見出し画像

『あかり。』 (第2部) #53 キリがない・相米慎二監督の思い出譚

監督にいつか自分が撮ってみたい映画の話をしたのは、新宿で芝居を見た後だったと思う。

昔々の永島慎二氏の漫画を映画化したい、できれば「フーテン」
そして「若者たち(黄色い涙)」を。

永島慎二さんは、主に1960年代から1970年代にかけて貸本や、雑誌「ガロ」「COM」「アクション」等で活躍した当時青春漫画の教祖とされた漫画家である。
もちろん彼は、僕らの世代の漫画家ではないのだが、僕は子供の頃からなぜか好きで、探して探して全ての本を手に入れ、かなり読み込み、簡単にいえばかぶれていた時期がある。(最初に「漫画家残酷物語」を読んだのは小学生の頃、近所の床屋の待合だと記憶している)
どちらかといえば、永島漫画は、監督の世代たちの読んだ漫画家かもしれない。

監督は僕が<永島慎二>と言ったことに意外そうな顔をした。
それから、薄く笑って「そう。難しいぞ。永島さんのは」と言った。
「はぁ」
「気分だからな、あの人のは」と付け加えた。

それは、物語にならないという意味だろうか?
スケッチの断片をコラージュして、そこから浮かび上がるものでは、映画にならないという意味だろうか?

すぐにわかるはずもない、そんなことを考えていると、監督は路地を迷うことなくスイスイと歩き、
「ここ寄るか」と独り言のように言った。

そこは小さなライブもできるバーだった。監督が入っていくと、カウンターにいた女性が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「監督!来てくれたの」
僕たちは音がよく聞こえる席に案内された。
「何飲む?」
「水割り」
「あなたは?」
「あ、同じで。すいません薄めにお願いします」
「こいつ弱いんだ」
「あら? 監督についているのに?」
「すいません……」
「もうすぐ、始まるからね」
女性はカウンターに注文を伝えに行き、奥にに消えた。
「あの人、どこかで見たような気がします」
「女優だったからな」

確かに。彼女のことは昔、映画やテレビで見た記憶がある。今は歌手なのか……。
それからしばらくして、彼女は何曲かジャズのスタンダードナンバーを歌った。正直、それほど上手くなかった。

ステージが終わると、彼女は僕らの席にやってきて、近況を語り、昔話を途切れることなくといつまでも喋った。
彼女はひどく陽気になっていた。
監督は「まぁな」とか「いいんじゃないか、それで」とか相槌を入れるだけだ。
それでも、彼女は満足そうだった。
そろそろ帰るか、となったときには、終電はなかった。
「あなたはどちら?」
「下北沢です」
「あ、一緒の方角だ」
「送っていってやれよ」
「はい」
靖国通りで監督をタクシーに乗せて見送った後、僕たちはタクシーに乗った。
彼女の家は上北沢で、僕の方が明らかに手前だったが、先に上北沢へ向かった。タクシーの中で、彼女は鼻歌で幾つかのスタンダードナンバーを歌った。
そして、上北沢の自宅付近で車を停めると
「この辺でいいわ。ありがと。また聞きに来て」と言った。
タクシーはUターンして、下北沢へ向かった。メーターは予想以上に上がり続けて、財布の中身を確認しなければならなかった。

昔、監督が世話になったスタッフのお嬢さんであることが、話の流れから推測できた。

「こういうのってキリがないんだろうな……」と、内心思っていた。

誰かと関係性があれば、それを何かの折に大切にする人だった。
そして、それをずっと続けるというのもキリがないことだと、今はわかる。
なかなか、できない。

そうやって、これまでも、これからも監督はやっていくのだろうと、タクシーの中で考えていた。
下北沢に戻る甲州街道は空いていた。
メーターは上がり続けた。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?