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結婚は何を変えるのか ~『最小の結婚』第3章を読んで~

3月頃から『最小の結婚』を読み始めた。この本は、時間をかけて読んで、今なお読み終わらないくらい内容が(私にとっては)とても難しい、しかし確かに面白さや救いなども本である。

私はいちAceとして、世に蔓延る性愛規範、そして恋愛伴侶規範をとても有害なものだと思い、憎んでいる。しかし、Aロマの言葉は、そしてAセクシュアリティの言葉は、セクシュアルマイノリティの中の相対量としても、そして世の中の絶対量としても少ないように感じる。度々例に出して申し訳ない思いがあるが、LGBTコミュニティの中の大きなイシューに同性婚やパートナーシップ制度がある。異性愛者以外の婚姻の権利を認めようとしないことは明らかな間違いであり、婚姻制度の権利を獲得するムーヴメントに賛同する一方で、そもそも性愛/恋愛規範の結晶であり、人々はそれを当たり前に志向するとされている「結婚」というものに対し、私は同性婚合法化に対するそれよりもずっとずっと大きい苛立ちを持っている。(この葛藤は罪悪感でもあり、しかし当然の怒りでもある)
では、結婚とはどのように成り立っているのか。結婚が存在することで、何が正当化され、どんなものが仕組まれているのか。それを少しでも知ることができれば、私は私の怒りをもっと語りやすくなるのではないだろうか。そんな思いでこの本を読んでいる。1章、2章と読み終え、3章では大きく、本当に大きくだが結婚の規範というものに触れられていると感じた。そこで、性愛規範、恋愛規範を憎む私の感想、そして結婚への苛立ちを自分の言葉にしていくために、自分なりに内容をまとめてみようと思う。この章には(というかこの本全体には)様々な学問や理論、哲学が横たわっているが、私はそれらを正しく読めている自信はない。それは私が理論や哲学を知らないからでもあるし、結婚を「Aセクシュアル寄りであり、Aロマンティックである私」という頭を通して見ているからでもある。だって、私の結婚に対する最も大きい感情は苛立ちなのだ。だから、きっと偏りがあるという前提で読んでいってほしい。この記事はあくまでも私が読んだ感想であり、私の捉える結婚についてのあれそれであり、何より私のためのメモであり、結婚が蔓延る世界で生きていくための武器を育てていくものだ。

私の感覚だが、『最小の結婚』は3章では主に結婚と性愛規範について、4章では恋愛規範について、というように構成されている。よって私のnoteでの『最小の結婚』を読みとくシリーズは、少なくともあと一つはまた書くつもりだ。今回は、性愛規範が様々な形で受け入れられている背景を結婚から読み解いていくものである。




結婚は性行為を許すのか


性行為の望ましい基準は、結婚における相互に貞節な一夫一妻関係である。 p119

3章はこの一文から始まる。これを最初に読んだとき、何とも言えないおぞましさを感じた。「望ましい基準」というワードにも、その後並べられる望ましいとされる関係にも、これらが当たり前のこととして受け入れられている現実にも、何だか不気味な感じがした。

この章の大きなテーマは、【結婚は性行為を道徳的に許すための制度であるか】だ。結論から言うと、著者であるエリザベス・ブレイクさんはこの論に丁寧に「No」を突き付けていく。

性行為と結婚との間に特別な道徳的関係がある、とする影響力のある議論を、ここでは3つ挙げられている。

①性行為とは人を客体化して扱うことであり、人間の尊厳に対する脅威である。そしてその尊厳は、法律上の権利が制度化されることを通じて、結婚に救済される。(byカント)
②婚外の性行為は人間性を剥奪させるような影響を持ち、また、ある種の基本的人間善は結婚の枠内でのみ達成される。(by自然法)
③結婚が貞潔の徳を可能にすることによって、人間の開花に貢献しうる。(byロジャー・スクルートン)

これらに共通しているのは、結婚が性行為によって道徳的に適切な文脈を作り出すもので、つまり結婚は道徳的に変容をもたらすものであるということである。ざっくりと訳すと、要は結婚することで何(か)が変わるか、ということを述べているわけだ。変容する理由は、結婚が他の人間関係と比べて、唯一無二の特別な何かがあるからだ(とされている)。しかし、そうではない。この3つの議論とエリザベスさんの反論について、詳しく書いていく。


①『客体化、セーフティーネット、敬意』ー結婚は性行為の免罪符なのか?


まず、カントの議論である。性行為を人間の尊厳に対する恐怖である、と、大げさな捉え方をしていると映るかもしれないような論だが、ここに至るためにはフェミニズム的な文脈が大きく関わっている。
そもそも、性に対しての悲観的な見方は様々な場面で見られる。それはアメリカの純潔教育だったり、日本でだって「寝た子を起こす性教育」といったような形で表れている。
性行為に対して消極的な態度がとられてきた背景には、例えばアメリカでは純潔教育が『結婚の文脈以外での性的行為は、心理的及び身体的に有害な影響を及ぼす可能性が高い』と教えてきたことである。また、ラディカル・フェミニストは、『両性(男性、女性)の社会的関係は、男性は支配することが許されているが、女性は服従を義務づけられるかたちで作られており、この関係とは性的なもの、つまり性行為である。(p121)』と述べている。この見解によると、社会は女性の道徳的人格とは矛盾する形で、女性を男性より劣った存在であるとして、性的存在として客体化して扱っているのである。

※この本のまとめということでラディカル・フェミニストの論を引用しましたが、「セックス」(性行為の意味ではなく、いわゆる『出生時に決められた性別』、そしてとても乱暴に言うと足と足の間にあるもの)を絶対視するような、そしてツイッターなどで見るTERFの主張を見たうえで、私はラディカル・フェミニズムを丸々信用する立場ではありません。そして改めて表明しますが、私はトランスジェンダー差別に反対します。

カントによると、婚姻関係を結ばない状態で行う性行為は、相手を利用するための単なる客体として扱うものであり、それは人間の尊厳を侵害するものである。では、相手の尊厳を尊重するためにはどうすればいいのか。そこに登場するのが婚姻制度である。
カントによると、「性行為の利用」は、利用の許可によって許容されるものである。そして結婚の法的権利は、その利用を道徳的に許容させる。つまり結婚の権利とは、相手の人間性を侵害することなく、人格を物件として扱うことを可能なように変容させる、言うなれば物件に対するそれを人格に当てはめて使う法的権利なのである。

…正直、この部分は読んでも読んでも訳が分からなかった。相手を物件として扱えば人格に触れることはないから安心安全である、ということなのだろうか。なぜ結婚で相手の尊厳を侵害しない権利が得られるのか。人格を物件と同様に扱うことと客体化の違いとは。ちなみにエリザベスさんはこのカントの論を「悪名高い議論の詳細はさておき」とバッサリ切っている。


この論に対する問題は二つある。まず、敬意ある性行為のためになぜ結婚が求められるのかということ。そして、結婚が性行為を許容する唯一の文脈なのかということだ。

性行為は意図的でない身体的、精神的危害や、悪意のある扱いを受けるリスクをはらんでいるが、結婚に関する法律上の権利と責任は、「セーフティーネット」を生み出す。つまり結婚は、そのようなセーフティネットなしに強要することは許されないであろうリスク(のちに言及する)から人を保護するのである。(p122)

ここで言われているのは、予期せぬリスク、結婚の文脈であれば妊娠や病気などに対し、結婚することで、当事者を出産や病気に対する費用や、生まれてくる子を育てる両親を法的に保障し、当事者を守るというのだ。
しかし、結婚以外の文脈で、妊娠や性感染症などと同レベルの重大な身体的リスクにさらされた場合、当事者を保護するのは個人的な関係ではなく、法律が保障する損害賠償などだ。さらに、生まれてくる子どもへの保護に関しても、それは結婚した両親によるケアのみに保護されるのではない。ひとり親であったり、里親であったり、子どもの保護のために必要なのは保護される環境や仕組みが整っていることであり、生物学的な両親の結婚ではないのである。

なぜ結婚は性行為を道徳的に許す特別な関係なのかというと、性的欲望は本質的に敬意の欠落を内包するものと考えられているからである。カントによると、性的関係は友情のようなものではなく、他者の人格に対する圧倒的な渇望を伴っている。そのため、友情においてとられる他者への気配りや思いやりは、性的衝動の前ではあまりにも無力である。だから婚姻契約を結ぶことで法的権利を創出し、相手の道徳的地位の承認を必要とする責務を課すことによって対処しているというのだ。

性行為を行う相手への敬意を示すには、婚姻関係を結び法律によってそれを促されるしかない、というのが許容の根拠である。カントによると、結婚とは敬意を制度化することで他者を目的として承認し、性行為に関する正当な主張の根拠とするものである。また、結婚契約は独自のニーズを持った存在として相手に関心を示すのであり、単なる利用する/されるの関係ではなくなる。それにより「利用される」側である女性は、性的対象として客体化された存在ではなくなるという。


敬意が制度化された結婚を利用することによって、相手の人格を損なうことなく性行為を行えるのだろうか。また相手への敬意は自然に、必然的に生まれてくるものだろうか。

まず、他者を法律上平等な存在であると考えるためには、近代的な結婚は必要ではない。相手の人格を尊重した性行為に必要なのは、ただ敬意をもって相手を見るだけであり、それは婚姻関係にある者とだけでなく、一夜の相手とも同様である(よりわかりやすい概念は「性的同意」をとることにあたると考えます)。さらに、相手に対する敬意は結婚することによって自動的に生まれるものではなく、主体的にしか生まれないのである。そうでなければ、DVはこの世に存在しないことになるし、世界は円満で安泰で幸福な婚姻関係ばかりであふれているはずである。結婚という制度は、それを利用する者の内面を変容させるものではない。客体化するとはあくまで内面的な心理状態である。法的制度という形式上の外的要因が、直接相手を客体から目的へ書き換えることはできないのである。

制度は、時間をかけて私たちの態度を形成したり、また私たちを特定の選択へ向けて他の選択から遠ざかるようにそっと誘導したりすることもできる。しかし行為者の中にただ入り込んで、内的な心理状態を変容させることはできない。(p128)



②『新自然法という善』-いい性行為、わるい性行為?


結婚に特別な価値がある(とされる)理由は、動物本性と人間本性に結び付いた基本的人間善のなかには性行為に関連した特別な善があり、それは結婚においてのみ獲得できるからである。
ここでは『結婚は許容される性行為の必要条件(p129)』とされており、そこで言われる性行為は生殖の善と結びついている。そして、生殖と育児が強く結びついているために、結婚には「両親と子ども=生み、育てる」の役割関係が必要である。そのために、結婚関係は子供を授かり育てるのに適した唯一のものである必要があり、それを支えるのが【一夫一妻的な、異性間の、生涯にわたった】という結婚の特徴である。この特徴であり結婚の条件があるために、婚姻外の性行為、生殖を伴わない性行為、そして同性婚は生殖という結婚の善に通じない誤ったものとして認められないのである。

当然のことであるが、この単純化された議論は多くの反論を引き起こす。人類全体のための基本善のパターンがワンセットしかないのは、個人と文化の多様性の中に存在しうるはずがないのではないか。子育てを行う家族は単婚以外の形態で最も頻繁に行われてきたのではないか。性行為で快楽を得ることは間違いなのか。同性間の性行為と不妊カップル間の性行為の違いは見当たらないのではないか、等々である。

新自然法を擁護する、つまり結婚と生殖の善の結びつきを唱え、「一夫一妻、異性間、生涯にわたった」を擁護する議論として、ジョン・フィニスは

異性間の一夫一妻制に基づく結婚は、生殖の善にとって特有の文脈であるだけでなく、「その存在の全水準において、性的に補い合う、配偶者間の相互扶助と友情[amitica] の善にとっても唯一の善である(p130)

と述べている。この見解において、性行為は結婚という善の一部になった時にはじめて善きものとなる。生殖の善だけでなく、配偶者間の友情という結婚の善をも目指す性行為は、それ自体に価値があるのである。それは、結婚という善を例示し、可能にするためである。そのため、この文脈で行われる性行為で快楽を得ることは適切であり、それに適さない単なる快楽のための性行為は生殖に開かれていないものとして、同性間の性行為は性的に相補的な結合を表せないものとして(結婚の結合とは、交接の生物学的結合が表し、結合は子どもというかたちで現実化するために、配偶者間の性行為によって誕生する子どもによってでしか結合、そして善は認められない、と解釈しました)、それぞれ排除されるのである。

生殖を目的としない性行為はとにかく結婚の善に背いている、と主張するのは決して遠い話ではなく、現在の日本においても身近なものである(むろんこれは皮肉と批判です)。同性婚について向けられた件の発言は「生産性がない」だが、この生産性とは、結婚によって結合した(1人+1人=1つの家族になるという単位の変化により、結婚を経た家族は実質的に1であり、プラマイゼロと捉えられる)にもかかわらず、子どもを新たに生まない、人員を増やさない、だから国家にとって生産能力がない、という解釈をしたのだろう、と考えている。(そこまで考えていないのかもしれないが)

新自然法による性行為と結婚についての説明への批判として、いくつかのものがある。まず、婚姻関係なしの性行為に基本的人間善が存在しないとなると、全ての婚姻関係なしの性行為は、避妊を伴う性行為、生きずりの性行為、売買春、マスターベーションと同列のものになる。それぞれに異なる有徳、悪徳がある上で、『「快楽、情動発達、人格の安定、長期的な陶治」と言った善(新自然法によって承認された基本的人間善を含む)は、同性または未婚の関係にも見出すことができる(p132)』と考えるのが妥当であろう。
また、新自然法は、不妊の異性間同士は生殖能力のある異性間同士と同様の性行為を行うことができる、という論で異性間の配偶者のみを優越しているが、例えば不妊の配偶者同士は自らが生殖できないことを知っていれば、生殖の善を叶えるための性行為を行うことは不可能である。
さらに、男女の性的な結合のみが結婚における友情の善を実現させ得るという見解に対しては、生殖力のある性行為とは、体ではなく精子と卵子を結びつけるものであるという生物学的な面から反論がされる。そして、結婚における友情は、男女の性的な相補性を本質的主義な理解に依存しており、全ての男性と全ての女性にこの論を当てはめるのは不可能である。

最も重要なのは、友情、愛、そして誠実さは、心理的、感情的な状態であり、これらに特徴的な態度は、当事者たちの生物学的あり方には左右されないということである。(p134)



③『貞操の徳の疑わしさ』-排他性は何を守るか?


新自然法は、結婚は生殖の善を可能にすると述べているが、ロジャー・スクルートンは、結婚を「貞潔で官能的な愛」を可能にするものとして捉えている。

結婚は個人の開花に貢献するように個人の気質を形づくり、そして貞潔で官能的な愛を保護することによって、有徳な開花を可能にさせるという。(p135)

人間の開花(本の中で「開花」と「幸福」は並べて記述されているので、近しいニュアンスのものとして捉えていいと思う)は、性的欲望をある特定の他者からの応答性=「個人の志向性」の究極目的である「官能的な愛」によって構成される。そのため、人間は開花(幸福)を目指すべきものであり、また開花(幸福)のために官能的な愛は守られなければならないと言われている。

官能的な愛は誤用されやすく、(この「誤用」には性的空想、マスターベーション、『同性愛』、『倒錯』があたる!)また壊れやすい。そのため、官能的な愛を守るためにはこれらを防ぐよう、貞潔に自身を習慣づけることが求められ、それに結婚が該当する。結婚は、性的行為に期待される基準を示して、有徳なセクシュアリティ(性的問題にかかわる様々なこと)を社会的に保障する。そして結婚は、壊れやすい官能的な愛を社会から守るプライバシーをも創出するのである。結婚は『官能的な愛を守る社会的な盾を提供するものであり、第三者からの敬意を促すものである(p136)』とされ、社会から婚姻関係にある者たちへの詮索する視線を取り除く。例えば未婚者に「なぜ結婚しないのか」と理由を嗅ぎまわる人や、嫉妬や干渉的な態度で恋愛関係にある者たちを(結婚という法的制度に保障された関係ではないために)壊そうとする人を、結婚は社会的に正統的な排除を行うのである。

しかしこの論は、結婚が社会的にプライバシーを守るものだとしても、結婚が法的に必要であるという理由にはならない。さらに、プライバシーとは財産権や不法侵入、盗撮などに対抗する権利、または自分の部屋である。プライバシーとは物質的なものによって保たれるものであり、結婚はこれらを創出しない。そもそも、官能的な愛と開花がこういったプライバシーを必要とすることも明確ではない。
何より、スクルートンの唱える正統的な排除の危険性は、結婚の中で起こる暴力や虐待などの危機を無視している。結婚により社会による詮索から外(さ)れることは、結婚によって公的な視線を取り除くことと同義である。婚姻関係の文脈における排他性とは、退出の選択肢を削ることとも言えるため、虐待のみならず、単なる関係性の不釣り合いであったとしても退出を困難にし、結果より怒りっぽい関係や支配的な関係などが構築されてしまう可能性もある。


(結婚こそが人間の開花につながるという議論の)根本的な問題は、一種類の関係のなかでしか人は開花できないのか、ということだ。官能的な愛に関しては、千種類の花が咲くーすなわち、人は様々な方法で開花するーと考える方がより妥当である。(p139)

と提起され、返答される。現行の婚姻法は、全ての人に一つの形態の関係を処方することによって、それに当てはまらない人々の開花を制限している。
スクルートンの見解では、開花するのは「貞潔な/異性間の/官能的な/恋愛関係」に限られている。官能的な愛は「自分と異なる対象(の根拠は『生物学的性』の差異)」を求めるものであるからだとし、同性間の恋愛関係は認めていない。しかし、男女が似ている場合があるように、同性同士であっても様々な点で違いがあることは明らかである。
またスクルートンは、結婚を官能的な愛の壊れやすさを守るための排他性によって特徴づけている。そのため、多くの性的関係を持つことは(物理的に二人以上の人間がいることで排他性がなくなってしまうため、と解釈しました)愛を不適合にしてしまうという理由で、ポリアモリーな人々も婚姻関係には当てはまらないとされている。しかし、愛とは「どのようなものであるか」ではなく「どのようになされるか」ということに多くがかかっている。そのため、ポリアモリーな人が愛のための能力を維持することは可能なはずである。そしてスクルートンは、性的欲望を「社会的人工物」であるが「人間にとって自然なもの」でもあるとしているが、私はこれに明確にNoを突き付ける。

そして幸福な結婚でさえ、偏愛や感情的依存、過度な独占などの「悪徳」を助長する場合もある。そういった理由で、現行の婚姻は人間の開花を完璧に促すものでもないのである。



結婚は何を変えるのか


冒頭で、この章の問いは「結婚は性行為を道徳的に許すための制度であるか」だと書いた。私なりの答えだが、「道徳的に許される性行為ではない」のではなく、結婚したことで新たな許可が創出されるわけではない、というニュアンスがしっくりくる気がする。結婚は性行為に対し何の免罪符も発行しないし、性行為の意味も変えない。結婚にはそれらに対して変容をもたらす力はない。制度によって内心まで変えることができると信じるのは不可能なのだ。例え結婚したとしても必ず有徳な性行為を行わなければならないわけでもないし、現行の婚姻法が一方的に設定している婚姻の条件に当てはまらない関係であっても幸福な関係を築くことはできる。そして、結婚が定めている幸福に適さなくとも、すでに私は幸福なのだ。結婚に向かうことの方が不幸に近づく場合、それを目指すことをどうやって幸福と言えるのか。


この本は読むのもまとめるのもとても難しかったが、書いている内容自体、エリザベスさんの論は、今まで感じていたことへの解像度が上がったり、この考えはこのような論で説明できるのか、という発見は多々あったものの、私にとっては特段珍しいものではなかった。つまり現行の結婚は、批判されて当然の様々な要素に支えられたうえで、今なお大きな権威として君臨しているのだ。客体化、生殖、生産性、『正当な排他性』、『一夫一妻、異性間、生涯にわたった』、性的欲望は自然なもの、幸福。これらに適している人の幸福を奪うのは間違いだ、と思う。これらの幸福を得るために目指す人を否定するのも正しくはない、とも思う。
しかし、私はそれらをひっくるめたうえで、やはり今蔓延る「結婚」というものを許さない。それを支え、「すべての人が」それを目指すように押し付けてくる規範も、決して許さない。



*参考文献、そして引用元は全て【エリザベス・ブレイク『最小の結婚 結婚をめぐる法と道徳』白澤社】です。