カラフルに潰されそう


【レインボーへの呪詛】


ものすごく乱暴に言っているのは承知の上で、批判を受けるのも覚悟の上で言う。私は、レインボーを名乗れるのは誰が好きかを迷いなく言える人だと思っている。レインボーとは、自分の好きという感覚を疑わないでいられる人のものだ。恋愛的指向で不都合を被ることなく、自分のそれを信用できるということは、回り回って自分の性的指向を信じられる、故にアイデンティティを持てる、集団になれるマジョリティなのだと思う。特権だとも言える。少なくとも、何故か性的指向を自信をもって名乗れない私のいるこの世界では、自らの「好き」を説明しないと通用しない世界では。

なぜアロマンティックの私がセクシュアリティを名乗れないかというと、性的指向を名乗るには「誰が好きか」が必要で、その「好き」というのはごく自然に性的魅力とロマンティックが揃っていることが前提になっているからだ。私は一応ストレートではない、と名乗っているが、わかるでしょう?さすがに無理があることを。異性愛者かそうでないか、ということを示すだけではあまりにもセクシュアリティは大きすぎる。そんな大雑把な枠にはまら(れ)ないことを知っているから、そんな広すぎる枠組みでは自分にぴったりの居場所とは程遠いことを知っているから、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルというように分かれたんでしょう。マイノリティとして名前をつける(私は存在を認識され、存在を尊重されるために名前が付くことが、自分のアイデンティティを得るために名乗ることに意味・価値があると思っている)性的指向が、まさか恋愛的指向の存在が必要だとは。私は名乗ることも許されないのか。どうして?ロマンティックを抱かないから?他者に性欲を向けることが理解できないから?セックスがわからないから?恋愛をしないから、できないから?異性愛、同性愛、全性愛の語る愛とは何だ。好きとは何だ。性愛という名前をしておいてその中身は大抵ロマンティックと性愛のセットが前提だ。誰もそれに疑いをかけない。愛は普遍?ふざけるな。素晴らしいものとして愛を語るなら、掲げるなら、もっとそれを見つめ直せよ。

これらの怒りをレインボーに向けるのは正しいことではないことはわかっているつもりだ。批判も甘んじて受け入れるつもりでいる。レインボーを掲げる人々も社会においてはマイノリティだからだ。LGBTはセクシュアルマイノリティと読むこと「も」できる。

でも、ダメたっだ。紅白で6色の虹が掲げられたことを知った時、どうしてもLGBTQ+とGSRMを同じものとする、性的指向と恋愛的指向を並べる、性的指向で恋愛的指向を覆い隠す虹に、絶望と怒りを抑えることができなかった。多様性と言う割に、一つのフラッグだけでこんなに色々いる我々を括ろうとするなんて、それこそ驕りじゃないか、と思う。「LGBT community flag gradients」の表の中にAce、Aroのフラッグを見つけた時、とても嬉しかったんだけどな。みんな、細分化された自分のフラッグより、沢山集まるレインボーフラッグに集まる方がいいのかな。どんな意図があるのかはわからないけれど、そこに連帯するのは自分自身に対して不誠実だ。レインボーを掲げる個人とは仲間でありたいと思うけれど、自分のことを大切にするためには、どうしてもレインボーと連帯する道は選べないと思っている。正直それはとても切ないことだ。仲間を裏切っているような罪悪感を抱えたまま、でもどうしてもレインボーを名乗るのは嫌なのだ。

ともかく私は、自分をLGBTと名乗るつもりは一切ないし、レインボーへの帰属意識もない。(もちろんLGBTを名乗り、レインボーフラッグを掲げる人を否定する意思は一切ない。このブログの主語は常に「私は」なので)レインボーで救われたと思わないどころか、絶望させられるだけだからだ。これは私が恋愛的指向においてのマイノリティであるAceに共通するものなのか、個人的なことなのかはわからない。ただ、もしレインボーがしんどい人がいたら、少なくともここにもそういう人がいるので、一人ではないから安心して、と届けたい。


【恋愛への呪詛】


恋愛は、権利と義務と特権が絡まっているものだと思う。
自由に恋愛をすることができる。誰もが好きなように恋愛の物語を描けるように見える一方で、依然として異性愛者同士のモノカップル以外は想定されていない。恋愛は楽しいものとして捉えられ、そして誰もが当然通る道だと考えられている。
法律婚をしない人が想定されていない社会構造。結婚して子どもを作らない人間は生産性がない。シングル世帯はリスクとして語られる。そのくせに同性婚すら認めない。何が伝統的家族観だ。それが成立したのは戦前だ。社会情勢があまりにも違うことを敢えて見ずに、現代の日本にとって全くリアルではない伝統を掲げるなんてあまりにも愚かだ。
リア充という言葉で、恋愛関係に基づいたパートナーがいない者を寂しい人間、言葉を選ばずに言うと、恋愛関係によるパートナーがいる者はいない者より格が上のように思わされる。それだけ恋愛には価値があるのだろう。選ばれる、それだけ魅力的である、それだけの能力がある。それだって社会の中には異性のカップルしかエントリーの機会がない。彼らしか想定されていないからだ。

こんなおかしいバランスの上で、それでもすばらしいものとされる恋愛って何なんだろうか。アロマンティックの私はロマンティックラブをすることは多分一生ない。これを言い切れないのも悲しいところだ。間違いなく「好き」と感じる相手はいるし、この子を大切にしたい、離れていった時に寂しくなる相手もいるからだ。ロマンティックがなくとも好きは感じるが、ロマンティックがないと自分の「好き」とは一体なんなのか自信がなくなることがある。好きと恋愛の違いは本来そんなに遠いものではないのだろう。だからこそ複雑で不安になるのだ。

私が当たり前と思ってすることにも特別の名前が付く。そうやってレアケースにされる。あの子は特別だから。しょうがないよね。恋愛をしない生き方もあるよ。セックスだけが全てじゃないよ。だってあなたは特別なんだから。ふざけるんじゃねえ。私を特別に追いやるな。マイノリティとは特別であることではない。マイノリティとはただマイノリティなだけだ。皆と同じように生活しているなかで葛藤を抱えさせられていることの何が特別だ。どんな人が好きなの?と聞かれたときに、こんなタイプが好みなの、とひっそり変換させる理由を知っているか。その時に感じる嫌なじれったさ、理解されないんだろうなという諦め、疎外感、辛さ。簡単に存在を消されるのはしんどすぎる。これの何が特別だ。


私の怒りの理由の根本は、LGBTにしろSOGIにしろ、性的指向と性自認は分けて考えられるものとしてきちんと存在しているのに、なぜ恋愛的指向はあまりにも粗雑にしか存在させられていないのか、というものだ。なぜセクシュアリティを決定づける関係が恋愛のみなのか。そして何より、その「恋愛」というものを、Aceにはロマンティックと性的魅力と分けることをその定義の前提としているのに、なぜ当たり前のように性的指向を決定するのは誰を好きになるか、と一纏めにしたものを使用しているのか、ということだ。

結局、これらの定義は自分の「好き」を疑いなく信じられる人が決めたものなのだと思う。恋愛至上主義というのは、恋愛に価値を置くことを強いているだけではなく、恋愛によってあらゆることが決まってしまうことだ。それだけ意味のあるものとされているのに、これだけ雑なのが本当に腹立たしい。

私の感じるセクシュアリティマイノリティとしての生きづらさは、今のところ正直とても説明しづらい。私はまだそこまで結婚について言及されるほどの年齢ではなく(つまりこれまでもそこまで私の恋愛について他者から言われる経験がない)、圧力を感じることはない。出入りしているセクマイの集まるコミュニティのみならず、友人コミュ二ティであっても恋愛の話を直接振られることは少ない(だから友人には特別言う必要もないかなと思っている。これは不誠実ではなく、我々は恋愛に価値を置いていない、という共通認識がある中で恋愛の話を切り出すのは逆に不自然な気がするので)。一人でいるのに慣れまくっているため、どこにいても一人でもあまり浮かないことが身についている(と思う。俯瞰ではわからないけれど)。また私は身体違和がなく、メンズライクなものを着ていても何も言われないくらい、好むものと自分のイメージも一致している。身体へのストレスはない、特権的な社会を生きている。ホモフォビアを直接向けられる経験もない(あくまでも私の人間関係の中でであって、同性愛を笑う現場には遭遇したことはある。講義内の逃げ場がない中でのあれはきつかった)。


それでも何が辛いかというと、セックスこそが愛情の最大級、人は誰でもロマンティックラブをするという恋愛至上主義社会だ。どうしたって恋愛からは逃れられない。恋愛し家族を作ることを人間的な完成とされても、私はそのコースのスタートラインに立つことを望んだ記憶はない。そんな選択肢も持ち合わせていないのだ。一人でいることも単なるゴールの選択の一つでしかないのに、通過点のようにするのはやめてくれ。また、恋愛に大きな価値を置く一方で、恋愛はエンターテイメントとして他者に消費されるものでもある。消費されるということは、それだけ恋愛はメインストリームであるということである。つまり恋愛に乗れない者は、社会の中のマイノリティなのだ。無邪気に、時に意図的に放たれる「どうして恋愛をしないの?」という問いかけ、その裏に込められた色々は、Aceであろうとなかろうと苦しめられるものではないだろうか。友人間での会話のネタ、親からの期待、いつのまにか家族で集うものから恋人のものになったクリスマス、恋愛ドラマ等々、全ての人がそれを望み楽しめるわけでもないのに、巻き込まれるのは本当にしんどい。本当に皆、恋愛を信じているのだろうか。

そして何よりの怒りは、恋愛的指向を「完璧に」持ち合わせていないと性的指向を決定できないようになっているその定義だ。誰を好きになるかで定義づけるくせに、「好き」の解像度が荒すぎる。そんな風に定義づけされているせいで、自分のこの感覚を信じられず、何者なのか名乗ることもできない。仕方がないか、と諦める気持ちと、そんな理不尽な話があるか、とふつふつとした怒りの込み上げる感覚とを自分の中に飼いながら、私は黒い旗を身体に巻きつけ闇に紛れている。たとえ今は恋愛至上主義の蔓延る社会からは見つけられなくとも、いつか光の下に行く日が来たら、私の黒はきっと美しく輝くのだろう。その光の源には喜びと、確かに怒りがあるはずだ。