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『あかり。』第2部 #66 監督の部屋・相米慎二監督の思い出譚

あの頃、あれだけ一緒にいながら監督の部屋に入ったことは一度しかない。

家の前まで車で迎えに行ったり、送りに行ったりしたことは何度かあるが……あれはどうして部屋に入ったのだろう。その理由が今となっては思い出せない。

さして広くなく、割と片付いていて、ものが少ない……のは思い出せる。
印象としては鶯色の部屋だった。
畳の縁の色か、カーテンか、座布団か……それとも壁の色だったのか。
とにかくそんな印象を覚えている。

例えるなら、明治時代の書生のような部屋だった。

「お茶淹れて」
「あ、はい」
キッチンは使った形跡もなくきれいだ。
お茶を探し、お湯を沸かす。
お茶っ葉の分量を間違えて多く入れてしまい、渋茶になった。
「濃すぎるんじゃないの?」
「あ、すいません、淹れ直します」
僕は慌ててやり直した。
お茶っ葉を捨てる場所がなくて、流しにそのまま流してしまったのが、実は今も悔やまれる。
あのあと、誰が掃除したのか……。

よく言えば、静謐な部屋であり、逆に言えば質素な部屋だった。
著名な映画監督ともなれば、立派な部屋に住んでいるものだと思っていた無知な僕はどこか拍子抜けしてしまったのかもしれない。

ごく普通の本棚があって本がたくさん並んでいた。蔵書家ではなさそうだ。
監督はいつも本を持ち歩いていた。
その本のタイトルをメモして、後で同じものを買って読んだりするのが好きだった。

JRの西荻窪に住んでいた監督は、昔の中央線文化人みたいな雰囲気があった。
間違っても代官山や恵比寿ではない。
吉祥寺や下北沢でもない。
西荻の町は監督に似合っていると僕は思った。

実は監督が死んでから一度だけ、その部屋を訪ねたことがある。
もういないのはわかっているのに、あれはどういう心理なのだろう。
なぜかドキドキしてチャイムを短く鳴らした。
無反応。
ドアの取手を回す。
鍵がかかっている。(当然だ)

しばらく廊下に佇んで、小さくお辞儀して建物を後にした。
帰りに、駅前でよく待ち合わせた喫茶店で珈琲を飲んだ。
苦くて美味しい珈琲だった。

その喫茶店、二年前に試しに行ってみたら残念なことに閉店していた。
タバコが吸えて珈琲が美味しい店だったのに。

監督はあの部屋でどんな孤独を抱えていたのだろう。
そんなことをよく想う。
考えたって仕方ないのにね。


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