武装少女とステップ気候

9.海を知らぬ少女の前に麦わら帽の我は (2)

 ニガヨモギという名前の星が落ちて、アノニマは狼の毒(トリカブト)を瓶から井戸に垂らしました。そうして、薬草アルテミシアから抽出・蒸留された、『不在(アブサン)』という名前の酒を一口飲むと、コブクロの痛みはなんとなく治まってくるようでした。
「なんで、毒を?」
流れ星に祈りを捧げていた小さな母親が、向き直って尋ねました。夜の雪はしん、と青白く黙っていてアノニマは答えました。
「敵が追ってきている。しばらく奴らを引き付けてもおきたいが、一人ではとても敵わない数だ。だから、ここで足止めをする」
「雪だってこんなに降ってるのに」
「雪を融かすにも、薪が要るだろ? そうしたら、同じ事だ」
ふうん、と小さな母親は、死んだように眠っている赤ん坊を背負いながら、それから続けました。
「とっても頭がいいのね。かんしんしちゃうわ」
村は炎で焼かれ生き残りは彼女とその兄だけでした。その兄というのもほとんど顔を焼かれ、虫の息で、二人の足下でゼェゼェ言っていたのですが。アノニマは『不在』という名の酒瓶を小さな母親に差し出して、「飲むか?」と尋ねましたが、小さな母親は「お乳をやらなくちゃいけないから」などと言いたげに、首を横に振りました。アノニマは地面に寝転がる兄を一瞥すると、言いました。
「今夜は月蝕だな」
「そうね」
夕方の頃、欠けた月が空から覗いていました。雪から生えるイトスギは今では村人の墓標となって、暗闇の中に佇んでいました。
「西から来たのよ、あの飛行機。見上げていたから、よく見えたの」
「そうだったか」
「なんで、うちだけ狙って落としていったんだろう」
「向こうにも何か都合があったんだろう」
「そんなものなのかな。私たちにだって、つごうがあるのに」
そんなものだ、戦争なんて。とアノニマは答えました。背負う子供をあやすようにしながら、小さな母親がぽつりと言いました。
「私って、穢れてるのかな」
「どうして、そう思う」
「だって、みんなそう言ってたんだもの」
「お前の神の聖典(コーラン)を読め。そして自分で考えろ。宗教は救済の為の道具であって、暴力の口実ではなかったはずだ」
「子供相手に、ずいぶん、むずかしい事いうのね」
「私だって子供さ。みんな、そうなんだ」
そうね、と言って、小さな母親は赤ん坊の父親である兄を見おろしました。アノニマは、回転式拳銃を抜くと、グリップを彼女に向けて言いました。
「こいつを殺せば、お前も自由だ」
破壊者(アポローン)、アバドーン。それは孔雀(ルシファー)の意匠をしていました。銃は、すべからく壊すことしか能がない。少女は再び首を横に振りました。
「そうかしら。むしろ囚われ続けるだけだと思うけど」
どうせいつか死ぬわ。それは、ありのままで。全ては神の思し召し。と、少女は言って、裸足で、雪の道を歩いてゆきやがて消えてゆきました。お月さまだけが見ていました。
 それからアノニマは、アポロが自分に人を殺させたのと同じ事を、彼女に対して繰り返していると気付きました。彼女は、ただ誰かに、一緒に地獄に堕ちて欲しかっただけだったのです。
 アノニマは過去から迫るロバの足音の響きを聞いて、馬に飛び乗り走らせました。息は白く凍って、黒い空をしばらく漂いました。

「――なんで逃げるんだよ、アノニマ」
「なんで、追いかけてくるんだ、ヨーイチ!」
 二人は馬を走らせながら、口論みたいなものを続けていました。ヨーイチは笑って言いました。
「過去が無い奴に、理由なんてあるかよ」
「……お前が、……邪魔だからだッ」
いったん自由を経験すると、人はもう昔のような不自由には満足できなくなる。権利が拡大すればするほど、その範囲を狭めるのは難しくなる。ヒトは、生まれもって最大限に自由であるが、その範囲を文化や文明、そして社会により狭める事によって成長してきた種でもあり、いずれにしたって我々に、進んでみるより他に選択肢はないのです。それは進歩思想の功罪でもありました。
 ゆえに現代人は空を克服しました。バルルルル、という哨戒ヘリの音が近付いていました。サーチライトを照らして夜を攻略しており、アノニマは、「伏せろッ」と言って馬から飛び降りました。ヨーイチもそのようにしました。雪は冷たくて心臓が活発になってくるのが分かりました。しばらくすると、成果を得られなかったヘリはどこかに去ってゆきました。すこしだけ呼吸が落ち着きました。
 アノニマは静かに立ち上がると、ゆったりと、ヨーイチのほうに近付きました。それは彼がぴくりとも動かないので、心臓発作でも起こしたか、と言って、軽く蹴飛ばしました。
「ま、待てって。まだ死んでねぇって」
「なんで付いてきた」
ヨーイチはようやく立ち上がりながら、それから質問に答えました。
「お前が心配なんだよ」
「余計なお世話だ」
「ひでぇ顔。最近寝れてないんじゃねぇの」
「うるさい」
やれやれ、と言った面持ちで、ヨーイチは鞄から荷物を取り出してアノニマに渡しました。
「なんだ、これは」
「あの赤毛のねーちゃんから、お前にってさ」
アノニマは包みを開けました。中身は生理用ナプキンでした。ふん、日本製か……とアノニマは鼻で笑うようにしました。それを鞄にしまって彼女は言いました。
「ヨーイチ。言い方を変えよう。お前には一度助けられた恩がある。だから無駄死にしてほしくはない」
「俺はもう過去を失くした死人さ(アイム・オールレディ・ア・デッドメン)。成り行きでしか生きてないんだ」
「そうじゃない。お前は記憶を失くして生まれ変わって、二度目の人生を生きているだけだ。拾った命を無駄にするな」
『そうだよ。こいつは君の嫌いな、日本人じゃないか。僕と同類さ。何にも考えないで、日々をただ無為に生きているだけの奴隷。それにこいつが何の役に立つ?』
アポロがそう言いました。ヨーイチは呆けた顔をして、アノニマはそれが幻聴だという事を分かっていましたから、すこし顔をひきつらせただけでほとんど無視して、それから言いました。
「とにかく。これからは奴らが追ってくる。国境付近まで付かず離れず、引き付ける作戦だ。奴らを陽動作戦の駒にする。お前のお守りをする余裕はない」
「なるほどな。――でも、一緒にいくよ。おれはおれで、なんとかするしさ」
「…………勝手に、しやがれ」
アノニマは踵を返して馬に乗り、ヨーイチも慌ててロバに跨って付いてゆきました。
『甘いなぁ、ゾーイは。こいつもアポロかもしれないんだぜ。君だって奴の顔を知らないじゃないか。君は本当に奴を殺したという確信があるか? いつどこで、誰に裏切られるかも分からない。不確定要素を身近に置いてちゃ、そのうち寝首を掻かれるぜ』
「……お前は、お前だった。他の誰でも、私でもない。私はそれを最大限尊重しているつもりだ」
『うんうん、そうだね。君は彼の娘じゃないし、彼も、そしてまた僕も、君の父親なんかじゃない』
「……………………」
アノニマは幻聴に耳を貸さず沈黙して眼を瞑りました。

 サキーネ、君にこの狐のお面をあげよう。とアポロが言いました。
 君は自分が醜いのをずっと嫌っていたね。なに、こないだのワドドゥに受けた火傷の事を言っているんじゃない。もっと根深い話さ。ずっと以前から君は醜かった。そうだろう? 生きるのは、醜い事だ。僕らはそう定義してはならない。でも君はそう思っている。自分は穢れている、そして生きる価値のない人間だと。そんなことはない、ヒトはすべからく、生まれながらに、生きていていい。君は気にしているだろう。だったら、隠してしまえばいい。僕と同じだよ。美しくあろうとする、その心が何よりも健気で美しいのだ。化粧や整形が欺瞞だと思うなら、仮面を自分のものとしてしまえばいい。これが君の顔だ。これは僕の、とても大切なもののひとつだ。ほとんど唯一の家族の形見のひとつでね。だから、君にあげるんだよ。九〇年代、ユーゴスラヴィア。フォチャの虐殺……組織的に強姦されいずれ薬物(ドラッグ)中毒になって手首には傷痕が残って、身体の一部を全てを失くし、父親の分からない子供を堕ろしたりするような君たちも、生きていていいんだ。僕らの人生は、僕らの存在を、無の上に据えるところから始まるのだ。
 さあ立とう、平和の使者(サキーネ)。これが僕らの生存戦略だと。世界に巣食う寄生虫のように。内への抑圧の暴力でなく、外への発露の暴力へと。君にその役割を与えたい。君は、僕たちの部隊に平和をもたらしておくれ。同じように僕たちは世界に博愛(フィランソロピー)をもたらすのだ。無秩序な武器兵器に裏打ちされた愛と平和を。それは死への恐怖(テロル)という手段によって。僕らは愛されなかった選ばれなかった望まれなかった子供たち、なのだから。

「……お前の話は、私にとってどうでもいい。不幸な身の上を語るのは、さぞ気持ちのいい事だろうな?」
 アノニマは自動式拳銃『武装した人』を、涙ぐんで組み伏せられているイスラム過激派の男に向けていました。
「俺には子供も居る、家族も居る! でもアメリカが来て何もかも変わっちまった。おれもその頃は餓鬼だった。少年兵だったんだ! 他に生き方を知らねぇ。お前もそうだろうが! イラクじゃ少数派だった。そんな俺にだって、守るものがあったんだ!」
「みんなが少数派(マイノリティ)なのだ。みんなそれぞれがそれぞれに不幸なのだ。何故か? それは人が自分の脳味噌を介さずに世界を認識し言葉を発信する事が、――なにかを共有する事が、不可能だからだ」
「訳の分からねぇ……」
アノニマは男の指を折りました。男は叫び声を飲み込みました。
「だから、答えろ。指は十本あるんだぞ? 関節ならもっとだ」
「……! 駄目だ、……仲間は、売れねぇ……!」
「殊勝な事だ。お前の神に委ねるとしよう」
アノニマはそのまま筋電義手で首を絞めて気絶させました。彼女が聞き出したかったのは、なぜアノニマの位置を把握しているか、という事でした。もともと、離れた位置から挑発しつつ、国境線まで誘導するつもりで、迂廻路の山の稜線を経由しながら一撃離脱を繰り返していましたが、それでも理由が分からないほど正確に彼女に攻撃してくるのでした。
(これでは、安全に眠る余裕もないな……)
そう思いながらアノニマは、彼らの装備から使えそうなものを漁りました。ソ連製のシュパーギン短機関銃に、ドラム弾倉をいくつか。それから跳躍地雷などをいくつか、それに一つ目(キュクロプス)の赤外線(サーマル)ゴーグル。そのバッテリーも確保しました。折り畳み銃剣の付いたユーゴスラヴィア製のシモノフ騎兵銃を馬の鞍に差して、手綱に手をかけると、――ざく、と存在しないはずの足音が背後から聞こえました。
 振り返りながらアノニマは、腰に差したレバーアクション散弾銃『雌ロバの片脚(エンプーサ)』を抜き、その相手に向けました。彼女は、狐のお面を被って、右手にはチェコ製『スコーピオン』機関拳銃、左手にはダマスクス鋼で出来た忍者刀を、逆手に握っていました。
――サキーネ。とアノニマは思い出していました。かつてアポロの地下墳墓(カタコンベ)で殺したはず。その時に奪った刀も、いま私の背中に差されている。何故? そう思っていると、サキーネが答えました。
「刀は本来、打刀と脇差とで一対となる。つまり姉妹のようなものさ、ゾーイ。私と、お前という存在は」
「――その名前で、私を呼ぶな」
 サキーネが先に動きました。アノニマは左手で前床を抑えながら『エンプーサ』を連射しました。赤いプラスチックの薬莢が、カラコロと散乱しました。サキーネは銃口の動きを読んでいるように、散弾を避けながら少しずつ加速して近付いてきました。アノニマが弾倉を撃ち切ると、サキーネが跳び上がって斬りつけてくるので、『エンプーサ』をくるりと翻して前床を握り殴り付けました。
 サキーネは血の混じった唾を雪の上に吐きながら言いました。
「お前は私のアポロを殺した。生きる意味を与えてくれた、彼を。許さない。――そして、それが私の役割でもある」
「復讐と制裁とが、か? お前らしい生き方だな、平和(サキーネ)」
「暴力のない平和はない。管理されない平和はない。人間は、獰猛(サヴェジ)で過酷な自然から自らを疎外することで初めて、安全や安心を手にする事ができる」
「人はそうやって自分の位置を確保する。だがお前の不幸は他人を殴る言い訳にはならない」
それはお前も同じ事だろう? とアノニマは思いましたが無視しました。ここでは議論よりも生存が優先されるからです。
 サキーネが機関拳銃を乱射して、アノニマはイトスギに隠れました。雪が銃弾に踊ってぱらぱらと落ちました。手榴弾を投げると、サキーネが信管を刀で切り裂いて無力化しました。アノニマは呼吸を整えて、ざくざくという足音が近付いてくるのを待ちました。静かに忍者刀を抜きました。サキーネが飛びかかると、アノニマは屈んで足払いをして、一瞬体勢が崩れたところを刀で突きました。
 あっという間でした。サキーネはごろごろと雪を桜色に染めながら崖を落ちてゆき、死体は確認できませんでした。それは幻覚だったのか、それとも前に殺したと思ったのが幻覚だったのか。
 信念は無限に後退して背中が壁に付く事はない。あるいは循環(ループ)しているだけなのかもしれませんが。ゆえに過去や矛盾に際限はなく、未来や正当性にその根拠もない。
 アノニマは、弓を、引き絞っていました。桃の木を芯材に狼犬の骨肉を貼り合わせた、複合弓。その葦の矢の先端には火が灯っていて、張力が解放して放たれると、火矢は、ゆるりと軌跡を描いて軍集団の弾薬箱に吸い込まれてゆきました。飛んでいる矢は瞬間から見れば止まっており、それらは連続しているからアニメーションして時間は動いているように思える。矛盾を孕んだ一本の矢は矛盾を持っているから運動のベクトルが存在し、肉体の運動の軌跡とは、ゆえに循環・円環(エンサクロペヂ)から脱する止揚のエネルギーが持続する。
 その軌跡をなぞるように矢を次々と放って、シュパーギン短機関銃を適当に撃って自分の位置を知らしめると、馬に乗って闇の中に溶けてゆきました。

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