足元を探してる

私はアロマンティックを自認している。簡単に言うと「他人に対してロマンティックな感情を全く、またはわずかしか抱かない」というセクシュアリティだ。20年近く生きているが、私は今まで他者に対しロマンティックな感覚を抱いたことはない。LGBTという言葉はだいぶ一般的になったと思うが、LGBTQ+、またはSOGI、そしてGSRMなど、性的マイノリティを含む、示す言葉は多くある。そのなかで私は、恋愛的指向に関わる分野でのマイノリティを自認している。

「ア」ロマンティックという名前の通り、私は他人に対してロマンティックな感情、例えばデートがしたい、この人と話すと、いや想像するだけでどきどきする、苦しくなる、この人と恋愛感情で結ばれたい...といった感情を抱かない。そうしようとしているのではなく、元々持っていない。その刺激を感じる器官を生まれつき持ち合わせていない、という方がより感覚を適切に表現しているかもしれない。ロマンティックに対する憧れや欲望もない。この「ない」ということを他人に、そして社会に説明することは本当に難しいと思う。正直、マイノリティの中でもマイノリティな存在だと感じている。


好きになるとはどういう感覚だろうか。一言で好きと言っても、その中にはロマンティックもセクシャルも同じものとして一緒くたに語られ、またその認識が社会の中で一般的である(だから少女漫画や恋愛ドラマの最高に盛り上がるシーンではキスシーンが描写される)。私の中では、ロマンティックな欲とセクシャルな欲は全くの別物として存在している。そして、ロマンティックな感情はないものの、愛情や親愛の情は私の中に確かに存在している。私にとってハグも手を繋ぐのもセックスも同じ温かさのものである。それら全ての行為を誰彼構わず、友達とでもできると言うわけではなく、ロマンティックなチャンネルが誰にも向かないだけで「好き」の親愛の情はただ温かい体温として存在する。
私のようなアロマンティックや、もしかしたらアセクシャルの人は、性的指向を決定する要素である「好きになるか」という前提をそもそも持っていないと考える(少なくとも私は、その前提で自分を語ることは困難だと思っている)。私はロマンティックな感情を持たないため、過去に性的魅力を感じた相手はいたが、この感覚は自分の性的指向を決定する尺度として信頼できるものなのか?という疑問、葛藤を抱えている。それは、私が恋愛とはロマンティックと性的魅力の両方を兼ね備えることが当たり前だとどこかで信じているからなのか、そういった社会に生きているからなのか、そもそも恋愛とはロマンティックなしには存在しないものなのか、自分の問題なのか社会の問題なのか、どこからやってくる問題なのかわからないままでいる。



こう悩む理由の1つに、私は性的指向の面でストレートではないことを自認しているから、というのがある。私は誰にもロマンティックな感情は抱かないが、これまで性的魅力を感じる相手の性別は男性女性に向いてきた。そして、必ず男性女性だけでないといけない、とも思わない。

しかし、誰にもロマンティックを感じずにセクシュアリティに関わらず性的魅力のみを感じる私は、果たしてパンセクシャルと言えるのだろうか。この惹かれる感覚は性的指向の根拠になり得るのだろうか。矛盾しているのではないだろうか。例えばLGBは、性的指向に関わるマイノリティである。「(誰=自分が)誰を好きになるか」という部分でその属性が決まる訳だが、この前提のままだと、私は自分の置き所がわからないままだ。性的指向においても恋愛的指向においてもマイノリティ。この2つが絶妙に絡み合ってしまった結果、私は自分自身が何者なのか、よくわからなくなっている。


「誰が好きでもいいじゃない」「好きにならなくてもいいじゃない」という励ましと、自分のアイデンティティが確立しないことによる不安はそれぞれ別の問題である。私は自分の性的指向をはっきりさせたい。セクシュアリティとはアイデンティティであり自分自身の居場所だ。足元がはっきりしない不安は大きい。でもどうやってそれを確かにさせることができる?QやXの人が、「わからないままでいいじゃない」と言えるのは、わからないということをアイデンティティにできるのは、本当に強いと思う。わからないということをそのまま自分と受け入れられるのは、きっとセクシュアリティに関わらず強い人の言葉だと思う。

「男だとか女だとか関係ない、私はあなただから好きになったんだ」という言葉に、私は素直には頷けない。ロマンティックラブのコードに則った言葉だと思うが、それを重視するかは人それぞれであるものも、私は相手のセクシュアリティを無視したままその言葉をぶつけるのはとても乱暴なことだと思う。相手の居場所を無視していきなりあなたに飛ぶのは、相手の居場所を尊重しているとは思えない。あなたがあなたであることを尊重する、そしてあなたが好きである、という順番で考えることが提示されたら、少なくとも私は救われる。

ひとまず私はアロマンティックと言う居場所があることに安心しているし、とても居心地がいいとも思っている。幸い、性的マイノリティ当事者が集まる場ともつながりがあり、セクシュアリティに関わるマイノリティ性、やりづらさしんどさを恐れずにで開示することができる。もちろん何気ない話もポジティブな話もしている。しかし、全ての人にオープンにする勇気はまだない。そして、いずれはしなければならないと思っている、親へのカミングアウトと言う一大イベントが待ち受けている。カミングアウトをしなくてもいいのはマジョリティ特権だというのを聞いて、確かにそうだと思う。社会が自分と合っていることで障壁やストレスが少ないのは羨ましい。マイノリティとは、別に特別な存在であることではない。マイノリティはただマイノリティなだけだ。私は単にロマンティックな恋愛をしない人間というなのではない。私の居場所たるセクシュアリティに関わる部分を言いたい。私のアイデンティティを守りたい。認めて欲しい。ないことを経験不足という言葉で押さえ込まれたら、私を形作る大切な要素を否定されることになってしまう。怖い。


その恐怖や苛立ちがある一方で、性的マイノリティであることで少しずつ当事者やアライの仲間が増えてきた。滅多にラインをしなかったのに、徐々に友だちが増えていっている。孤独を感じながらも孤独じゃないと感じられる、まるで何かの歌詞に出てきそうな状況にいることは本当に救いだ。今のところアロマンティックであること、そしてストレートではないこと自体に苛立ちやしんどさを感じたことはない(ストレートでないことに関しては、アロマンティックであることに気づいた時の衝撃と安心感、そこから生まれる複雑さの悩みにばかり気を取られて、自分がストレートでないことについて疑問も悩みも持っていなかったな...と今やっと気づいた。遅。)緩やかに繋がり、話すことができる人が増えていくこの居場所を守って、そして仲間を守って、皆を大切にしながら生きていきたい。