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大衆は存在するか

人間が多数派と少数派の 2種類に分かれるなら、あなたはどちらですか?
多数派のメリット/デメリットは何でしょうか。
多数派と少数派、どちらがより幸せでしょうか。

あなたが日々摂取している情報・コンテンツは、本当にあなたが求めているものですか?
社会の普通を疑ってみる。
次から次へと摂取される情報の咀嚼に疲れて、たまには立ち止まって考えてみようと思いました。

愚かなマスを想定している?

例えば、日本政府の COVID対策を高評価する論調のニュース記事に対して、「印象操作はやめてください」とのコメントがついたとします。

コメントした人は、その記事によって印象操作される人がいることを危惧しているんですよね。
でも、自分は印象操作されない自信があるのでしょう。
自分は印象操作されないのに、なぜ自分以外の人は印象操作されるかもしれないと思うんだろう?
自分以外の人もこんなペテン記事に印象操作されるはずがない、とは考えないのでしょうか。

つまり、世間には自分より愚かな人間がたくさんいる、と考えているわけですね。
それって具体的にどんな人たちなんだろう。
普通に漢字も使われている 800文字ほどの日本語が読めて「政府のCOVID対策は成功した」記事を鵜呑みにする人って存在します?

いくらなんでも自分以外の人間をバカにしすぎではないでしょうか。

大衆はあなたの身近にはいない?

例えば、YouTuber 人気ランキング。

1位 ヒカキン
2位 はじめしゃちょー
3位 東海オンエア

あなたの家族、同僚、友人、隣人などの中に、トップ 3 YouTuber の一人でも観ている人はいますか?

私の身近には一人もいません。
ヒカキン以外は、名前すら聞いたことありません。

「国民の 97.4%がタモリを知っている」時代と違うのはわかります。
私と私の身近な人たちが歳をとった、というのもあるでしょう。
それにしてもですよ。
自分の周りの世界が、世間とこんなにかけ離れていていいのだろうか。

そろそろ、本気で問いたくなってきます。
大衆って、どこにいるの?
そもそも、実在してるの?

万人にウケるものは面白くない?

例えば、ジブリ映画の興行収入 1位は『千と千尋の神隠し』だそうです。

何かの間違いとしか思えません。
本気で訊きたくなります。『千と千尋』が一番好きって人いるんですか?

興行収入なので、マーケティング次第なところはあるし、タイミングの要素も大きいでしょう。
しかし、本質はそういうことではなく。

作品の質と、大衆の支持は、正比例どころか反比例するのです。

真に優れた作品=大衆にはウケない
大衆にウケるもの=つまらないもの

ついに、大衆の存在を認めてしまいましたね。

情報化社会や大量消費社会以前にも、大衆は存在していたそうです。
現在より 100年ほど前に、オルテガというスペインの哲学者が大衆について書いています。

大衆は、社会階級とは関係ない。
大衆は、貧富の差とは関係ない。
大衆は、知的能力とは関係ない。

大衆とは、自分がみんなと同じだと感ずることに苦痛を覚えず、他人と自分が同じだと感じていい気持ちになる、そのような人々全部である。

うーむ。わかるようなわからんような。

大衆の対極に位置する者を精神的貴族と呼び、こんな特徴を挙げています。
✅ 精神的に成熟している
✅ 自分と異なる者に寛容
✅ 高貴なる義務を果たす
✅ 自尊感情と自己肯定感
✅ 損得でなく道徳で動く
✅ 大衆迎合せず懐疑する

なるほど。身分も財力も知力も関係ない、まさに精神の貴族でしょうか。

コンテンツとビジネスは相反する?

精神的貴族の特徴はさておき。
社会は常に多数者と少数者からなり、多数者のことを「大衆」とオルテガは言っているようなのです。

一見ムチャクチャというか、全然「大衆」の説明になっていない気もしますが、こちらのほうが本質を衝いていると思いませんか?

多数者の支持を集めるものはつまらない、という説と見事に符合しますね。

映画の興行収入だけではなく、各種のランキング、ベストセラー、視聴率、再生回数、多数決、選挙・・・挙げるとキリがないですが、社会は多数者による支配にまみれています。
そんな社会はつまらないし、ヤバいでっせ、とオルテガは 100年前に警告していたわけです。

製品・サービスに対して消費者が「支払ってもいい」と思える金額のことを、経営学では WTP (Willingness To Pay) といいます。
A) 顧客の 90%を占める大衆の WTPが 1,000円の映画
B) 顧客の 10%の精神的貴族の WTPが 9,000円の映画
理論上は、同額の興行収入が見込めます。
しかし現実的には、映画の料金を 9,000円に設定するわけにはいかないので、A のほうが興行収入は多くなるでしょう。

企業がこのロジックのみで動くと、誰もが Aの映画作りを目指し、Bの映画を作る人はいなくなります。

コンテンツは質を求め、ビジネスは量を求める。質と量は両立しない。
このときビジネス(量)が優先されるのが大衆化の本質です。
クリエイターがビジネスの論理に屈する、とも言えます。

金儲け至上主義。
人間のあらゆる活動をビジネスモデル化し、個人の趣味にまでマネタイズを強要するような風潮、いわばビジネスファシズム(今私が命名しました)。
その命令に従って多数者の支持を集めようとすると、コンテンツの質は低くなり、ますます大衆化が進行するスパイラル。収束ではなく発散過程です。

まとめ

大衆も、精神的貴族も、哲学者が考案したフレームワークに過ぎないので、自分はどっち側だろう?と考えるのはナンセンスです。
重要なのは、精神的貴族に向けて「大衆と共に生きよ」と言っていること。
昨今社会問題化している “分断 (Divide)” とは根本的に異なります。

成熟、寛容、道徳といった精神的貴族のキーワードを見ればわかりますね。
社会を構成する一人ひとりが、こういう性質を保持していれば、分断なんて起こりません。

私の考えでは、「大衆」など存在しません。
誰もが多かれ少なかれ大衆的な要素を持っているように、精神的貴族の要素も万人に備わっていると思っています。

人間の大衆化を助長するビジネスファシズムに、私は抵抗します。