証明の話/「好き」の話

ないことを証明するのは誰のためか。私にとってセクシュアリティを考える意味とは、自分を救うことである。実際、自分を当たり前のように「普通の」異性愛者だと思っていた時より、色々なものが見えるようになった今の方が楽に感じることもある。知らなくてよかった、とは思わない。しかし、知れば知るほど怒りや悲しみというのは生まれてくる。前回は怒りにフォーカスを当てて書いたが、今回は悲しみの話だ。


最近、自分はアセクシュアル寄りのところにいること、自分の中のAce性の存在を感じている。それは完璧ではなく(まあそもそも完璧なんてもんはないのでしょうけれども)不自然に見えるもので、でも消し切れるものではなく、それを名乗っていいのかと考えた末、あくまで私はアセクシュアル寄りである、と言うことにしている。私は恋愛と性愛は完全には切り離しにくいもので、性愛とはロマンティックを感じることができないと非常にやりづらいものだと感じている(あくまでも私の感覚の話)。これが厄介を生んだ。

アロマンティックを自認してから少し経つと、段々と「ア」の証明をしなければ、いつまでたっても自分はアロマンティックを名乗れないと思うようになった。自分の中にロマンティックは全く存在しないことを証明できなければ、アロマンティックのラベルを手に入れることはできない。これは経験をもって完全なものになるのだと思うようになっていった。そして考えた結果、実際に行為をして確かめようと思った。短縮的だったと思う。しかし、これ以外にどうやって自分を納得させられるかわからなかった。それに、あの選択は完全に正しいとは言い切れないと、自分でも、そして今でも思うが、間違っていたとも思わないし、思えない。私にはセックスをしたという経験が必要だと思った。経験が欲しかったのは、自分のアロマンティック・パンセクシュアルの部分を確かなものだと信じたかったからだ。私をアロマンティックたらしめる「性的魅力を感じる」という感覚を、確かな尺度として持っているのだと自分を信じたかった。どちらかといえば、今自分が信じているこれを立証したい、という思いが強かった。
またその頃、自分の中にある性的欲求のボルテージが上がっており、そのこともあってセックスで色々なことが解放されるのかなと思っていた。さらに、私はスキンシップが嫌ではない、むしろ好きなタイプであるため、触れ合えるということはロマンティック抜きでも楽しめる、幸せを感じられるのだと思っていた。まとめると、セックスという色々な構成要素が詰まったものをすることによって、100%メリットと楽しさが、救いが得られると思っていたのだ。


詳しくは書かないが、性別で相手を決めた、惹かれたという感覚は薄く、やはり自分は異性愛者でも同性愛者でもないんだな、と冷静に思った。なんの心の高まりもなく、この人なら許せる、信じられるという感覚で相手を探した。一般的な正しいプロセスでもなければ正しい出会いでもない、さらに正しい恋愛・性愛の感情由来でもないこの関係を選んだ、これしか想像できない、この方法しかできないから、という言い訳のような理由はあるけれど、こんな訳の分からないまま行為を望んだ自分が愚かに思えた。

初めて行った新宿二丁目のホテル街も、湿度が高いひんやりした室内の空気も、思ったより普通だったトイレも、ただの風景だとしか思えなかった。対面したときは久しぶりに緊張で手が震えたけれど、その震えは興奮とは程遠いもので、何をどうすればいいのか、何をしたいかも自分の中に見つけられず、怖くなった。なぜあなたに会ったか、ということを話したらなぜか涙がだらだらと出てきた。抱きしめられて肩に顔をうずめたときに私の涙がニットに染みこんでいって、申し訳ないな、と思ったと同時に、うっすらと気づいた。たぶん私はしたいと思っていたはずの行為を望んではいない。それに対して何の欲求も湧かなくて、何をすればいいのかわからない。急速に自分の中に無の空間が広がっていく感覚があって、心細くなった。不快とは違う、人に向く性的欲求は私にとってのロマンティック同様「ない」のだと感じた。でも、そんな予感程度のものを冷静に言語化できるほどの心の余裕はなくて、体感したらわかるのかもしれないと思って、全く理解できないムードの中に身を置いて時間を過ごした。

この経験から私が見つけたことは、私は性的欲求は持っており、それが根拠となって性的魅力を感じ、惹かれる相手というのも確実に存在すること。しかし、欲求を抱いた相手と行為をしたいという欲は自分の中にはないということだ。私にとって性欲とは、生理現象的に勝手に自分の中に湧いてきて、それで終わりだ。解消するのに他者を全く必要としない。アセクシュアルの定義は「誰にも性的魅力を感じず、性的欲求も持たない」だが、なぜ私は性的魅力を感じる相手がいるのに、行為を望む相手が存在しないのか、よくわからない。私は自分のこの状態をアセクシュアルである、と言い切るのは自分にとってしっくりこないため、アセクシュアルだと言い切らないことを選んでいる。(そして、性的魅力を感じる相手のセクシュアリティはそこまで重要な位置を占めているわけではないので、状態としてはパンセクシュアルの言葉を使っている)


行為に対する欲求がない、と知った時はそこまで深く考えず、ああ私アセクシュアル寄りなんだ、としか考えていなかった。しばらく経つと、なぜかそのことを思い出し、アロマンティックのことを考え、猛烈な悲しさに襲われて一人で泣くことが増えた。理由もわからずただただ苦しいしんどい時間がそれなりに経ったが、最近それを自分なりに言語化できるようになった。あくまで言語化できるようになっただけで、解決に至ったわけではないが、それでも全貌を掴めるようになってきただけでも、かなりの救いだ。


私の持つ好意は、恋愛的な好きの持つ煩わしさ(転じて楽しさにもなるもの)が全く存在しない。だから、好きだと思う相手に対して向けられるものは好き、快いといったものしかないのだ。こういったものは恋愛至上主義の中にいると「純粋な」恋愛ゆえだとか、奥手だとかというものにまとめられる。こういうものは恋愛の文脈以外で語られることはほとんどない。だから私にとってはなんの救いにもならない。むしろ、どうしたら相手を大切にできるのか、相手の望むことに答えられるのかと考えると、絶望に近い感覚に襲われる。恋愛や友達としてなどのしがらみのない、ただ人として好き(私はこの「人として好き」という表現もそこまで好きではない。人として好きなのは間違いないのだが、そこに相手を尊重している、そしてあなたは私にとって特別である、というニュアンスを込めた言葉、表現を作りたいと常々思う)で、大切にしたいと思う。しかし、恋愛によるもののみが特別な関係であり、かつほぼ唯一の特別への入り口である以上、私の思う好き、大切をそのまま受け入れてくれる人、大切への感覚を持っている人は少ない。

私の自分の好意を伝えるのに、一番最適なのはハグだ。好きな相手を抱きしめたいし、抱きしめられたい。ただ、私がその行為をした時、私の思った通りのものだけが伝わるとは思えない。それに何より、恋愛を前提とする人と恋愛を持ち合わせていない私では、私の一番伝えたい好きの形は、きっと通じないことの方が多い。人間関係で全く同じ前提を共有することが容易ではなく、かなりの努力が必要なのは知っているつもりだ。では、恋のフィルターを通さないと愛にたどり着けないような世界を生きている相手を、恋の文脈以外で大切にしたいとき、その相手にとって自分が特別になりたいと思ったとき、私はどうすればよかったのだろう。恋こそが特別を生む関係というのが前提の社会で、恋以外の文脈で特別にしたい相手にどうやったら好きと伝えられたのだろう。恋人でもなく友達でもなく、ただ大好きで大切にしたい相手にそう伝えて、私はあなたの特別になりたいと言って、果たしてこの言葉は伝わったのか?大切にしたいという思い、親愛はどうしたらその通りに伝わるのだろうか。これが私の、アロマンティックとして直面させられる悲しみだ。恋愛至上主義社会が変わらない以上、私はそのままの「好き」を伝えられる言葉、入り口、認識を奪われている。私は恋の文脈であなたの特別になりたいのではない。友情の最上位としての愛情を渡したいのでもない。ただ、私のこのままの好きを受け取って欲しいだけなのだ。私は恋や友情の代替としての愛の表現は望んでいない。「クィア」というものを私はまだ確かなものとして言語化できていないが、肌感覚として、クィアな関係を結びたいと思っている。その中には、私の望む友情でも恋愛の形ではない、ただ好きで大切にしたいと思う、そして私の思うのと同じように愛して欲しい、という願いが込められている。

私が恋愛や好きである、ということに対して感じている様々は、あくまでも個人的な、ただの一例だ。ロマンティックなしに親愛でパートナーシップを結んでいる人たちがいることも知っている。恋愛的な好きという感情を持っていなくても人を好きになれるし、例えば結婚して長い間一緒に過ごしていくと、恋の感情は愛に変わる、なんて言われる。だから別に恋をしなくても「大丈夫」だそうだ。


じゃあなぜアロマンティックというセクシュアリティは、こんなにも認知度が低い?認識されないことが多い?ロマンティックがないとはどういう意味なのか、なぜそう言い切れるのかと聞かれる?恋をしないことは自己選択だと、理解できないと言われる?恋をしないってどうしてわかるの、と聞かれる?

自分のことを話すのは必要なことだと思うし、私も当事者の言葉を知りたいと思うことはよくある。アロマンティックに対して私に投げかけられる疑問は、多くの人が経験しておらず、さらにないことを(そしてないと言い切ることを)想像しにくいものである。だから、説明の過程で相手が自身の考えをまとめたりするために「〜ではないの?」「〜だからじゃないの?」と問われることが度々ある。正直、それらに答えるのが疲れる時がある。自分自身を否定されているようで辛い時がある。それは会話を重ねるうちに解消されるものだが、初めて会った人や、アロマンティック当事者と会うのが私が初めての人と話すときは、大体このプロセスを繰り返す。否定が積み重なり、理解されないことを毎回繰り返すのはしんどい。

アロマンティックは選択でも代替でもない。私はロマンティックを持ち合わせていないだけ。ただロマンティックを持っていないだけで、大好きな人はいるのに、社会が恋を経ないと愛にはたどり着かない、と刷り込んだせいで、私の好きはこんなにも届きづらい。こういう思いを過去に2回してきている。大好きで、恋人でも親友でもない特別になりたかったけれど、彼女たちの持っている「特別枠」は恋人にならなければ成り得ないものだった。そして前者にあたる彼女とは小学生からの付き合いで、いわゆる「親友」ポジションにいる。進学と同時にお互い地元を離れ違う県の学校に通っているが、今も連絡先を持っていて、少し前までは頻繁とは言わなくとも、実際に合わなくても連絡を取る関係だ。彼女は中学生の頃から好きな人ができたり彼氏ができたりした。というか多分今もいて、彼氏との話を何回も聞いてきた。それも、私がカミングアウトした後からは聞くことはなくなった。長年のつきあいの私がセクシュアルマイノリティであったことに困惑しているのか、遠慮されているのか、恋バナをしてきたのに恋がわからないと言われて裏切られたと思っているのか、それとも別の何かがあるのか、理由はわからない。

私は会話の中に「ありがとう」を意識して混ぜる。そこにはもちろん感謝の意味もあるが、好意を伝えたい、という思いも含まれている。自分の「好き」を届けたくてもその通りに届かない相手・場面だな、と感じた時に、代わりにありがとうと言うことが多い。思い返せば、ありがとうを会話に混ぜることを意識し出したのは中学生の頃で、意識して言うようになった最初の相手は彼女だったな。


私の好きは恋愛の文脈にはないし、誰かと恋人関係になることはない。恋の道が封じられると、特別になるのは本当に、本当に難しい。ただ恋がないだけで、大好きだったのに。私が特別になりたくて抱きしめても、きっとこの意図や思いは彼女たちには友情としか捉えられなかっただろう。きっとこの感覚は伝わらないだろう、とわかっていたので、私は友達として隣にいた。そうやって失恋のようなものを繰り返して生きてきたし、今もそうやって生きている。きっとこれからまた大切にしたい相手ができても、恋愛至上主義社会が続けば、また奪われるんだろうな、と思う。



私は、手を繋ぐ、ハグ、性行為、これら全てからロマンティックを受け取ることがない。たとえ誰かが私をロマンティックな文脈から好ましく思ってくれて、どれだけの思いを込めてそれらをしてくれても、それらから“ロマンティック的な”好きを感じることはない。同様に、どれだけ私が誰かを大切に思っても、これらの行為にロマンティックを乗せて伝えることはない。わかり合うという言葉は、経験上私にとって絵空事に近い。恋愛至上主義が敷かれ、性愛と恋愛がセットにされたこの世界の中で、恋愛に当てはまれないことは途方も無い孤独に追いやられるに等しい。



でも、私は何を呪えばいい?


私はセックスしたいという欲求は持ち合わせていないけれど、性的魅力は感じることがある。その相手のセクシュアリティの優先順位は高くない。そして誰にもロマンティックを感じない。これが私のセクシュアリティの説明だ。アセクシュアル寄りでパンセクシュアル傾向、アロマンティック。長いラベルだが、私はこのラベルがあると安心する。自分をぴったり言い表せた経験が少なく、曖昧で混乱した苦しさに、自分の思っていた以上にいたから、確かな尺度になりそうな言葉が欲しかった。考えて知った上でこのごちゃごちゃしたラベルを手に入れたのは、私にとって救いなのだ。

ここに書いた人たちだけでなく、色々な相手に色々な理由で悲しさを感じてきたが、今でも、今も好きな相手だ。不便どころか苦しめられてきたこの社会の中で、言葉にはならなくとも自分の「好き」と感じること自体は疑わないでいられてよかった。好きだと思う度に、僅かな虚しさがよぎることは否定できない。相手に何を期待していいのかわからなくて、孤独で辛くなるときもある。でも。ねえ、好きだよ。




【以下有料部分になります】流れ的には★部分に書いていた内容ですが、文章の途中部分のみを有料にするのはできないようなので、分解して最後に持ってきました。

全体の趣旨、この記事で書きたかった内容という面では、読まなくても内容は通る部分です。一番書きたいことは無料部分で書き切りました。ただ、自分のための記録としての意味合い、そして私にとって大切なことであるため、書かないのは嫌だ、という思いのため、消さずに掲載することにしました。

しかし、お察しかもしれませんが、かなり個人的なエピソードを書いています。それを無料というハードルのない状態に放流し、広まりすぎるのはさすがに嫌だな...と思い、有料とさせていただきます。繰り返しになりますが、書きたい内容は無料部分で書き切りました。以下は自分のために書き残している部分です。改めて、読んでくださりありがとうございました。


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