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『あかり。』#21 柄本家の人々・相米慎二監督の思い出譚

僕が年間通して一番お会いする俳優は、柄本明さんである。いや、仕事ではない。仕事をしたことは、まだ一度もない。たまたま隣町に住んでいて、たまたま同じ喫茶店にいくのだ。お互い、その喫茶店にはよく行くものだから、どうしたってお会いする機会が増える。

「最近、面白い映画見ました?」
「いや、見てないですね」と、僕は苦笑いする。
「この前、〇〇見たんだけど、あれはひどいねぇ、、」
「あー、やっぱり、、、」
などと、最近なんか面白いもの見たか問答からたいてい話が始まる。答えられないと不勉強が怒られそうで、いつしか、演劇であろうと映画であろうと配信であろうと、答えられるように準備するようになった。

「相米さんならなんて言うかね?」
「どうでしょう?」
「やっぱりさイーストウッドは、すごいよね。映画とはこういうものだっていとも簡単に撮るもんね」
「監督はイーストウッド好きでしたもんね」
「あーいうふうなの撮れないのかね?」
「簡単じゃないでしょうね。どうしたって自我がありますから」
「あのひとは自我ないねー」
「映画とはなにか、が皮膚感覚で染み付いてるんでしょうか」

まあ、例えばこんなふうに5分、10分とお話しさせていただき、珈琲屋の軒先で別れる。

柄本明さんと初めてお話ししたのは、池の上(下北沢の隣の駅)の小さなレストランだった。そこを借り切って、無理矢理ライブをできるように片付け、柄本さんが、高田渡さんのミニライブを主催した。そこに、監督とお呼ばれしたのである。高田さんの歌を聞いたことはあったが、生で見るのはそのときが初めてだった。高田渡さんの歌には、アマチュアリズムとプロフェッショナルが共存している。長く活動してきたひとだけが獲得できる飄々とした凄みがあった。ゲストで中川五郎さんも歌いに来ていた。親しいひとが集う空間で、とても居心地がよかった。
ライブ終わりに、柄本明さんに初めてご挨拶をした。言わずと知れた相米映画の常連俳優であり、名優であるから、僕は緊張してご挨拶した。
「いま、オレについてくれてんの」
監督が柄本さんに僕を紹介してくれた。
「あー、そう。あなたもまあ物好きな」そう言って笑った。
柄本さんは監督がわざわざ来てくれたことに喜び、家族を呼んだ。奥さんの女優・角替和枝さん、長男の佑、時生。みんな顔がどこか似ていて面白い。小学生だった佑くんが、監督に「僕は将来世界一の映画監督になるんだ」と言った。柄本さんが恐縮して「お前、なんてことを言うんだ」と佑くんをあわてて叱った。
「おー、そりゃあ頼もしいな」と監督は笑った。和枝さんが打ち上げに残ってよと言ったが監督は手を上げて「またな」と断り、僕に合図して歩き出した。

柄本さんと監督には深い友情がある。監督が助監督時代の終わりとか、映画を(デビュー作『翔んだカップル』)撮るか撮らないかくらいの頃からの付き合いだそうだ。長い付き合いなのに、まったくベタベタしたものがない。それでいて、お互いを認め合っている。それがなんとも大人っぽい感じがした。

そのあと、たしか下北沢まで歩いて、新雪苑(下北沢の町中華)で餃子を食べた。高田渡さんの歌のあとの餃子はなぜかしっくりくるのだった。

ちなみに、そのとき出会った中川五郎さんには自分の映画に出てもらったことがある。五郎さんは70年代を生き、80年代をひょうひょうと走り抜け、その後、また歌に戻って、今もまだどこかの街で歌っている。

次にお会いしたのは、柄本明さんが、新劇の舞台に出るときのことで、主演は中村勘三郎さんだった。もちろん先代です。(当時はまだギリギリ中村勘九郎だったかもしれない)

その頃の勘三郎さんは妙な色気があって、歌舞伎だけでなくあらゆるジャンルにチャレンジする俳優だった。演目は「浅草パラダイス」という人情喜劇だった。演出は、僕の大好きな久世光彦さんだ。これも柄本さんにお呼ばれしたのである。まあ、僕が呼ばれたわけではないですが。

この芝居がまたなんていうか、壮大な中村勘三郎ショーで、もうお客さんは全部勘九郎さんの大ファンだから、みんなを手のひらにのせて笑わせ、泣かせ、しんみりさせて、それでも見終わると大拍手喝采。とにかくお客をスッキリさせるという、まさに新劇的でプロフェッショナルな演劇だった。そこにアングラ出身の柄本さんがメインキャストで出ているというのがいい。なんとも面白いアンサンブルだった。
芝居がはねて初めて新橋演舞場の楽屋へご挨拶にいった。僕が知っている下北沢の劇場の楽屋とはまったく違う趣きがあった。そこは日本の演劇文化の伝統が感じられた。

焼肉を食おうと、勘三郎さんが言った。
「監督、今日は焼肉だよ。一緒に行こう」
メンバーを考えれば、失礼するのが筋であるから、僕は帰りますと言ったのだが、監督は「なんでよ」と言って帰さない。
「いや、でもやっぱりまずいですよ」
「大丈夫だから、来るの」
「はあ、、でも」
連れていってもらったのは、東銀座の立派な焼肉屋で勘三郎さんの行きつけのようだった。
勘三郎さんは手際よく注文を済ませる。監督は自分の食べたいものをあれこれリクエストする。このあたり、場慣れしているというか臆さないというか、さすがの貫禄である。
どこであろうと、監督は自分を変えない。食いたいものは注文する。

僕はテーブルに並んだ肉を焼く係りだ。焼き方である。あと飲み物作り。
勘三郎さんはテンション高く喋り続け、柄本さんも笑い、話して、監督も大笑いし、座は盛り上がる。
僕は、末席で肉を焼く。焼き上がったものをそれぞれの小皿にポンポン取り分ける。
ていうか、それしかできない。話の輪には恐れ多くて加われない。
そのうち、僕の焼くスピードが早すぎたのか勘三郎さんに小言を言われる。
「あなたはなんでそんなに肉を焼くの?早すぎるんだよ、ペースが」
「あ、すいません!」
「みんなの食べるペースを見ながら、こう…いいタイミングで焼かないと」
「はい!すいません」小言すら、なんだかセリフみたいでちょっと嬉しくすらある。しかし、すぐに小言は終わり話が別に移る。


酒もたいして飲めない僕は、間が持たなかった。自分の分だけ焼くわけにはいかないのだから。で、飲み物を作るばかりになる。今度は焼きが甘くなった。締めもある。冷麺だっけ、なんだっけ…もうそこは覚えていない。
そんなこんなで、緊張の焼肉は終わった。僕はどっと疲れた。
名人たちのなかにど素人が混じると、ただの一食であろうと、それはもう修行だった。
ちなみに、めちゃくちゃ美味しい焼肉だった。緊張していようと、美味いものは美味いのだ。駆け出しには余りあるいい経験をさせていただいた食事だった。三人が交わす会話がまるで宝石のようだった。

その後、翌日も舞台のある勘三郎さんと柄本さんは機嫌よく、帰って行った。

僕はみなさんを見送り、終電間近の地下鉄に飛び乗った。


その勘三郎さんは今はもう空の彼方にいて、息子さんが勘九郎さんになり、やがて勘三郎さんになった。

映画監督になると言った小学生の佑くんは、今や日本を代表する若手俳優となり、念願の映画も撮った。時生くんも俳優として大活躍だ。柄本明さんはますます映画に舞台にドラマに活躍し、劇団のアトリエを建て、そこで若手俳優と一緒に『生活の中にある演劇』を作り続けている。和枝さんの作った美味い焼きそばを打ち上げで食べたいが、それは残念ながらもう叶わない。
 
「相米さんがいたら、なんて言うだろうね?」

柄本さんがたびたび僕に問いかける言葉は、不在者への追悼であり、憧憬である。そして、いつまでも我々の物差しである。

だから、僕はいつも曖昧に、「なんて言うんでしょうねぇ…」などとぼんやりと答えることしかできない。

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