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大御所政治の始まり

第百五十六回 サロン中山「歴史講座」
令和五年9月18日

瀧 義隆

令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
歴史講座のメインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
今回のテーマ「大御所政治の始まり」

はじめに

徳川家康は、慶長八年(1603)に「征夷大将軍」に補任されて、正式に天下の権力者となったが、家康には深慮遠望の施策として、徳川氏の「天下の権力者」を独占し続ける為に、僅か二年後の慶長十年(1605)に、「征夷大将軍」を家康の次男の徳川秀忠に譲位して、自らは「大御所」となって表面的には隠居生活に入ったのである。

そこで、今回の「歴史講座」では、家康の「大御所」となってからの政治について考究してみたい。

1.「大御所」について

家康が征夷大将軍を辞任して、「大御所」となったその狙いは、次のようものであると考えられる。
●国の政権を掌握しているのは徳川家であり、その実権は徳川家が世襲する事を全国の諸大名に知らしめ、どの大名もこれには逆らえない事を定着させる。
●早々と征夷大将軍の地位を秀忠に譲る事によって、朝廷や公家達が他の大名との繋がりによって、天下の政権を横取りしょうとするような、不穏な動きをしないようにする、先手の方策を示した。
●大坂城に現存する、淀君や秀頼を中心とする豊臣家や、それ
を慕う豊臣秀吉恩顧の西国大名達に対して、政権は徳川の独占であって、豊臣家の出番はもはや皆無である事を痛烈に知らしめる為であった。このような家康の動きは、次の史料に窺う事が出来るのではなかろうか?

「十二日大坂の豊臣内大臣秀頼公を右大臣にあげらる。」

『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』 吉川弘文館 平成十年 129P

「内大臣(ないだいじん)」・・・・・律令管制で太政官に置かれた令外官の一つで、宮廷における左・右大臣の次に位置する官職で、政務や儀式を司っていた。
「右大臣(うだいじん)」・・・・・「内大臣」の上位にあたる官職であるが、政権が武士社会に握られてからは、公家社会のみに通用する朝廷内の実権のない最上位の「位(くらい)」でしかなかった。

この史料によれば、一見、豊臣秀頼を「内大臣」から「右大臣」に昇格させているように見えるが、その実は、「内大臣」も「右大臣」も朝廷のみに通用する公家としての地位でしかなく、豊臣家を武家の地位から、公家の一員とする事によって、武家政権から遠ざける政治的策謀である。これに対し、家康は徳川家を絶対的な地位に固定させる方策に出ている。その史料を見ると、慶長十二年(1607)正月の項に、

「この正月より駿府の城を經營せられ莵裘に定め給ひ、七月三日駿府にうつらせ永く御所となさる。この後はしばしば駿府より江戸にも往来し給ひ。(後略)」

『新訂増補 国史大系 第三十八巻 徳川實紀 第一篇』 吉川弘文館 平成十年 129~130P

「駿府(すんぷ)」・・・・・現在の静岡市葵区で、「駿(すん)」は「駿河国」の「駿」で、「府」とは
「役所」のあるところで、人の多く集まる所を意味する。従って、「駿府」とは、「駿河国」の中心地であることを示すものである。・・・・・・・・資料①参照
「經營(けいえい)」・・・・現在の経営の意味とは相違して、縄張り土台をすえて建物を造ること。
「莵裘(ときゅう)」・・・・中国の古い言葉で、官位を辞退して隠居の場所と定めた地名を指す意味で、老いて世を退き、余世を送る所を示す言葉である。

以上のように、駿府城を終焉の場所と定めて、江戸城に居る二代将軍の徳川秀忠をリモートコントロールし、盤石な政治体制を築いたのである。

2.「歴代の大御所」について

①「古代の大御所」
古くは、天皇の居所を「おほみもと」と称しており、更に親王の隠居所である「御所」を指す言葉と変化し、その後、隠居した親王を示す尊称へと用いられる言葉となった。また、摂政や関白の地位にあった者の実父に対しても使用する言葉となった。それが、武家社会における隠居した「征夷大将軍」や現職の将軍の実父を指す言葉となった。
②「鎌倉時代の大御所」
鎌倉時代の「大御所」について史料を見ると、

「建仁三年九月六日辛未 将軍家の御病少減し、(中略)江馬殿に参らんと欲す。江馬殿、折節大御所幕下将軍の御遺跡、當時、尼御臺おはします。に候ぜらる。(後略)」

『新版 全譯 吾妻鏡 第三巻 自巻第十七 至巻第二十六』信人物往来社 2011年 84~85P

「建仁三年」・・・西暦1203年のこと。
「将軍家」・・・・・鎌倉幕府二代将軍の源頼家のことで、当時、頼家は発病していて、その後、伊豆の修善寺に追放され、更に暗殺される。
「江馬殿(えまどの)」・・・・北条義時のことで、義時は北条時政の次男で、北条家の分家である江馬氏の養子となった為に、「吾妻鏡」では義時を「江馬」の名字で記述されている。
「折節(おりふし)」・・・・時々の意味である。
「幕下将軍(ばっかしょうぐん)」・・・・大将軍の意味で、将軍への尊称でもある。
「御遺跡(ごいせき)」・・・・死後に残された建物や土地等を現す。
「尼御臺(あまみだい)」・・・源頼朝の正室である、北条政子のことで、頼朝の急死の後、政子は落飾して尼となったことから、「尼御台」と称されるようになった。

このように、鎌倉時代における「大御所」とは、将軍の死後、生前に将軍が居場所としていた建物や土地等を示す言葉として用いられている。
③「室町時代の大御所」
室町幕府における歴代の「大御所」を見ると、

●三代将軍・足利義満(よしみつ)・室町幕府初代の大御所応永元年(1395)十二月、将軍職を嫡男の足利義持(よしもち)に譲るものの、政治の実権は握り続けた。
●四代将軍・足利義持(よしもち) 応永三十年(1423)三月、将軍職を足利義量(よしかず)に譲り、「大御所」として政権を維持した。
●八代将軍・足利義政(よしまさ)足利義教(よしのり)の子供で、文安六年(1449)四月に第八代将軍となる。文明五年十二月(1473)に、将軍職を幼少の足利義尚(よしひさ)に譲るが、義尚が幼少であることを理由として、「大御所」として政権を維持した。
●十代将軍・足利義材(よしき)・(義種)八代将軍の足利義政の弟である、足利義視(よしみ)の子供であることから、足利義材が将軍職に就くと、足利義視が「大御所」と称して実権を握った。
●十二代将軍・足利義晴(よしはる)十一代将軍の足利義澄(よしずみ)(32歳で病死)の長男(?)とされているが、詳細は不明。大永元年(1522)十二月、11歳で将軍となった。天文五年(1546)十二月、足利義輝(よしてる)に将軍職を譲るが、「大御所」として政権を維持した。 

『国史大辞典 第一巻』吉川弘文館 昭和五十四年 173~174P・176P・177P・178~179P・179~180P

④「江戸幕府の大御所」

江戸幕府の歴代の「大御所」は、初代将軍・徳川家康(初代の大御所)慶長十年四月一六日、二代目将軍を徳川秀忠に譲位し、家康自身は駿府に隠居したとするものの、
実質は、幕政の全ての権限を掌握したままであり、駿府からリモートコントロール(遠隔操作)を行い、この体制は家康が死去する元和二年(1616)四月十七日まで継続された。

二代将軍・徳川秀忠
元和九年(1623) 月 日、将軍職を三代目の徳川家光に譲位し、最初は小田原城に隠居したが、その後、江戸城の西の丸(現在の皇居)に転居し、父の家康と同様に、「大御所」として幕政の実権を離さなかった。

八代将軍・徳川吉宗
延享二年(1745)九月二十五日、将軍職を徳川家重に譲位するが、家重は言語不明瞭の身障者(頭脳は明晰)であったことから、吉宗の次男である徳川宗武や、三男の宗尹(むねただ)に次の将軍へと運動する家臣達の混乱を鎮静させる為に、吉宗自身が隠居の身となって、政務を執り続けた。

九代将軍・徳川家重
宝暦十年(1760)五月十三日、長男の徳川家治(いえはる)に将軍職を譲り、「大御所」となったが、翌年の宝暦十一年(1761)六月十二日に51歳で死去してしまった。

十一代将軍・徳川家斉(いえなり)
家斉は、御三卿の一つである一橋家の長男として誕生したが、徳川宗家の第十代徳川家治(いえはる)の世継ぎの家基(いえもと)が急死したことから、家斉が家治の養子となり、天明七年(1786)に家治が病死した為に、家斉が十一代の将軍職に就いた。

天保八年(1837)四月に、次男の家慶(いえよし)に将軍職を譲ったが、大御所として政治の実権を握り続け、天保十二年(1841)閏一月七日に死去した。家斉には、少なくとも16人の側室がいて、53人(男子26人、女子27人)の子供がいたが、成年まで存命したのは、約半分の28人であった。

『国史大辞典 第十巻』吉川弘文館 昭和五十四年 277P・278~279P・281~284P・295~296P・300~302P

3.「徳川家康の大御所政治」について

徳川家康が如何に軍略や政治に有能な人物であっても、たった一人でこの日本の国を統制出来るものではない。そこには家康を下から支え続けてくれる優秀な家臣集団があったからである。家康が「大御所」となって、駿府城に在城しながら、全国の諸大名や庶民達に、世情安寧を図る目的から幾多の政策を、表面的には江戸城に居る二代将軍の徳川秀忠の意向として、諸政策を実行したのである。

そこで、この項では、「大御所」となった家康の手足となって働いた家臣団に目を向け、また、実行した諸政策について見る事としたい。
①「家康の大御所政治」のスタッフ
本多正純・・下野国小山藩三万三千石の譜代大名で、後に宇都宮藩十五万五千石に加増された。父の本多正信は江戸城で秀忠に仕え、子の正純は駿府で家康の家老として仕えていた。後に政治的な失敗もあって失脚する。

成瀬正成・・幼い時から家康に小姓として仕えていたが、武勇に優れた人物であった。関ヶ原の合戦後は、下総栗原三万四千石の大名となり、後に尾張藩の附家老として徳川義直に仕えるように命じられ、犬山城三万五千石が与えられた。

安藤直次・・幼少期から家康に仕え、幾多の合戦での功績もあって武蔵国に二千三百石を拝領したのを初めとして、最終的には紀州藩の徳川頼宣の附家老となり、81歳で死去した。

竹腰正信・・実母が家康の側室(お亀の方)であった事から幼少から家康に仕え、最終的には尾張藩の徳川義直に仕えて附家老となり、美濃の今尾に三万石を拝領していた。

松平正綱・・本来は、河内秀綱の次男であったが、家康の命により、長沢の松平正次の養子となり、駿府城の近習出頭人の地位を得るような、優秀な人材であった。秀忠や家光にも仕えた人である。勘定方を務めており、相模国玉縄に二万二千百石を拝領した。

板倉重昌・・松平正綱と同様に幼少から有能な人物で、駿府城の近習出頭人の地位を得ている。豊臣方との交渉役を務める等で、家康の信頼も厚く、五千二百三十石を拝領していた。

秋元泰朝・・泰朝も近習出頭人を務め、大坂の豊臣氏の攻略に功績をあげ、大番頭に昇進している。甲斐国谷で一万八千石を領していた。

以心崇伝・・「金地院崇伝」とも称される。京都の一色秀勝の次男として生れた、臨済宗の僧侶である。慶長十三年(1608)頃に家康からの要請を受けて、幕政に参画する事となり、法律の立案や外交、宗教統制を担当していた。

天海大僧正・生国も生誕年も不明な人物で、家康の側近となった時期も不明であるが、家康の相談役・参謀として仕えていた。没年も明らかではないが、107か108歳で死去した、と伝えられている。

林 羅山・・京都に生まれた人物で、幼少期から秀才と言われるような学問に優れており、朱子学を極めた学者である。慶長十年(1605)頃に23歳で家康に仕え、主として、幕府の学問分野を担当していた。

茶屋四郎次郎・・京都の豪商で、公儀呉服師を世襲し、家康に接近して徳川家の呉服御用を一手に担うようになり、その後、家康の側近を務めたり、代官にもなっている。家康の財政的支援も行っていた。・・・・・・資料②参照

後藤庄三郎・本来は「橋本」の姓であったが、その出自は不明で、文禄二年(1593)には家康と接見している。彫金師の後藤徳乗の名代を務めたりして、その才覚が認められて「後藤」の姓を名乗る事となる。幕府の造幣に関わると共に、金山・銀山の開発をも担っていた。

角倉了以・・京都の豪商で、慶長五年(1600)頃に家康に接近し、インドシナ半島等との朱印船貿易を拡大して財力を蓄え、富士川や天竜川の整備等にも貢献した。湯浅作兵衛・慶長六年(1601)に、家康から「大黒常是」を名乗るように命じられ、江戸の銀座での銀細工師を担当した。明智光秀の謀叛の時に、家康が伊賀を越えて逃亡する時に案内役を務めたのが、湯浅作兵衛であるとする説もある。

ヤン・ヨ―スティン・・外交顧問(前回の「歴史講座」で詳細説明済み。)

ウイリアム・アダムス・・外交顧問(前回の「歴史講座」で詳細説明済み。)
②「実施した政策」
●「通貨制度」の導入
鎌倉時代には中国から多量の「宋銭(そうせん)」を輸入して日本全国で流通していたが、室町時代になると「明銭(みんせん)」が輸入され、当時の税金である「年貢(ねんぐ)」が物納から「代銭納(だいせんのう)」と変化し、戦国時代には各有力武将が勝手に領国内で流通する貨幣を造幣していた。家康の時代になり、全国共通の貨幣制度を確立する経済改革を行った。

●「出版革命」
室町時代頃の出版物は、木版による「旧刊本」と称される物であったが、それが江戸初期に入ると朝鮮からもたらされた「金属活字」が流入されて、家康は『論語』や『群書治要』等の書籍を作る事を奨励した。

●「西洋式帆船の建造」
慶長八年(1603)頃、家康はウイリアム・アダムスに命じて、80トンの西洋式帆船二隻を建造させ、イギリスとの国交を開いた。その内の一隻は、スペインの臨時総督のドン・ロドリゴの帰国の為に貸し与えている。その答礼として、スペインから家康に対して時計が寄贈されている。

●「法整備」
武家諸法度
寛永十二年(1635)に諸士法度(旗本法度・雑事条目)となる。
公家諸法度 元和元年(1615)
「禁中並公家中諸法度・禁中並公家諸法度」
寺院諸法度(諸宗寺院法度・諸本山本寺諸法度)
曹洞宗法度・・・・慶長十二年(1612)実施
勅許紫衣之法度・・慶長十三年(1613)実施
五山十刹諸山法度・元和元年(1615)実施
妙心寺法度・・・・元和元年(1615)実施
永平寺法度・・・・元和元年(1615)実施
大徳寺法度・・・・元和元年(1615)実施
総持寺法度・・・・元和元年(1615)実施

●「五街道の整備」
東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五つの街道を整備した目的は、単に人馬の往来を楽にする為のものではなく、軍事行動を迅速に起こせるようにするものである。江戸幕府創設初頭には、地方に有力大名が散在しており、何時幕府に反旗を翻すか判らない状態でもあった。それらの外様大名達の対抗行動を抑止する目的でもあったと共に、京都に存在する朝廷への圧力を意味するもでもある。
鎌倉時代や室町時代、そして織豊時代における朝廷(上皇や天皇)の対武士政権への反抗的行動は、幕府政権を脅かす存在であり、幕府を保持する上では危険な存在でしかなかった。それ故、京都で何か不穏な空気が感じられたら、即、対応しえるように東海道のみならず、中山道も整備したのである。

まとめ

8月17・24日号『週刊新潮』において、歴史評論家の香原斗志氏は、今年のNHK大河ドラマ『どうする家康』について、「このような状態では、歴史への大きな誤解を招き、ひど過ぎて、どうにもできない。」と酷評している。

NHK大河ドラマは、あくまでも「ドラマ」である、とするならば、日本の歴史研究者の第一人者である、小和田哲男先生がドラマの時代考証者として名前を連ねる必要はない。何の為に時代考証者の一人として、小和田先生が存在するのか?このままにしていれば、徳川家康研究の「大御所」である小和田先生の名前に大きな傷を生じさせる。

このような状態に陥ったのは、あまりにも脚本家の古沢良太氏が史実を無視した、全くの独創的歴史観によるドラマであるが為である。このまま放置しておけば、とんでもなく誤った歴史事実を伝えてしまう大罪を犯してしまう恐れが大である。これこそ、「どうするNHK」となるであろう、と憂慮するのみである。

参考資料

参考資料
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参考文献

次回予告

令和五年10月9日(月)午前9時30分~
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代
歴史講座のメインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する。」
次回のテーマ「豊臣氏の滅亡」について

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