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『あかり。』#24 迷い箸・相米慎二監督の思い出譚

何を食べようかと、食卓で箸をうろうろさせることは、お行儀がよくないとされている。

似たようなことが、撮影をしている時にもたびたび起きる。

決め打ちでアングルを切ったり、カメラを移動させたりすること、はっきりとした指示(=演出)がよしとされる風潮があるのは致し方ない。

どのパートのスタッフだって迷っている姿というのは見せたくないものだ。
内心迷っていたとしても、それを見せないのもプライドだろうし。

しかしながら、役者が迷い、それをどう撮るか、迷うことは恥ずかしいことではないと思う。むしろ、愛おしい。

相米監督の演出は、役者ありきである。芝居次第でカメラの位置は変わる。
芝居が決まらなければ、カメラは決められない。
つまり、役者が迷うとカメラも迷う羽目になることもある。
しかし、ある程度並行して準備は進めなくてはいけない。

特に、カメラマンが自我よりも、俳優の動きを優先させる眼差しを持った人の場合。

例えば、その日はそんなことが起きた。

キャストに、竹中直人さんが戻ってきて、桜井幸子さんと村田雄浩さんになった。三人キャストは初めてである。

まず、桜井さんが、迷った。(初対面だ)
明らかに彼女は相米演出に戸惑っていた。
監督はスタイルは崩さない。相変わらず、役者に委ね、考えさせる。
リハーサルが繰り返されるが、お互い落とし所は見つからない。

監督は少し困っているように感じたけど、そんな素振りは見せず、言葉を投げかけたり、突き放したり……。そのうち、引きずられるように村田さんも迷い出した。というより、受け方に困り出した(ように見えた)。
すると、カメラマンのMさんも迷いだした。

「村本さん、どう撮っていいか、わかんなくなっちゃった」
「え…」
いつになく、Mさんは暗い顔をする。監督から、どう撮れよとか指示はない。
「いや、いい感じじゃないですか」と、適当なことを言って励ますも、僕も嘘を言っている。
こういう時が、相米演出のちょっと怖いところで、いろんな人がそれぞれの立場で迷いだすと、ふわふわと全体が揺れるように、現場が沈んでいく。

そこをどう持ち直すのかが、僕の役割なのだろうけど、うまく立ち回れない。
監督の映画の中にも、たまに見かけるシーンだ。
映画だと、そういう揺れは、全体の中でかえって魅力的に見えたりすることもある。
ある種の生々しさがある。
しかし、CMだと、どうなんだろう?
あまり、見たことがない光景だった。

迷う、とはなんだろう。

迷うことは、いけないことだろうか?

撮影場所は、クルマのディーラーで、借りれる時間も限られていたし、まあいわばクライアントのお膝元で、スタッフ・キャストが迷っているというのは、確かに見栄えはよくないだろう。
テキパキと動き、さっと撮影する。それが基本だ。

しかしながら、そういう世間体的なことをまったく気にしないのが、相米慎二監督でもある。

愛のある乱暴な言葉を時に使いながら、役者を追い詰めてしまう。
明らかに桜井さんの顔が曇っていた。

あー…これはきついなぁ…。どうしたらいいんだろう…。

やがて、撮影は再開されるが、ちょっとモヤモヤしている。
「村田くん、どうすんの?」
「え?」
今度は村田雄浩さんに矛先が向かう。
村田さんが、そこを引き受け、面白い受けをなんとか捻り出す。
竹中さんも受ける。
桜井さんが、それに乗っかる。
それで、なんとなく回りだした。

なるほど、パスの受け手を動かすのか…僕は感心して見ていた。

カメラもようやく動きが決まりだし、いつしか撮影は粛々と進みだした。

ああ、引き出しが多いなあ…。

本来は、桜井さんから変化させたかったのだろうが、それが叶わないとすれば、周囲から攻める。

囲碁のようだった。

ひととひとが、動き、絡み合う、化学反応を起こそうとさせる。相米演出は対戦相手を選びがちである。しかし、ありていに撮ることを潔しとしないので、それは時に『迷い箸』のような仕上がりを産む。

シリーズがたくさんあるから、そんなものが産まれてもいいじゃないか…と問いかけられているようだった。

実に長く、濃い一日であった。

迷っている姿をみんなに見せることは、ちょっと恥ずかしくて、とても尊い。それだけ、真剣に取り組んでいることの証だ。
だから、それを待つことや受け入れることのできる仕事(=ひと)は素晴らしい。

そういう世の中であってほしい。

そして、ちょうどその頃、その後の僕の人生を大きく左右した出来事に、監督からお誘いを受けた。


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