武装少女とステップ気候

9.海を知らぬ少女の前に麦わら帽の我は (4)

 色を失くした世界で、少女は煙の昇る拳銃を構えていました。
 アノニマと呼ばれた少女は、瞳孔がきゅうう、とピントを合わせるのが分かって、倒れた男を見やりました。それはヨーイチ・ハルノ=ホセアと呼んでいた男の肉体でした。そしてそれはぴくりとも動かず、仰向けになって、間違いなく心臓を貫いた銃弾の風穴の開いた、赤茶けたメキシカン・ポンチョを、吹雪にいたずらに揺らしているのでした。
 少女は銃口を外しました。黒色火薬でも無いのに煙が風になびいて消えました。火薬は燃焼し高い温度を持ち、水分は湯気となって、白いけむりと立ち現われてそして霧散するのでした。
 それが彼女には信じられませんでした。彼を撃ってしまったという事実、そして彼が再び起き上がることはないのだという事実。だけど右腕は自動式拳銃『戦争に備えよ(パラベラム・ピストル)』の重みがあって、また反動(リコイル)を受けとめた骨の痺れも、まだ残っていました。
「……ヨーイチ……?」
アノニマはぽつりと呟きました。返事はありませんでした。アノニマは駆け寄ろうとしました。でも山の向こうからバルバルバルとローター音が響いてきて――それは鯨でした。聞きかじりの『焦土作戦』も功を為さないのは、その現代の鯱(カサートカ)こそが機械化歩兵や輸送トラックをも超える速度で兵站を、伝達を担い、基盤構造(インフラストラクチャー)として空を支配しているからでした。
 のっそりと姿を現したロシア製民間ヘリコプターKa‐62『カサートカ』は、こちらに機首を向けると、機銃を乱射しながら追いかけてきました。アノニマは反撃する間も無く葦毛の馬は怯え、制御不能となって駆け出しました。
 その先は崖でした。
 自由落下運動はもっともシンプルかつ万物に平等な運動であり、アノニマは、空中で落馬しながら天を仰いで筋電義手を伸ばしました。そして誰もその手を取ってくれないのでした。首飾りから孔雀の羽根が抜け落ちて、空を舞いました。それを掴もうとした義手はギシリと虚空を握りしめました。曇った空からは雪が降り注いでおり、それと同じ速度で少女は落下してゆき、やがて、深き河にどぼんと音を立て、空気を包み込んだ泡沫(うたかた)が周りを支配しました。
 水の中は冷たくて、濁っており、アノニマは銃の重さに沈んでゆきました――そうでなくとも、まだ海を知らない彼女は泳ぎ方もまた知る由もないのでした。肺から吐かれた空気は泡となって水面へと浮かんでゆき、空気を絶たれた肉体はどんどん苦しくなってきて、慌てた馬鹿(ジャック)はそのまま溺れて死にました。犬掻きならぬ馬掻きで泳いでゆく葦毛の馬の、手綱を取ろうと手を伸ばしましたが、義手は重たくて(あるいは水で短絡(ショート)して)微動だにしませんでした。
 捨てなくては。とアノニマは思いました。何もかも。私の過去も、未練も、希望も、――希望も? 凍える水にトルコ弓の狼の腱や膠は溶け出して、次第に崩れて消えてゆきました。『雌ロバの片脚(エンプーサ)』と名付けた腰の散弾銃。その片脚は青銅で出来ており、死の女神(ヘカテー)の冥界まで沈んでゆきました。『武装した人(ジャンダルム)』と呼んだ自動拳銃、手榴弾、弾倉、弾薬……それらをホルスターやベルトごと脱ぎ捨てるようにして、それから、役立たずの筋電義手も引き抜いて河の底に沈めました。それでも身体は浮きませんでした。体内で酸素はどんどん消費されてゆき、アノニマは、このまま誰にも気付かれないまま死んでゆくのかな、と思いました。凍える河の底で。息苦しくなって。死体はやがて分解され自然へ、――母なる海へ。流れてゆくのだろうかと。
 もう一つ影が飛び込んできました。クラムボンはかぷかぷ笑って、それは水をかいて、深く深く潜った腕を失くした少女のもとに辿り着きました。それは肺の膨らみいっぱいに空気(プネウマ)を溜めており、溺れた少女に口付けすると、空気を送り込み彼女を蘇生しました。それから彼は少女を抱きかかえると、水面に向けて再び水をかき出しました。水面は鏡でした。そして全ての境界でもありました。
 二人は水面から飛び出して、一気に空気を吸い込みました。アノニマは水を吐きながら、冬の空気の冷たさにぶるぶる震えて、幽霊を見るような顔で言いました。
「ヨーイチ! ……ヨーイチ……なんで、なんで生きてる」
「げほっ、げほっ……言ったろ? 俺はもう過去を失くした死人だ、って……溺れ死んで土左衛門(ジョン・ドゥ)にならなくて済んだな。お前の場合はジェーン・ドゥか?」
何を馬鹿な事を、と言って、アノニマはヨーイチに抱きかかえられながら川岸まで連れてゆかれました。空ではヘリコプターがサーチライトで辺りを捜索していました。でも河ばかり見ていてこちらに気付く様子はなさそうでした。
「腹にガスがでも溜まってたのか分かんねぇけど、ずいぶん軽かったぜ、お前」
「……うるさい……」
アノニマは目をそらしました。ようやく陸上に上がると、ヨーイチは髪から水を垂らしながらニカリと笑って、ポンチョをたくしあげながら言いました。
「こいつが、守ってくれたんだよ」
「あ……」
それは彼が長年愛用してきた、そして少女の放った銃弾を受け止めたカメラでした。

「――あちゃあ。壊れっちまったみたいだな」
 パソコンの画面を見ながら、クローディアが言いました。何の話です? とギルバートが聞きました。淹れたてのコーヒーのカップを彼女の傍に置いてやりながら。
「義手の発信器。それで奴を追跡して、情報を流して追わせてたんだが……さてどうしたものか……」
「発信器? そんなもん入れてたんですか」
「サマンサには内緒でな。あいつは純朴すぎるところがあるからな」
クローディアは珍しく困り顔になって、深層ウェブ経由でメールを送りました。コーヒーを一口飲むうちに、返事はすぐに、そして手短にやってきました。
『大丈夫。もう一つあるから。彼女のハートのすぐ傍に 大鴉より』
それを読むと、クローディアは笑って言いました。
「あはは。ペニナのやつ、抜かりがないな。流石私の惚れた女だ」
そう言ってクローディアは立ち上がり、彼女の装備を引っ掴むと、元気よく笑って言いました。
「すぐに向かわなくちゃな。軍曹、――いや、ギルバート。ここは、君に任せたぞ。曹長とも仲良くしてやってくれ」
ギルバートはぽかんとして訊きました。。
「任せた、って……どこに行くんです?」
「イスラエルだよ。あいつは辿り着くだろう。そしたら、我々の役に立ってもらわなきゃあ、な」
 クローディアは半ばウキウキして身支度を始めました。……彼女のこころ(ハート)のすぐ傍に…………

 アノニマの胸ではヨーイチから貰った琥珀の首飾りが揺れていました。その中にはハートの形をしたオリーヴの葉が閉じ込められており、雪のなか風が吹いても、その仄かな温かみは、決して失われる事がないのでした。
「……カメラを……壊してしまった」
アノニマが沈鬱な表情で言いました。それが彼女なりの申し訳なさを示す表現だったのかもしれません。ヨーイチは笑って、
「気にすんなって。友だち、だろ?」
フィルムはたぶん、無事さ。それに予備もあるし。また買えばいい。
そうヨーイチが言って、アノニマは目をぱちくりさせて訊きました。
「ヨーイチ、いま、なんて言った」
「は? だから、また買えばいいって」
アノニマは半ば呆れながら「そうじゃない」と言うと、
「ヨーイチ、その眼を閉じろ」
「は? なんでだよ」
「いいから」
「むむむ?」
ヨーイチがそうやって目を閉じると、未来の無い女は過去の無い男に軽く口付け(アプリボワゼ)しました。
「……お前には、お前の戦い方がある……私には、私の……私たちには、それぞれの生存戦略がある……」
ヨーイチはぱちくり目をやっていましたが、「あ、そうだ」と思い出したように、鞄から一つの能動義手を取り出しました。それはハーネスとワイヤーとで稼働する、手の部分が金具のようになったものでした。
「レッドから一応貰ってたんだよ。アレが壊れたときに、何もないよりマシだろうって」
「……義理深い女だ」
アノニマはその鉤爪みたいな義手を取り付けました。身体を動かすと、それに合わせて鉤爪は開閉するのでした。幻肢痛は消えていました。鏡映しを繰り返し見た効果(ミラーセラピー)でしょう。ヨーイチはへらへら笑って言いました。
「ハ、まるで、名無し(ネモ)船長だな」
「……それを言うならフックだろ、ばか……」
アノニマはそう言って、背負っていたシモノフ騎兵銃を杖代わりにして、やっとこさ立ち上がりました。ヨーイチが手助けしようとすると、いい、自分で歩ける。と言って突っぱねました。
(近すぎると、苦しい
 遠すぎると、淋しい
 距離なんて、今まで気にしたことなんか、なかったのに)
アノニマは思いました。それからひとつ、くしゃみをしました。
「ちゃんと乾かしなさい、アノニマ。風邪を引くわよ」
「――お母さんか、お前は……」
「また焚火しようぜ。火はなんたって、人類の最初の発明品だ」
「……ああ。また奴らが来ても、今なら追い返せるはずだ」
アノニマは努めて視線をそらすようにしました。それは彼女なりの照れ隠しだったのかもしれません。そして思いました。
(……ひどくうらやましい
 きらいだ。すきだ
 しねばいい。いきろ……)
我々は矛盾を伴うから共に歩いてゆける。相反する感情があるから、他人(ひと)を愛する事が出来る。人間には様々な面があるから、ヒトは三次元の立体である。それらを無視できない。それぞれの生き方を、簡単には否定できない。アノニマは降り積もる雪に足跡を残しながら。そこに生きた証を残すように。
(人生は、白紙の原稿用紙を、自分で埋めていい。他の誰も、その空白を埋めてはくれないのだから)
 二人は寄り添って歩いていました。西の暗い空に向かいながら。どちらが先で、どちらが付いていくなど、関係ありませんでした。ふと彼が笑うと、少女もつられて微笑んで、澄んだ空気はしんとして音もなく、辺り一帯は静寂でした。二人は背後から迫る明かりに気付いて、一緒になって振り返り東の空を見上げました。
 それは朝焼けでした。

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