立ち止まりながら、進むため

自分のことをまっすぐに書けるのはとても楽です。読んでくださった方々、スキしてくださった方々、本当にありがとうございます。とても励みになりますし、孤独ではないと感じています。

一つ記事を書き終えて、何となく自分の中で解放されたような感覚です。そこで、これまでぼんやりと考えてきたことを並べていこうと思います。



「ない」状態がわからない?

前回、「ロマンティックな感覚を持っていないということを説明するのは難しい」というようなことを書いた。これは私自身が自分を理解しようとする過程でも、友人にカミングアウトした時にも感じたことだ。正直、わからないのはしょうがないよね、と諦めていた時もある。ないことの証明は確かに難しいし、ましてや自分、いや自分どころか社会の多数は持っている感覚を持っていない状態なんて、想像もできないのだろう。そうであっても、わからなくてもいいから否定しないでくれれば十分なのだが、どうにか頑張って理解しようと解釈してくれて、その結果「経験がないからじゃないのか」というところに行き着かれてしまった。話を聞いてくれたのはありがたいけれど、それは間接的に私を否定していることになるんだ友人よ。ということで、それをもう繰り返さなくていいように、私なりに「ない」ということを説明してみようと思う。あくまでも私の感覚を表す言葉だ。


私は、他人に対して恋愛感情を全く抱かない。確かに今の状態は、恋愛を経験していない状態とも言えてしまうが、私のセクシュアリティはこの状態が完全体の状態なのだ。
例えば、恋愛を光だとして、恋愛をすることが目を開いて光を見ていること、恋愛をしないことが目を閉じている状態だとする。私にはそもそも目がないのだ。知識として世界には光があることは知っていても、一生自分の見ることはない。だって光を感じる目がないのだから。

ー目を閉じていても、目がなくても、結局は光を見ていないんでしょう?同じことじゃないの?

同じことに見えるかもしれないけれど、目を閉じていることが意思による選択、自己決定だとしたら、私はそもそも光を見るという選択肢がないのだ。選んでそうしているわけではなく、ただ元々そういう風な体で生きている。自分の目を持ち自分で光を見ることができる人の方が多数派であるが、私はそれを望まない。そこに悲観もないし、不幸でもない。自分の目で光を見ることにあこがれを持つ人もいるだろうが、私は今この状態こそが、当たり前であり自然であり私そのものだと感じている。目がなくてもあなたの手に触れることはできるし、抱きしめたいと思うこともある。

私が光を自分で見るためには、どうするか。手術をして目を付けるしかない。手術はとても体に負担がかかるし、辛くてしんどいし、成功するかもわからない。しかもその成功と言うのは事象としての成功であって、私にとっては暴力でしかない。そもそも、私は手術することを必要性など感じていない。


こんな感じだろうか。Aセクシュアルの人たちの指向はしばしば選択として捉えられると思うが、これは私の指向なのだ。経験するには元々恋愛感情を持ち合わせていることが前提で、だから私は恋愛を経験することはないのだ。そんなことを伝えられれば、ちょっとはわかってもらえたのかな、と思う。


どう名乗るか 

アロマンティックを自覚して思うのが、アロマンティックについての文献の少なさ、ひいてはアロマンティックの認知度の低さだ。アロマンティックはAセクシュアルという属性の中の1つであるが、あくまでも私の肌感覚として、Aの中でメインとして(メインと言っても、Aは性的マイノリティの中でもさらにマイノリティな存在ではあると思うが)扱われているのはアセクシュアルだと思う。私がアロマンティックの存在を知り、そして自覚したきっかけは「見えない性的指向 アセクシュアルのすべて」という本である。タイトルに「アセクシュアル」とあるのだから当然といえば当然なのだが、300ページ以上あるこの本の中でアロマンティックについて触れられているのは5ページほどだ。

Aceという言葉は、時折Aセクシュアルの総称として使われる(最近だと、AAWinJAPANさんのA対象のイベントがそうでしたね)(念のため、批判の気持ちはないです。できれば、クレジット以外での入金方法があれば参加できたのにな...と思いました。クレジットを持っておらず、かつ親にカミングアウトしていないために借りることも出来ず今回の参加を諦めたので)また、アセクシュアルかつアロマンティックである人のことを「アセクシュアル」と呼ぶ(というより、これは非当事者からそう呼ばれるケースの方が多く見受けられる気がする)ことがある。「持たない」性的指向として、確かに我々は同じ属性ではある。でも私は、アセクシュアルとアロマンティックは、近しくてもやはり別物だと思うのだ。率直に、束ねないでほしいと思う。対立したいという思いは全くなく、Aという共通項を持つ同志だと思っている。しかしその思いとは別の問題として、私はアロマンティックという自分にぴったりくる名前があるから救われた。あるはずの境界を乱暴に覆われたのは、納得いかないところもある。これもマイノリティ故に被る、知識不足による誤解なのだろうか。実際のところアセクシュアルとアロマンティックの比がどのくらいなのかわからないが、やはりアロマンティックのみを自認する人はそう多くはないのだろうな、と思っている。アセクシュアルのカラー、上から黒、グレー、白、紫のカラーはAコミュニティの中ではよく見るが、アロマンティックのカラーを見たことがある人はどのくらいいるのだろうか。

*私が感じるAセクシュアルの総称としてAceが使われることの違和感はとても個人的な感覚で、「エース」という響きからどちらかといえば「アセクシュアル」という音を想像しやすく、反対に「アロマンティック」という音はかなり想像しづらいと感じること、そこから感じるアロマンティックの焦点の当てられていないさ、疎外感のようなものだ。この辺は、Aの存在そのものというよりも言語に対する感覚で、トランプのAをエースと読むように、Aの総称がAceと呼ばれることはとても自然で理にかなっていることだとは思っている。



名前の持つアイデンティティの影響力や重要さについて考えるのは、私はストレートではないからだ。前回書いた通り、私は自分の性的指向をはっきりここだ、と言えないでいる。それは誰にも恋愛感情を抱かない、かつ性的魅力を感じる相手はジェンダーによって限定されないと感じているからだ。状態としてはパンセクシュアルが一番近いのだと思うが、性的指向の前提に誰に恋愛感情を抱くか、というのがあるため、パンセクシュアルがぴったりはまった表現だとは思えない。

今のところ私を一番まっすぐに表現する言葉はどれなのか。ストレートではない、という意味でゲイと名乗るのが感覚的には近いのだろうか(こう表現することもある、と知ったのは「13歳から知っておきたいLGBT+」を読んでからだ。もしもセクシュアリティで悩む方がいたら、是非一読をおすすめします)。わからないのだからQだろうか。それともやはりパンセクシュアルが一番わかりやすいのだろうか。私が一番好きな表現は「ストレートではない」だ。これが事実を漏らさず表現していると感じるからだ。

そうなると「ゲイ」が一番適切なのかな、とも思う。しかし、ゲイとはどうしても男性の同性愛者を指す言葉なのである。そこには確かに当事者のプライドやアイデンティティ、そして当事者にとっての救いがあると思うのだ。そう思うと、なんとなくゲイと名乗るのもはばかられてしまう。これは決して悲観的な選択ではなく、セクシュアリティのアイデンティティを安易に揺らがすことになってしまう気がして、だったらそのまま「ストレートではない」と言った方がいいのではないだろうか、と私が思っているだけの話だ。名前を羅列していると、この中から好きなものを選んでいるように見えるかもしれないが、私は今、体にフィットする靴がないままで歩いているのだ。ちょっとしたことで転びそうになりながら、時には足が痛くなりながらどうにか歩いている。


私と嫉妬

アロマンティックに関する文章を読むと、アロマンティックの特徴として「嫉妬をしない」と書かれていることがある。そこでは恋愛感情がないので嫉妬もしない、という論が展開されているが、本当にそう思う当事者が多数派なのか?と疑問を持っている。

「ない状態」のところで友人にカミングアウトしたと書いたが、その友人とは私の人生において最も深い付き合いをしている友人だ。カミングアウトの前にも、私は彼女にだけ自分の個人的な経験を話したことがある。信頼しており、大好きな友人だからだ。私は彼女に対し、友情よりも深く、ある種重い愛情としての親愛を抱いている。そして彼女に恋人ができたと聞いたとき、確かに私は祝福したが、同時に確かに嫉妬もした。彼女の恋人に、彼女のなかの大切な人の枠を取られた気がして、さみしさと、さみしさより歪みのある感情として嫉妬を抱いた。

私は、他者の恋愛関係に興味もなくどうこう思わないし、恋愛嫌悪も持っていない。親しい人が誰かと恋愛関係を築くことに何の嫌悪感もない。それでも私は、ロマンティックな恋愛による関係を望まないだけで、特別な関係は望むことはあるのだ。私は彼女とクィアプラトニックな関係でいることを望んでいたのかもしれない。自分自身、クィアプラトニックとはどのようなものかを言葉にするのは困難だが、友情とも違う特別な、きわめて個人的で限定的、そして親密で愛のある関係を結びたかったのかな、と思っている。

結局、この言説も恋愛至上主義の社会の中で生まれた概念なのだと思う。嫉妬という言葉は恋愛の文脈の中で使われることが多い。人間関係において、恋愛感情による関係のみが、嫉妬の原因を生む親密さや執着が存在する特別なパートナーシップだと思われているから、恋愛感情を持たなければ人間関係に対し一律にドライだと考えられているのだろう。ロマンティックラブを経ないと愛にたどり着けないなんて、あまりに可能性を狭く見積もっていないだろうか。そして、ロマンティックをしないから嫉妬しないだなんて、そんな単純な話があるのだろうか。アロマンティックを軽んじていないだろうか。ふとした時にさみしくなったり、大切な秘密を打ち明けたくなったり、抱きしめたくなった時そばにいてほしい相手は、例えロマンティックで結ばれていなくとも特別な相手ではないのか。そんな大切な誰かが違う誰かと共に根を張るようになった時、あなたはさみしくなりませんか?嫉妬しませんか?その嫉妬は、きっと普遍的なものではないのだろうか。




アロマンティックを自認した時、「アロマンティック」で検索して出てくる記事を上から読んでいったが、よくわからないな、と思うものがほとんどだった。今思うと、Aセクシュアル特有の「ない」ことを簡潔な言葉で説明することの難しさもあるが、何より当事者の声があまりに少なすぎるのだと思う。ロマンティックに対するリスペクトが欠けていたり、そもそも見当はずれなことを書いていたり、アロマンティックを語るはずがAの中の存在を混同していたりと、自分の求めている違和感の説明にたどり着くのは至難の業だった。

私が答えを最初に見つけたのは本の中だった。そして、地域のマイノリティ当事者の集まる場に行って話をした時、知識を当然のように持っている人たちばかりがいる、心から話しやすい環境にとても驚いた。みんな葛藤や苛立ち、苦しさを抱えながらも力強くしなやかに活動し生活していた。みんなに引っ張られるように、私も動いていきたい。私はこうやって文章を書くことができる、おそらくそんなに多くないアロマンティック当事者として発信していく必要があると感じている。世界には誤解や偏見がまだまだ多い。それを解消したいし、書くことで自分自身に勇気をつけたい。正直、親にカミングアウトするのはずっと怖いままだ。一度カミングアウトでしんどい思いを経験しただけに、いいイメージだけを持てないのが今のところだ。でも、自分を曲げないでまっすぐ生きていくためにも、きちんと伝えようと思う。言葉は届くものだと信じないと進めない。