killjoyを引き受ける

中学生の頃だっただろうか。全校生徒が参加できる合唱コンクールに向けて、希望参加者は毎日昼休みに練習していた。当時通っていた学校は、1学年に50人もおらず、1クラス20人程度のそれなりに小さい学校だった。

中学生3年生で最後の発表会になるためか、ほとんどの生徒が自主的にエントリーし、練習に参加していた。気付いたら、昼休みの教室は男子生徒4、5人と、私だけになっていた。隣のクラスは、女子生徒は全員参加していた。コンクールの練習が始まる前と変わらず、学年で私だけ、静かな教室で昼休みに小説を読み続けた。私には、みんなで一緒に歌の練習をするよりも、気になる本の続きを読むことの方が魅力的に思えたのだ。

昼休みが終わり、みんな教室に戻ってくる。楽しそうに、今日練習したらしいパートを歌いながら。仲のいい友達に、「どうして羽田は参加しないの?」と聞かれたので、素直に「昼休みは休みたいから」と答えた。ふーんと、納得していないけれどとりあえず受け入れた、というようなテンションで返事が返ってきた。近くにいたピアノの子は、無表情のまま私と目が合った。

そして校内発表会。保護者も見にくるなか、有志合唱団が呼ばれる。男女に分かれた座席で、女子は私以外全員立ち上がり、ステージに向かう。空っぽの座席で、初めてみんなが練習していた歌のタイトルを知った。聴きながら、一人で座ってる自分結構いいな、堂々と座ってるのもかっこいいな、と考えていた。

家に帰ると、母に「あんた一人だけ座ってて、私が恥ずかしかったよ」と言われた。一人であることに「特別な」意味が付いた瞬間である。その後、土曜日に校外のコンクールに参加したみんなは、明けた月曜日に楽しそうにその時の話をしていた。居心地の悪いとも違う、どうして参加しなかったことでこんなに分断されるのか、わからなかった。
合唱コンクールに出ないことで、「みんな」を作る邪魔者は、知らない間に一人ぼっちで浮いた子どもになっていた。


高校生になると、女子生徒の会話のネタは「誰が/どんな人が好きか」になる。それはアイドルが好きという話ではなく、誰と付き合いたいか、という好きの話だ。好きなアイドルの話は求められておらず、「デートをしてみたいような好きな人」がいない私はその会話が苦痛だった。嘘をつくどころか、みんなの言う「好きが理解できない」なんて言っても理解されないことはわかっていたから、口を開かずに静かにフェードアウトする方法を覚えた。恋バナができないことで、クラスでも部活でも一人になる瞬間が増えた。まさか部活のチームメイトの中に、この人を大切にしたいと思う相手がいると誰も思わずに、私は恋愛の話も性の話もしない、空気に乗れない人間でしかなかった。私の知らない間に部活のメンバー同士がカップルになっていて、私の知らない間に別れていた。
「好きな人の話」からフェードアウトすることで、「みんな」の楽しい空気をぶち壊し、空気の読めないウブな子になった。


大学生になって、いろいろな活動に参加していくうちに、アロマンティックと出会い、自分の足元を見つけた。そしてセクシュアルマイノリティが集まる場を見つけた。そこで話されるセクシュアルマイノリティには、アロマンティックは存在していなかった。どれだけ文字をつけようと+をつけようと、LGBTの中にアロマンティックは存在せず、レインボーとは連帯できないと悟った。
レインボーに呪詛を吐くことで、セクシュアルマイノリティの連帯をぶち壊した。


同性婚訴訟、選択的夫婦別姓などの報道を見る度、なんとも言えないしんどさに襲われる私は、多様性の邪魔者だ。当然持っているはずの権利を奪われて、それを社会に認めさせなければならないのに、異を唱えるように見える私は、きっと向こうからだって招かれていない。

Aceだとカミングアウトしたら、大好きだった、大切な存在だった友達と話す方法がわからなくなった。連絡を取る勇気もなくなってしまった。何を話せばいいのか、誤解が大きくなって関係が完全に断絶してしまうことが怖くて、半年以上話していない。

初めて会う相手や、人として信頼できるかも、と思った相手にAceだとカミングアウトする時、どうせ理解されないという若干の諦めを、誰に対しても持つようになった。どうしてそうだと言い切れるの?今決定できるの?という純粋な問いにどうやって答えれば納得してくれるのか、信じてくれるのか分からなくて、答えを重ねる度にしんどくなる自分を守るために身につけた諦めは、相手のためにならないのではないのか。そう思いながら、私は諦めという予防線を捨てきれずに張り続けている。



私には、私が踏んでいる相手、私が冷水を浴びせられている相手の顔もよく見えている。みんなでやることに意味があるのに、利己的な理由で参加を拒む、一匹狼を気取っている奴。誰が好き?という簡単な話題に答えず、楽しい話題から逃げる、空気の読めない子。恋愛の相談をしてきたのに、自分を恋愛がわからない人間だという裏切り者。LGBTを拒絶する、そのくせその理由を自分にははっきり言わない、不寛容でわがままなセクシュアルマイノリティ。この作品は自分を孤独から救ってくれたのに、それは本質ではないと言う、自分の感情を否定する人間。


これが私のkilljoy史だ。至る所に水をさして、場を白けさせ、差し出した手を取ろうとしない人間。そんなことをする人間は嫌がられ、そして知らない間に周囲から姿を消す。

空気の読めないkilljoyは、空気を読んでいないように見えるその裏でこんなことを考えていたのだ。みんながどう思っているか、見えていないわけがない。見えているからこそ、私は今みんなに対して、この集団の中でkilljoyなんだ、と自分の姿を知るのだ。みんなの中に大切な人も確かにいて、でも自分自身を大切にするにはどうすればいいのか、と考えた結果、私の方から距離を置くことが得策だと知った。話し合っても、分かり合うまでに互いにボロボロになる。それに、私のこの思いをわかってくれる人は圧倒的に少ないだろうし、見つけようと自己開示したことで傷つけられるリスクの方がずっと高い。

私はkilljoyを望んでしているわけではない。嫌なものは嫌だし、自分を守るために曲げられないことがある。そのために、killjoyのしわ寄せをくらって、本当は持ちたくない荷物を持たされて、でも私自身の存在を大切にするためには、空気を壊すな、誰かを「好き」になるのは全ての人間にとって当然のことであり権利だ、多様性を阻害するなという声を浴びせられながら、killjoyを引き受けるしかないのだ。私が邪魔者でなくなる世界が来たら、「killjoyの私」は消滅する。その後に何が残るのかは知らない。でも、そんな世界が来たら、きっと幸せだ。