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空白だらけのプロフ帳と「恋愛は自由」


「他者に対する恋愛感情を持たないAロマンティック」というけれど、恋愛をしないことは、セクシュアリティではなく個人の選択やライフスタイルなんかの一つではないのか。恋愛をするもしないも、ただただ個人の自由ではないのか。Aロマンティックに対し投げかけられる疑問の一つにこのようなものがある。これについての私の考えを書きたい。


恋愛をしないことが個人的な選択であっても、ライフスタイルであっても、何も間違いではありません。それに対し他者がジャッジを下す権利はありません。「恋愛感情を持たないために、恋愛をすることがないAロマンティック(羽田)」の話です。



まず、セクシュアリティは個人が名乗るものである。他者が「~~だから、お前のセクシュアリティはこれ」とラベルを勝手に貼るものではない。名乗るセクシュアリティを選び取る権利は本人にのみある。そういう意味で、セクシュアリティは個人のものであり、ラベルの選択は個人の自由であると言える。自由というか、セクシュアリティは自分のものだ。



続いて、現在の社会で他者に性愛・恋愛を抱かないことは本当に自由に滞りなく実現できるのか、ということについてである。


「好きな人はいる?」「恋人はいる?」「結婚するなら何歳がいい?」。こういった社会からのメッセージは、Aロマンティック的に相当恵まれた環境でなければ、ほとんどの人に自然に降り注ぐ。これらに答えるには、どうすれば自分の感覚がきちんと伝わるのか、相手が投げかけてくるであろう疑問に対しどのような説明をすればいいのか、「そんなのありえない」「おかしい」と言われたらどう振る舞えばいいのか、そんな葛藤と恐怖と緊張が伴う。

先程挙げた3つの質問は、私が小学校高学年の時、10年ほど前に流行ったプロフ帳に当たり前のようにあった項目の引用だ。(いまの小学生もやっているのだろうか...)私が通っていたのは辺り一面を田んぼに囲まれた田舎の学校だったが、当たり前のように友達同士でプロフを交換し合う文化があった。当時の私も、友達から貰ったファンシーでポップなプロフ帳に、その項目以外は楽しく記入していた。書き終えたプロフ帳は交換し合うものなので、もらった人数分、複数枚書くわけだが、どのプロフ帳にも必ず恋愛に関する項目はあって、そんな3つの質問に毎回「いない」「いない」、そして自分の思う「ちょうどいい大人の年齢」を書いていた。恋愛感情とやらは全く理解できないけれど、みんな好きな人がいたり、「好きな人」とはどういうものかを分かっているらしい。結婚したい相手とか知らないけど、大人になったらみんなするものらしい。そう思ってプロフ帳を埋めていった。
子どもに対してであっても、恋愛をするビジョンを持つことは当然である、というメッセージは発せられている。私が書きたい「好きな人はいない」とは、「今好きな人や気になる人はいない」という意味ではなく、「そもそも私は恋愛的な文脈で人に好意を抱かないので、この文脈における『好き』に該当する人は存在しないために答えられないし、答えない」である。この長くて複雑でわかりにくいものをどうやって説明すればいいか、どうやって自覚すればいいのかは、それから10年後にわかるようになる。その質問に答えられないのは、私が他者に対して恋愛感情を抱かないAロマンティックだからだ。


「全ての人は恋愛感情を持ち、恋愛的なことを望んでいる」という、私に不快感と困惑をもたらすメッセージは、ごくごく当たり前に世の中を巡っている。そしてそれらに答えられないと、空白だらけのプロフ帳が出来上がる。真っ白なプロフ帳は、読んでいてつまらない。面白みがないし、完成品に見えない。恋愛するのが当たり前というメッセージが行き渡っている現状で、恋愛に興味がなかったり、恋愛感情を持っていないために恋愛をしない人々は、「つまらない」「十分でない」人間という印象やレッテルを貼られるという実例だ。恋愛への関心についての質問に答えられないことが問題なのではなく、答えられることが前提の社会にAロマンティックとして生きていて、その社会の尺度的に平坦でつまらない、未熟な人間であると証明されてしまうように映ることが問題なのだ。プロフ帳の質問文こそが「全ての人は恋愛をするものである(すべきである)」という恋愛規範であり、そこに「そもそもそのような感情を持たない」という答えは想定されていない。恋愛をしないことがつまらないかどうかは私が決めることなのに、恋愛感情を持たないだけで、質問項目の空白は増えていく。出来上がったプロフ帳を見た人々は、「恋愛しないの?」「これからの楽しみだね」「大丈夫、そのうち好きな人ができるよ」と、将来空白の項目という欠落は埋められるよ、と励ましてくる。私の望まない未来へと連れて行こうと、腕を引っ張ってくる。


「恋愛や性愛をするのは個人の自由」が十分に保障されて成立するのは、恋愛や性愛をしなかったり経験していなかったり持ち合わせていなくとも、それに対してなんのジャッジもされず、なんの詮索もされず、「矯正」されることもなく、遮る声のない環境で自分の言葉を発せる状況においてだ。いまの社会は、すべての人間は当然恋愛をするという規範が隅々まで張り巡らされており、その規範から外れた、恋愛は自分の人生に不要と言う人にあれこれ詮索し、納得できる理由を聞き出そうとする。そして恋愛感情を持たないから恋愛をしないという存在は、いないことにされている。テレビをつければ恋愛ドラマという「幸福」のモデルケースが望ましいゴールを示し、流れてくる音楽は恋のときめきや素晴らしさを歌い、本を開けば男女は結ばれ、子どもが生まれる。恋愛をしない人は「今後恋愛する可能性がある」ことが前提の人だけであり、恋愛感情を持ち合わせていない人は平坦でつまらない人物として登場する。今の社会でAロマンティックとして生きるには、恋愛感情を持たないまま、そのことを詮索されず、ジャッジもされずに生きることはあまりにも難しい。



恋愛をする自由と同時に恋愛をしない自由もある。これは恋愛をしない人生の提案であり、「結婚の自由をすべての人に」と同時に「結婚しない自由をすべての人に」のハッシュタグが生まれた根拠でもあるのだろう。しかし、その自由とは「選択の自由」のみに開かれているものではないだろうか。今の社会でジャッジに巻き込まれることなく「自由に恋愛をしない」でいられる環境にある人はどのくらいいるのだろうか。恋愛をするという「幸福」の項目を埋めないでいた時、それを咎められない人はどのくらいいるのだろうか。

「恋愛をしないと選択した人」を案じたり、その人の幸せを願う行為は、もしかしたらAロマンティックを葛藤させるかもしれない。励ましてくれてありがとう。でも、わたしはあなたの言う「自由」では不十分なんだ。そのプロフ帳を破り捨ててくれない?それか質問文を一緒に書き直さない?今のままだと、私は自由に書くことができないんだ。


現行の婚姻制度は異性愛主義と家父長性を強化し、異性婚以外は単に想定されていない、異性愛以外の性的指向を生産性がない、同性婚を承認したら悪用されるなどといった、全く的外れな根拠によって支えられています。その不条理を打破しようと尽力を尽くしている方々に敬意を払い、活動に賛同します。私の語りの中でこのような形で登場させることに怒りを覚えることと思います。私の見ている結婚にまつわる「自由」とはこんなものなのだと思っていただければ、そしてこのようなジレンマに衝突するAロマンティックの話を聞いていただけたら幸いです。