武装少女とステップ気候

8.ぼくら、二十一世紀の子供たち (2)

 河を、渡っていました。脛までが水に浸かり、そしてそこはいちめんの葦原でした。少女は右手に回転式拳銃『ピースメイカー』を、左手には三日月型のカランビット・ナイフを構えながら、ワニのような爬虫類がそこらじゅうを這っているのを警戒していました。
 対岸に、馬に乗った雪のような女性が見えました。少女は拳銃を構えました。と、手からふわりとその拳銃が逃げ出して、それはその女性の手に収まりました。少女はすっかり非武装(アンアームド)になりました。
 それはユニコーンでした。ユニコーンはその獰猛な性格を、一キュビットの角を去勢されたみたいに、怯えきっていました。それは騎手への恐怖から来るものでした。女性が言いました。
「――あらあら。また会ったわね、メディア王国の末裔さん」
「お前は……」
女性がクスクスと笑って言いました。
「私? 私は暗い月。キスキル・リラ、キ・シキル・リル・ラ・ケ。風の女王(ニンリル)でもいいわ。名前なんてたくさんあるの。例えば愛(エハヴァ)だとか、平和(シャローム)だとか……いちばん最近だと、――」
「名前はどうでもいい。ここはどこだ」
少女が遮って言うと、女性は口角を上げて答えました。
「もちろん、その通り。ここは無名都市(ロバ・エル・カリイエ)。魂の旅の間の、肉体の保管場所……イラクのクウェート、その砂漠の中に存在する、存在しない場所。……あなたも、イラク人だったわよね?」
「私は、クルドだ」
そうね、と女性が答えました。彼女は四六億年の眼差しをしながら、しばらく『ピースメイカー』の銃身を撫ぜていましたが、ふとそれを丸めると、ぷかぷかと浮かぶ水晶玉に変質させ、それを覗き込みながら(あるいは覗き込ませながら)、呟き始めました。

 けもの(ゾーイ)という名前の少女の話をしましょう。ゾーイはイラクのハラブジャに生を受け、その出産の代わりに母親の海(デリヤ)が死んだ事を、父親の荒野を彷徨う者(イスマーイール)によく詰られておりました。それでもゾーイが平気だったのは、優しいお姉さんが居たからです。お姉さんは、名前を言葉(カリマ)、といいました。
 ゾーイは、カリマの吹くハーモニカの音に合わせて唄うのが好きでした。アラビヤの唄から、新大陸の流行歌まで。でも楽器は悪魔の礼拝時刻告知係(ムアッズィン)だとして、保守的な周りからは嫌われていました。それでも二人はへいちゃらでした。それは単に楽しかったからです。
 ゾーイは色々な言葉を分かっていたので、よく英語のテレビを族長に翻訳してあげたりしました。子供たちは埋められた地雷を売って生計を立てており、あちこちに手足を失くした子どもたちが居て、また親に決められた結婚を、拒絶する意味で焼身自殺を図る女性たちに溢れ、それは幸せな日々を過ごしていました。
(テレビの中の映像が、姉妹二人を映しました。それは歪められた春の日の午後でした)
「ゾーイ、あなたはガリラヤ海を知っている?」
「ガリラヤ? うみ?」
「海を知らない? まぁ、私も行った事ないんだけど……それは北から南へ流れ、ヨルダン川を通り、そして死海に流れる。ガリラヤの海は、彼の布教活動の拠点だったの」
「彼?」
空色のお姉さんの瞳が輝きました。
「救世主(キリスト)よ。偉大なる預言者、そして、神の子イエス……」
 ゾーイは知っていました。お姉さんのカリマが、恋をしていることを。でも村では異教徒と結ばれることは禁じられていました。一族の血を絶やさないためです。だからゾーイは黙っていました。
 その日は六月なのに小雨が降っていました。広場の中心で、お姉さんは人々の輪の和の中心となって、引きずり回されながら地面に寝転んで、蹴られ嬲られ石を投げられていました。ゾーイは、助けたい、とだけ思いました。でも父親も知らない母親も、それから村中の人たちも一丸となって、お姉さんを蹴ったりぶったり石を投げたりしていました。ゾーイは石を持たされました。投げろ、とも言われました。それは試練でした。幼いゾーイは、戸惑いながら、お姉さんに目掛けて石を放りました。空色の瞳がこちらを覗き込みました。でもそれは投げた石によってぶちゅりと潰されて、すぐに色を失くしました。灰色の地面には赤い血が流れていました。雨上がりの空には太陽が輝いて、虹が顔を出していました。誰かが、虹は神のメッセージだと言いました。ゾーイは、そんな神様なんていらないと思いました。
 人々が言葉(カリマ)を殺しました。泣き女は仕事の為に泣いていましたが、それはゾーイにはどうでもいいことでした。ところでゾーイには腹違いの弟が居ました。彼は名前を月(カマル)、といいました。カマルはそれは小さくて可愛い甘えん坊さんで、彼を殺したのもゾーイでした。
 お姉さんを殺してから何日か何ヶ月か何年かそれとも永遠かが経って、一四三〇年、第六の月の二十二日、あるいは西暦二〇〇九年六月十六日、ゾーイの八歳の誕生日の日、村は虹色の蝶の黒旗の部隊に襲撃されました。そのリーダーは、名前をアポロ、といいました。男はすべからく殺され、家は焼き払われ、女子供は連れられて、ゾーイもその中に居りました。父親のイスマーイールは族長の下で働いていたので、権力者でもありました。だから残されていました。アポロは、娘のゾーイを連れてくると、その手にアメリカ製単発式拳銃『解放者(リベレーター)』を握らせて、言いました。
「君が決めていい。それが君の自由であり、権利(ライト)でもある。ゆえに、君は村を焼かれた復讐のために、僕を殺してもいい。でも僕を殺したら僕の部隊が君を殺すよ。君はそれに太刀打ちできるかい? 君にそんな力があるかい? ――でも君の家族を殺すなら、皆殺しでなくてはならない。それが、僕たちの呼ぶ家出、というものだ」
家出でも出家でもいいのですが、ともかくゾーイは引き金を絞りました。もう母親も死なせているし、姉を殺したのだから、何もかも一緒だと思ったからでした。――いい子だ、とアポロは頭を撫ぜてくれました。それから『リベレーター』ピストルに再装填すると、今度は知らない母親を撃ちました。音は、空にこだましてきっと神の下に届きました。するとゾーイは、義弟のカマルに銃口を向けました。彼は泣きませんでした。そもそも何が起こっているのかも、知らないようでした。
 ぶるぶると拳銃を握る手が震えました。
 無垢な瞳が彼女を覗き込みました。
 それは殺した姉と同じ目をしていました。
 ゾーイは引き金を絞りました。いい子だ、とアポロは再びゾーイの頭を撫ぜました。ゾーイは彼の部隊に引き取られることになりました。
 そこでは、ゾーイは皆から蓮葉女(アノニマ)と呼ばれていました。アノニマは八歳の女の子だったので、よく皆から慰み者にされていました。よく、暗がりの室へ連れ込まれる自分のことを眺めていました。反抗する気力も失せていました。(おい、お前! ビタミンCを失っているぞ!)何もかも破れかぶれになったある日ゾーイは幻想(ファンタジー)に膨らむ男の陰茎(ファルス)を噛んでやりました。するとぶたれました。騒ぎが大きくなってきて、ゾーイは男から拳銃を向けられました。男と、男根と、拳銃。どれも同じだと思って、ゾーイは笑ってしまいました。すると男は激昂した様子で、洞穴の中に銃声が響きました。
「――僕は、弱い者をいじめる奴は嫌いさ」
アポロはそう言って、続けて彼女を犯していた男たちを射殺すると、彼女をいたく気に入って、キスをしてやりました。それはゾーイの初めてのキスでした。アポロは、再確認の意味で、皆に言いました。
「いいかい、君たちはここに居ていい。それを守る単純な一つだけのルール。この部隊の中では、暴力は禁止だ。愛し合うのはいい、だけど一方的な愛は単なる自己満足の暴力でしかない。ナザレ派はそういうところに無自覚なんだ。その二の舞になってはならない」
 アポロは、いつもゾーイを傍に置いていました。よく自分の話も聞かせてやりました。ゾーイも無理やり犯される事はなくなって、ほどほどに安心できたので、満更でもありませんでした。
「僕は単純に『ここに居ていい』って言ったんだ。そしたら皆ついてきた。みんな、居場所が欲しいんだ」
「僕の誕生日は一九七二年十二月七日。ちょうどその日に、アポロ十七号が月に向けて空へと飛び立ったんだ。だから、名前がアポロ」
「ぼくは枯葉剤を浴びたベトナム女と、核実験演習で被曝した兵隊(アトミック・ソルジャー)の下に生まれた。人種は混ぜこぜで、肌は黄色いのか、白いのか、黒いのかすら僕にも分からない。どちらかと言えば蒼褪めている。内臓がないから、こうやって、チューブ越しに直接栄養を血管に送り込んで生き永らえるしかないんだ。僕も、後継者を考えないといけない――君のような、ね。ゾーイ」
 ゾーイは慰み者の蓮葉女(アノニマ)としてではなく、兵士としての訓練を受けました。部隊には、アフガン紛争に参加したロシアの特殊部隊、スペツナズの教官がおりました。訓練の内容は、銃口を安定させながら移動する技術、絶え間なく地面を転がって相手の照準を定まらなくする技術、あらゆる体勢から射撃をするシステム、格闘術システマ、東南アジアのナイフ術、剣術、弓術……そういった基礎・応用技術から、精神面まで。怒号を受けながら、足元に銃弾を撃たれながら。互いを防弾衣越しに実弾で撃ち合う訓練。頭のすぐ横を実弾が掠める射撃訓練。先に火の付いた棒を持ちながらする組み手。それから、実戦経験。周りの子供たちが逃げ出そうとして殺されたりする中、ゾーイは、その人殺しの才能を十二分に発揮して、九才になるまでに、身長もぐんと伸びて、一部隊のリーダーになるまでになりました。――むしろ自らに強制して、大人になるのを早めたといった方が、正しいのでしょうが。
 でもある日、ふと気付きました。私は、結局アポロに飼われているだけだ。彼の言った『私の自由』は、勝ち取れていない。家族の子飼いの羊(スケープゴート)だった私と、今の私。そこに何の違いがある。
 だからある日、米軍部隊の輸送トラックを襲撃する任務。そのとき、ゾーイは子供兵士の部隊を、皆殺しにしました。彼らは従順でした。そうやって親の、隊長の、権力者に従う事が、生きていく為の術だったからです。ゾーイはそんな彼らを使うのも、逃げ出して彼らに殺されるのも、何もかも嫌気が差したのでした。
 だから彼らを『解放』してやりました。実際ゾーイはそれ以外の手段を知らなかったのです。死が救いである。他に逃げ道はない、一度支配された、共依存の関係から脱するには、生まれ変わってやり直すほかにない。私たちは、普通の人たちのようには、生きてゆけない。そのように育てられたから。そのように造られたから。
 ゾーイは、米軍の補給部隊長から、回転式拳銃『平和製造機(ピースメイカー)』を受け取りました。助けてくれたお礼、という事でしたが、ゾーイにとってはどうでもいいことでした。それは全部彼女のエゴで行動した結果でしたから。平和製造機。なんとも皮肉な名前。平和はやはり死でしかないのです。ゾーイは、誰も居なくなった砂漠の荒野、夕陽が西に沈むころ、六発の回転式弾倉に一発だけ弾丸を装填しました。六分の一の運だめし、ロシアン・ルーレット。――なんと甘えた根性でしょう! 他人は容赦なく殺す癖に、ゾーイは、彼女は、自分を殺すときには、それを命運に任せようというのです!
 ゾーイは引き金を絞りました。だけど弾丸は放たれませんでした。だから彼女は、今こうして生きている。名前の無い亡霊(アノニマ・プネウマ)は、殺した姉の面影を追いかけて、彼女の恋い焦がれた、死海に繋がるガリラヤの海(ダリヤ)に向けて、亡くした月(カマル)と一緒に、イスマーイールのように砂漠を彷徨うのでした。……

「……と、いうのは、あなたの作りだした自分勝手な妄想」
 雪のような魔女が言いました。それは灰色の猫の形をしていました。それはニヤニヤ笑いながら、悪魔(リリス)は続けて言いました。
 記憶は、簡単に造り変えることが出来るの。自分の中でね。それが夢の機能。私たちは、過去を簡単に歪めて、再解釈・脱構築する事ができる。別の文脈や意味にしてしまえる。それは宗教だってそうなのよ。言葉なんてたかが言葉、自分の気持ちいいように何もかも合わせてしまう事が出来る。――続きを話しましょうか?
 結論から言えば、あなたがアポロを作ったのよ。自分の中でね。あなたが、アポロ自身だったの。不思議だと思わなかった? 虹色の蝶の黒旗がいつもあなたを追いかけて来るんだもの。当然よね、ホントはあなたがリーダーなんだから。あなたは村で部隊を蜂起、いえ蹶起した。村に虐げられてきた、女子供を集めてね。古い慣習に従い続ける村を、滅ぼそうと考えた。でもそれを、あなた自身の行いではなく、実在しない『アポロ・ヒムカイ』という存在に罪をなすりつけた。可愛い自分自身を守るために。でも規模が大きくなってきて、あなたは自分の罪を、架空の存在に償わせる事にも矛盾を感じ始めた。だから、部隊を脱け出した。遁走。自らの行いから逃げるために。自分は悪くない、と詭弁を言い続けるために。
――辻褄が合わない? そんなもの、あとからどうにだってなるのよ。あなたが今までそうしてきたようにね。あなたが自分をどう思っているかは、問題ではないの。あなたはあなたの周りの人間たちの観測において存在するの。あなたという存在は、そういった観測の集合体でしかないの。実存ではなく。虚構の。存在。
 あなたは引き金を引くと、たしかに弾は出なかった。あなたはそれに満足しなかった。死んでしまいたかったから。だからもう一度、また一度、と引き金を絞り続け、――遂に! 六回目、回転式弾倉に一発だけ込められた弾薬が発火し、弾丸が回転しながら銃身を通り抜け、ちいさなゾーイの頭を吹き飛ばしました。ああ、可哀想なゾーイ! イシュメルの娘たる雌狼のいのち(ゾーイ・ビント=イスマーイール・アル=アシナ)はそこで死に、代わりに、亡霊の娘たるクルド族の名無し(アノニマ・ビント=プネウマ・アル=クルディスターニ)が生まれました。
――そう、あなたは亡霊なの。魂のみになって、砂の海を彷徨う亡霊。あなたの死体は、今でもイラクの砂漠の中で、きっと骨になって朽ちている。と、いうよりも、今ここにある。見てみて、
(そう言うと、魔女は死体の保管場所――無名都市(ロバ・エル・カリイエ)の、棺のひとつを見せてやりました。そこには九相図のように朽ち果てる自分の死体が確かに保存されているのでした)
納得した? そうでもない? だけどあなたは過ちを繰り返し続けている。ただの狼犬を自分の殺した義弟に重ね、あまつさえ月(カマル)と呼んで依存している。あなたは海(ダリヤ)なんかどうだっていい、けれどそれは姉が見たかった景色だったからと、無理に『生きる意味(レゾンデートル)』を造り出している。それは自分が死にたくないから。消えてしまいたくないから。――結局自分が、いちばん可愛いから。自分一人では、生きていけないと知っているから。何かに縋らないと、依存しないと、二本の脚ですら立って歩く事が、出来ないから。たとえそれが他人を傷付ける銃であろうとも。最低の人間。最悪の外れ者(アウトサイダー)。
(すると少女は黙っておりました。徒手の拳を強く握り締め、その爪は自身に突き刺さるようでした)
――それでも。
(と、浅黒い肌の少女は言いました。息を長く吐いたようでした。それから気息(プネウマ)を吸いました。)
――それでも、月(カマル)が居なければ、海(デリヤ)は満ちない。私たちにだって、幸福になろうとする権利はあるはずだ。たとえそれが徒労でも。砂漠の上に、実を結ばなくとも。水が多かろうと、少なかろうと。現実が私たちをいくら苦しめようと。過去が、私を追いかけてくるから。私はアポロを――架空の『敵』を。否定する事で自由になれる。私はあいつの――そして私の、死が、必要なのだ。私が生きるために。奪われた私の未来を。取り返すために。差し引きゼロになるだけの話だ。使えるものは、なんだって使ってきた。論理武装でも、詭弁でも。今までも、そしてこれからも。これは、私の清算(リデンプション)だ。過去ではなく未来のために。――そうだろう、……――?


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