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「鎌倉時代の歴代将軍」について

第百四十七回 サロン中山「歴史講座」
令和四年10月10日

瀧 義隆

令和四年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代
歴史講座のメインテーマ「鎌倉時代初期の動乱について」
今回のテーマ「鎌倉時代の歴代将軍」について

はじめに

源頼朝は、建久三年(1192)七月十二日、後鳥羽天皇から「征夷大将軍」に任じられて、正式に鎌倉に幕府を創建した。この「征夷大将軍」とはどのような物なのか?また、源頼朝が死去した後、北条時政が二代目将軍の源頼家を補佐する意味から「執権」に就任したが、この「執権」とはどうゆうものなのか?今回の「歴史講座」において、この2件を取り上げることとしたい。

1.鎌倉幕府の「歴代将軍」について

①「将軍」について

源頼朝は、後鳥羽天皇から、建久三年(1192)七月に「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に任ぜられ、正式に政庁としての幕府を鎌倉に創設することが朝廷に認められたのである。
この「征夷大将軍」とは、何であるか?を調べてみると、「征夷」とは、「未開の民族を征討すること」であるが、実際に、日本においての「未開の民族」とは、日本列島の東国を指し、現在の関東地方から東北地方、更に、北海道をも含む地域に住む人々を意味するもので、その「未開の民族」達を征伐して大和国家に従属させる為の軍隊の隊長・責任者を「征夷大将軍」と呼ぶのである。

そこで、「征夷大将軍」について、史料をみると、
「官位部二十五令制官職二十一将軍将軍ハ軍衆ヲ統領シ、不順ヲ征服スルヲ以テ任トス、其稱ノ國史ニ見エタルハ、崇神天皇ノ時、四道ニ将軍ヲ遣シヽヲ以テ始トス、将軍ハ臨時ノ職ニシテ、(後略)」『古事類苑16 官位部 二』 吉川弘文館 昭和四十三年 1P
「軍衆(ぐんしゅう)」・・多くの兵隊・軍隊のこと。
「不順(ふじゅん)」・・・人に従わないこと。道理に逆らうこと。
「國史(こくし)」・・・・国家や王朝などの政治的まとまりを単位とした歴史及び史伝叙述のこと。
「崇神(すいじん)天皇」・第10代の天皇で、開化天皇の第2皇子で、崇神天皇元年から崇神天皇六十八年まで在位し、120歳で死去した、とされている。3世紀後半から、4世紀前半まで生きていたのでは、と考えられている。
「四道(しどう)」・・・・北陸道、東海道、西道、丹波(山陰道)のこと。

以上のように「将軍」とは、日本の神話に近い3~4世紀頃の古代には存在した職位で、古代の朝廷では重要な地位を占めていたのでは、と考えられる。つづいて史料を見ると、「元正天皇ノ朝ニ、多治比縣守ガ持節征夷将軍タリシ以来、其任ニアタル者モ多カリシガ、桓武天皇ノ朝ニ、坂上田村麻呂・文室綿麻呂ガ相継テ、之ニ任ゼシ後、漸ク平定ニ趨キシヲ以テ、久シク其人ヲ命ゼザリシガ、後鳥羽天皇ノ元暦元年ニ、源義仲ヲ以テ之ニ任ズ、然レドモ征夷ノ二字ヲ加ヘテ、将軍ノ栄号ト為スニ過ズ、源頼朝ノ起ルニ及ビテ、亦其稱ヲ襲ヒ、武家執政ノ常職ト為リ、大ニ往昔ノ征夷将軍ニ異ナリ、(後略)」『古事類苑16 官位部 二』吉川弘文館 昭和四十三年 1P

「元正天皇(げんしょうてんのう)」・・・・第四十四代の女性の天皇で、父は草壁皇子で、母は元明天皇(女性の天皇)である。霊亀元年(715)~養老八年(724)迄在位
「持節征夷将軍(じせつせいいしょうぐん)」・・・律令時代に、天皇から「節刀(せっとう)を授けられて、征夷に赴いた将軍のこと。
「多治比縣守(たいじのあがたもり)」・・・奈良時代の公卿で、遣唐使や征夷将軍を務めた。
「桓武天皇(かんむてんのう)」・・・第五十代の天皇で、天応元年(781)~延暦二十五年(806)まで在位した。
「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」・・・平安時代の公卿で武官で、桓武天皇や四代の天皇に仕えた人で、二度、征夷大将軍に任じられている。
「文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)」              ・・・平安時代初期の公卿で武官で、坂上田村麻呂と共に征夷大将軍に任じられている。
「後鳥羽天皇(ごとばてんのう)」・・・第82代の天皇で、高倉天皇の第四皇子で、寿永二年(1183)~建久九年(1198)まで在位した。
「元暦元年」・・・・・・・・西暦の1184年で、源氏と平家が相争っていた時期である。
「源義仲(みなもとのよしなか)」・・・平安時代末期における、信濃源氏の武将であり、源頼朝とは従兄弟にあたる。頼朝よりも早く上洛して平家を追放し、征夷大将軍に任じられたが、後に頼朝によって滅ぼされた。
「栄号(えいごう)」・・・・・名誉ある称号のこと。
「武家執政(ぶけしっせい)」・・本来は、朝廷政治の政務は、公卿のような貴族が任務にあたるが、武士の台頭によって勢力の強い武士が国の政務を掌握すること。

以上の史料に見られるのは、
●西暦の7世紀後半から8世紀初頭における、坂上田村麻呂や文室綿麻呂が桓武天皇から征夷大将軍に任命された頃には、実質的に関東以北の地方に赴いて、夷(えびす)と称される原住民族を排除する戦いに出かけていた。
●西暦の12世紀になって後鳥羽天皇の時代になると、元暦元年(1184)に源義仲を征夷大将軍に任命しているが、これは、実質的に夷(えびす)を討伐する為の征夷大将軍ではなく、「栄号」としての「征夷大将軍」と変化している。
●源頼朝の時においての「征夷大将軍」の意味は、「武家」による国家主権を司る「執政」という意味を示すものであり、古来の臨時の職務としての「征夷大将軍」ではなく、「常職」という、常日頃からその地位が常駐する職責的な地位を示すものと変化している。

以上のように、「征夷大将軍」の意味合いも時間の経過と共に変化してきたことが判明する。ちなみに、鎌倉幕府滅亡後に政権を掌握して室町幕府を打ち立てた「足利尊氏」も「征夷大将軍」の宣下を受けており、室町幕府の消滅後の織田信長は、平氏の為に「征夷大将軍」にはなれなかった。その後、豊臣秀吉は本来、武士の生れではなかった為に「関白」にしかなれず、徳川家康においては源氏の系図を手に入れた上で、ようやく「征夷大将軍」になって江戸幕府を開いているのである。

②鎌倉幕府の「歴代将軍」について

この項では、鎌倉幕府の「歴代将軍」について列記してみたい。鎌倉幕府においては、幕府を開いた源頼朝の直系が、継続的に「将軍」の職を継承したのではなく、初代から三代目までは「源氏将軍」であったものの、四代目の将軍からは「摂家将軍」と称される京都の上級公卿出身の「将軍」、六代目から九代目までは「親王将軍」と称されるように、朝廷の皇族から下向した「将軍」が就任しており、初代将軍の源頼朝以外は実質的に政務をとる事はなく、特に、四代目以降の「将軍」達は全て「傀儡(かいらい)」政権であり、執権である北条氏の「あやつり人形」でしかなかった。
「歴代将軍」
【源氏将軍】
初代将軍・・・・源頼朝
建久三年(1192)七月~建久十年(1199)一月
源義朝の三男

二代将軍・・・・源頼家(源頼朝の嫡子)
建仁二年(1202) 七月~建仁三年(1203)九月

三代将軍・・・・源実朝(源頼朝の次男)
建仁三年(1203)九月~健保七年(1219)一月

【摂家将軍】
※摂家とは、摂政・関白家等の家柄を指す。
四代将軍・・・・藤原(九条)頼経(よりつね)
嘉禄二年(1226)一月~寛元二年(1244)四月
摂政関白家の九条道家の三男

五代将軍・・・・藤原(九条)頼嗣(よりつぐ)
寛元二年(1244)四月~建長四年(1252)二月
藤原頼経と藤原親能の娘である大宮殿との間に出来た子供。

【親王将軍】
※「親王」とは、律令時代においては天皇の兄弟及び皇子達を指す。
六代将軍・・・・宗尊(むねたか)親王
建長四年(1252)四月~文永三年(1266)七月
後嵯峨天皇第一皇子

七代将軍・・・・惟康(これやす)親王
文永三年(1266)七月~正応二年(1289)九月
宗尊親王の嫡男

八代将軍・・・・久明(ひさあき)親王
正応二年(1289)十月~徳治三年(1308)八月
後深草天皇の皇子

九代将軍・・・・守邦(もりくに)親王
延慶元年(1308)八月~元弘三年(1333)五月
久明親王の子供

石井 進著『日本の歴史 7 鎌倉幕府』中公文庫 2005年

2.鎌倉幕府の「歴代執権」について

①「執権」とは、
そもそも、「執権」とはどのような職位であるか?を『古事類苑』で調べてみると、「官位部三十六鎌倉職員一執権執権ハ又執事ト云フ、将軍ヲ補佐シ、政務ヲ統領スルコトヲ掌ル、其補佐タルヲ以テ又後見職ト稱シ、或ハ争訟ノ曲直ヲ裁決スルヲ以テ理非決断職トモ稱シ、又探題職トモ稱ス、」 『古事類苑16 官位部 二』吉川弘文館 昭和四十三年 671P

「執事(しつじ)」・・・・・・執事は、時代によって職責も身分的にも差異があるものの、一般的には、朝廷における官庁の政務に携わる者の責任者を指す地位の者のことである。
「統領(とうりょう)」・・・・集団をまとめて治めること。
「争訟(そうしょう)」・・・・訴訟を起こして、それを通して争うこと。
「曲直(きょくちょく)」・・・曲がったこと(不正)や、まっすぐなこと。
「理非決断職(りひけつだんしょく)」・・・・道理にかなっているかどうかを決断する職の者のこと。

以上の史料に見られるように、「執権」は「将軍」を補佐する役目であり、様々な訴訟事項を決断する職務をこなす、政務上
では最重要ポストである。また、鎌倉幕府の執権についての記載事項を見ると、「建仁三年、源實朝将軍ノ職ヲ襲グニ及ビテ、外祖父北條時政、廣元ト相並ビテ政所別當タリ、時政の子義時職ヲ襲ギテヨリ北條氏ノ世襲スル所トナリ、宗家ノ嫡子タル者之ニ補ス、(後略)」『古事類苑16 官位部 二』 吉川弘文館 昭和四十三年 671P

「外祖(がいそ)」・・・・・・母方の祖父のこと。
「廣元(ひろもと)」・・・・・大江廣元のことで、廣元は京都御所に仕える下級官僚であったが、源頼朝の要請により、鎌倉に招かれて政務を執ることとなった。
「政所別當(まんどころべっとう)」・・・・鎌倉幕府の政務を司る中心部的部局の長官である。この史料に見られるように、鎌倉幕府において、執権の職に初めて着任した者は、大江廣元と北条時政の二人であったが、北条時政が勢力を拡大するにつれて、「執権」の地位を時政が独占するようになり、更に、「執権」職は、北条家の世襲として独占権を固持するようになってくるのである。

②「歴代執権」
初代執権・・・・北条時政(ときまさ)
建仁三年(1203)九月~元久二年(1205)閏七月
北条時方(時兼?)の長男か?母は伊豆掾伴為房の娘

二代執権・・・・北条義時(よしとき)
北条時政の次男、母は伊東入道の娘
元久二年(1205)閏七月~貞応三年(1224)六月

三代執権・・・・北条泰時(やすとき)
北条義時の長男、母は側室の阿波局
貞応三年(1224)六月~仁治三年(1242)六月

四代執権・・・・北条経時(つねとき)
北条泰時の長男の北条時氏(病死)の長男、母は松下禅尼
仁治三年(1242)六月~寛元四年(1246)三月

五代執権・・・・北条時頼(ときより)
北条時氏(病死)の次男、母は松下禅尼
寛元四年(1246)三月~康元元年(1256)十一月

六代執権・・・・北条長時(ながとき)
北条義時の三男である北条重時の三男、母は平基親の娘
康元元年(1256)十一月~文永元年(1264)七月

七代執権・・・・北条政村(まさむら)
北条義時の五男 母は伊賀の方
文永元年(1264)八月~文永五年(1268)三月

八代執権・・・・北条時宗(ときむね)
北条時頼の次男、母は葛西殿(北条重時の娘)
文永五年(1268)三月~弘安七年(1284)四月

九代執権・・・・北条貞時(さだとき)
北条時宗の長男、母は堀内殿
弘安七年(1284)四月~正安三年(1301)八月

十代執権・・・・北条師時(もろとき)
北条時頼の三男の北条宗政の長男、母は北条
政村の娘
正安三年(1301)八月~応長元年(1311)九月

十一代執権・・・北条宗宣(むねのぶ)
北条宣時の長男、母は北条時広の娘応長元年(1311)十月~応長二年(1312)五月

十二代執権・・・北条煕時(ひろとき)
北条時村の子の北条為時の長男、母は不明
応長二年(1312)六月~正和四年(1315)七月

十三代執権・・・北条基時(もととき)
北条一族の北条時兼の長男?、母は不明
正和四年(1315)七月~正和五年(1315)七月

十四代執権・・・北条高時(たかとき)
北条貞時の三男、母は安達泰宗の娘
正和五年(1315)七月~正中三年(1326)二月

十五代執権・・・北条貞顕(さだあき)
北条一族の北条顕時の五男、母は遠藤為俊の娘
正中三年(1326)三月十六日~同年同月二十六日※11日間のみの執権

十六代執権・・・北条守時(もりとき)
北条久時の長男、母は北条宗頼の娘
嘉暦元年(1326)四月~元弘三年(1333)五月

十七代執権・・・北条貞将(さだゆき)
北条一族の北条貞顕の次男、母は北条時村の娘
元弘三年(1333)五月二十二日※たった1日のみの執権

石井 進著『日本の歴史 7 鎌倉幕府』中公文庫 2005年

以上のように、「執権」職は歴代「北条」氏によって十七代にわたり継承されたものの、十七代目の執権、北条貞将にあっては、たった1日のみの「執権」である。「執権」による鎌倉幕府政権も、日本に蒙古が襲来して以後、急激にその権威が低下してしまい、ついには足利尊氏によって、鎌倉幕府は滅亡してしまうのである。

まとめ

今回の「歴史講座」では、鎌倉幕府の「征夷大将軍」と「執権」についてスポットをあててみたが、国政の権力を、朝廷から武士社会に奪いとり、「幕府」という政庁を打ち立てたものの、その中心人物たる「征夷大将軍」ですら、部下たる「御家人」の中に武力をもって政権を横取りしようとする者が現れ、「執権」による政治社会に独占されていくのである。

参考文献

次回予告

令和四年11月14日(月)午前9時30分~
令和四年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代
歴史講座のメインテーマ「鎌倉時代初期の動乱について」
次回のテーマ「尼将軍・北條政子」について

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