部分では「効果が無いのではないか」という事が語られています。

まず痴漢発生自由を考えるにあたり、不正のトライアングルから考えた場合、満員電車で起きるという点が【機会】として大きいと思われます。

専用車両は性質上、通常より乗車率を偏らせることになります。つまり車両による乗車率の差を広げ、【機会】となる満員車両を作ることを助長してしまう事があります。
またそもそも"専用車両"での痴漢を防いだだけで、全体もしくは共用車両での痴漢を防いでるわけではありません。ゆえに"痴漢の場所が移動しただけ"という指摘もあります。

ただその反面、最初の記事の後半にあるように「女性専用車両で安心できるスペースが出来た」という平均的な満足度は高まったのでしょう。被害の数の動きはさておき、安心して利用できるようになったというのは支持の大きいところです。

だからこそ、そこに危惧を感じています。

表現の規制問題では良くある事ですが「実在する犯罪をおざなりにし、絵や表現を叩いたほうが"やった感"が出て評価される」という問題があります。

私にとっては専用車両の推進は「顧客の安心度」を"大きく痴漢撲滅に貢献していると錯覚させ評価されている"ものだと感じており、実際には痴漢対策としての効果が薄いのだと思っているのです。

男性専用車両を作ることは確かに冤罪から身を守り安心できるという意味で満足度は高いでしょう。しかし痴漢対策の観点からはどんどん離れており、女性専用車両へのカウンター(当て擦り)の意味合いの方が強くなっているように見えるのです。

私としては防犯カメラを全面的に推したいです。しかしながら電車内のカメラの普及率はまだまだ低そうです。

防犯カメラは抑止効果も高いと思いますし、言い逃れを許さず捕まえること、もしくは冤罪を防ぎ潔白を証明する事も出来るので性差関係なく頼もしいことでしょう。当面はこれをどんどん強化していくことを望んでいます。

もちろん【対処療法】(ひとまずの不安の解消など)として、女性専用車両導入の選択によって「女性が安心して利用できるようになった」というのは良かったことなのでしょう。ただこの導入を突き詰めても痴漢の撲滅には近づいて行かないのではないでしょうか。

そう【最適解】を考えたいのです。

"最適解"とは


「100人中1人が100万円もらえます」
「100人中50人に100万円もらえます」
という二つの選択肢があったとします。

総金額が100万円と5000万円で、明らかに後者の総量が多いです。
功利主義的で考えれば後者がより多くの人を幸せにする良い解答です。

しかし「100人で話し合ってください」と言った時、後者の選択肢にする事はいくらか揉めることでしょう。何故なら格差が真っ二つに分断され、不満の感情が高まるからです。

これ、にわかには想像しにくく「いや後者でみんな納得するでしょう?」と思う人も多いかもしれません。しかし実際に事例がありました。

ゲーム『グランブルファンタジー』によるイベントで、正確な金額換算は難しいものの最高9万円相当にもなる3等の当選確率が約50%だったのです。これが物凄く炎上し、最終的には運営が謝罪して3等が全員に配られました。

これがゲームの話なのでまだ笑い話で済む話ですが、例えば貧困者を救える人間に置き換えたりしたらどうでしょう。
100人中50人を救ったほうが【救う立場】から見たら正解ですよね。しかし【貧困者の立場】から見た場合、残された50人の不満感情は物凄くなるかもしれません。全員を救える準備が出来るまで救わないほうが良い……などという回答も有り得るかもしれません。

つまり"【最適解は立場や場合によって異なる】"または"【最適解】とみんなが納得する回答は違う"という事になります。

本題:創作は性犯罪を助長するか

表現規制派と規制反対派の議論において毎度のように繰り返される話題。

何かの犯罪がおき「創作表現を真似した」という事例があると「表現は規制するべきだ、犯罪に影響がある」と言った主張が起きます。それに対して「創作がそのような影響を与えるものではない」と言った反論が一部でなされることがあります。

さて、私はまず、こう主張します。

①「創作物は人間に影響を与える」

というかこの世に、それに出会った時に人間に全く影響を与えないものというのを探すほうが大変なのではないでしょうか?
 創作物に限ったことではなく、人間の思想に大きく影響を及ぼすものがあります。そしてそれがどう影響するかは受け手側の資質によります。どんなに素晴らしく良いものだと思っていても、人によっては悪く影響するでしょう。

②「安易な規制は犯罪を増やす」

"性犯罪を減らすために表現を規制するのはデータに基づかない"というのは、表現規制派の方にも一部共有頂いているようです。
 ↓このような記事があります。

統計データは巷では「理論的ではない」等と馬鹿にされることもあるらしいのですが、実データの信用性は軽視できないものです。ガリレオがピサの斜塔から小さい鉄球と大きい鉄球を落としたところ同時に着陸し、それまでの「重いものが速く落下する」という理論を覆した有名な話がありますよね。現実で施行されたデータというのは強いものです。
"性表現を規制すれば性犯罪が減ると信じて施行した国はことごとく逆に増加してしまった"わけです。気のせいレベルではなく圧倒的に変わっています。

もちろんこのデータが「創作物が犯罪を減らしている確たる証拠」になるわけではありませんが、このようなデータが無ければ、私は性犯罪を減らすために性表現規制に賛成していたと思いますし、規制反対派の方にも同じ思いの方は多く居るように思います。

考察:矛盾の無い理論は?

さて、議論において上記①と②がぶつけあっている様子が度々見られます。あたかも両立しない理論であるかのように、です。

果たしてそうでしょうか?

①によって創作物は人間に影響を与え、性犯罪を生む可能性がある。
②しかし、性表現の規制が性犯罪を増加する傾向が高い

これを矛盾無く成立させるにはこう推定できます。

「性表現の創作物は性犯罪を増やす面もあるが、減らす効果の方が大きい」

ほとんどの場合「創作物をきっかけに犯罪を犯した人間は、創作物が存在しなければ他のものをきっかけにして犯罪を行う」であろうと思われますが、最大限に考慮し「創作物が存在しなければ犯罪を行わなかった人間が居る」と仮定します。
しかし同時に「創作物が存在するために犯罪を行わなかった人間が居る」という事でもあり、その人数が前者を上回っている、と解釈するのが正しいでしょう。

※そもそも性犯罪が減少する理屈は?

性犯罪に直結するものとして「性欲」があるわけですが、性欲を現実の人間に向けさせずに創作で消費させてしまおうという話ですね。

性犯罪に限らず、例えば「夫の性欲を自分に向けられるのが嫌なのでエロ本を与えている」という話は良く耳にします。性欲を減らす薬もありますが、副作用のリスクであったり将来子供の計画がある場合それに頼るのも危険……なので、性表現の創作物が役に立つわけですね。

また、性表現が創作物として描写されていたところで「それが現実に適用してはいけない」という事が理解できていれば問題ありません。むしろ創作物のおかげで「これは悪い行為だったのか」と理解するケースもきっと多いのでしょう。

問題点:納得する回答は?

さて、ここまで踏まえて。

仮定として「創作物に性被害が増やす効果も減らす効果もある」とします。統計から推察するに減らす効果の方が高いことは読み取れます。したがって社会的な効果(功利主義における最大幸福)に乗っ取るのであれば創作物が規制されないほうが良く『表現の自由を侵害してまで敢えて犠牲が増えるような選択をするのか?』という命題になるのです。

しかし逆に、創作物を犠牲にしないことで『誰かを犠牲に他の人を救う選択肢を取っている』なんて解釈をした場合は納得いかない人も出てくるでしょう。親しい人が創作物による影響を受けた犯罪者による被害を受けた場合、その人の事を思えば他の人を犠牲にしてでも救いたいと訴える気持ちは理解できるものではあります。

さて、ではどちらが【最適解】なのか。

ここで冒頭の「専用車両」の話題に戻ります。
乗車可能な車両を【制限する】専用車両を設けることor増やしていくことは確かに専用車両内での痴漢を減らすことや、満足度を高めていくことには貢献しているかもしれません。同時に痴漢対策の対処療法としても一定の評価が認められるかもしれません。しかし根本的対策にはなっていないと思われます。被害を減らしたというより移した側面が大きいところです。

創作物においても、表現を【制限する】事で、確かに満足する人はいるでしょう。しかしそれは被害者が変わることはあっても、それが増えようが減ろうが、根本的対策にはなっていません。(統計から察するに、対処療法としてもリスクが大きく、不適切でしょう)。

【つまり創作物をどうこうするという争点自体が間違っていると考えます】

「性犯罪を限りなく減少させる」事を終着点とするならば、そのような人物の教育体制こそが根本的な解決となるのでしょう。

また一つの問題として"性表現を悪とするあまりに子供に勉強させる機会がなく、性行為の何が善で何が悪かを創作物でしか学べないケースがある"というのは大きな問題でしょう。
一部の方は「創作物を性行為の教科書にしている人が居るので規制しろ」という方が居るのですが、言い換えると「創作物を教科書として相応しいものにしろ」という事になってしまうので、それはおかしな論調です。教科書としての性質を求めるのであれば本当の教科書に求めるのが根本的な話です。(もしくは創作物を教科書にしてはいけないと理解させる教育が必要で、それが不足するようでは他にも問題が生じます)

つまり、もし世の中の性犯罪を減らしたいと願うのであれば、早い段階からの性教育についての拡充を推進するべきであり、それが根本的な解決であるのだと私は考えます。

まとめ


専用車両において、女性専用車両の導入は対処療法として評価すべきだと思います。しかし今以上の専用車両(男女共に)を推進していくことは根本的対策から遠ざかるものであり、反対です。防犯カメラ導入の推進を求めます(税金補助があっても良いとおもっていますが……)。

一方、創作物の性表現規制は対処療法としてもリスクが大きく受け入れ難いです。(仮に犯罪に著しく直結するようなものは規制するとしても、今声が上がっているような過剰なものであってはならない)
対処療法としても根本的対策としても不適切だと感じます。

※今回は犯罪の観点からのみの話であり「不快なものは規制されるべき」という観点は除外しています。
逆に、不快な表現からの観点の話はこちらをご覧ください。

あと毎回ことわっていることですが、私自身は性表現は不快なものが多く、性犯罪を憎んでいる立場であるということはご承知置きください。

本質的な解決を考える、ということ

私が【最適解】を考えたところで、それが正しい保障はどこにもありません。他の人の【最適解】は違うかもしれません。また、知識が増えれば違う【最適解】を見つけるかもしれません。もちろん根本的な解決のみを考える事が【最適解】とも限らず、まずは対処療法が必要な場合もあるかもしれません。

「自分が考える、根本的に性犯罪者を減らすための【最適解】は本当にソレなのか?まだ考えなければならないことがあるのではないか」というのは誰もが留意して行かなければいけません。

今の世の中「確実な効果をもたらすもの」より「確実な効果をもたらしているようにみえるもの」の方が評価される事があります。内容を把握せず、本当の色も分からずに、私たちは合成着色料に騙されてしまっているのです。

表面的なことではなく、なるべく根本的なことにも視野を向け、考えていけるように。

自分自身を戒めながら、今日も色々考えます。

ご読了有難うございました。


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DNF@P_drenreb




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