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写真は時間を切り取るだけでなく、時間を失った実感を得ることにもなる

これはタイトルでぼくは自分がなにを言ってるのかわからないな。

まぁいいや。続けます。

いま、ぼくたちの手元にはiPhoneやAndoroid端末がある。いわゆるスマートフォンってやつなんだけど、コンパクトデジタルカメラと同等程度の画素数を誇るカメラを標準装備してます。

ものすごい性能だなぁ、と思っているのはぼくだけではないでしょうけど、写真を撮ろうと思ったら、背景部分がぼやけたり、接写でピントを合わせてくれたり…

生意気にカメラマン気分を味わいながら、被写体の構図なんかも一応は気にしながら撮影しちゃうわけですが、見事なまでに願望を満たしてくれるわけです。

とりわけ、我が家のお子さんたちと生活をするようになってからはカメラを起動して「人」を撮影する機会が増えたように思ってます。

それまでのぼくは「誰を撮る」のではなく「どこを撮る」のかを気にしていて、その割合として多くを占めたのは「雲」。

同じ時間帯の、同じ空の、同じ位置から撮影をしたところで、雲は2度と同じ姿を見せてはくれなくて、その瞬間を逃したら、その「すごいなぁ」なんて思った感情を振り返る機会も失っちゃう。

再現性のない瞬間を味わうって意味では体験価値ともいえるのかなぁ、とは思いつつも、それを何枚撮ったところで、いくつもの空を撮ったところで、満たされるものではなかったんですよね。

「なんでかなぁ」と考えてみると、その綺麗な「空」を撮影したときのぼくがなにをしていたのかがわからないからでした。

写真って、その瞬間、その場所、その時間を切り取ることができる、ものすごいもの。

ものすごいものなんだけど、その切り取った瞬間の感情まで含めて撮影していないと、なんの味気もない一枚の画像データでしかなくなってしまうんです。

ここ、ぼくはものすごく大切なのかなって思ったのは、楽しいとか嬉しいとか悲しいとか寂しいとかって感情の起伏が画像の中に含まれてたり、その画像を撮った側や、その画像を見た人側に刺激が入るようなものでないと、ただただ「撮っただけ」になっちゃいます。

それを気づけたのは、結局、我が家のお子さんたちと生活を始めて、自分はもちろんなんだけど、妻はそうだし、それ以外の家族や、親友・友人たちと共有したところからでした。

彼らの写真を撮るぼく自身が感情を沸き立たせていたのもあるし、感動をしたことも、喜んだことも、撮る写真たちには内包されていて、見返すたびに、または別の角度から撮った妻の写真を見るたびに、うれしさやたのしさがどんどん湧いてきます。

だから、ぼくや妻が撮った子どもたちの写真だけでなく、まったく知らないカメラマンの人たちが撮影した魂が震えるような写真って本当にすごいんだな、と痛感できるようになりました。

写真を見て感情を引き出される、引き出してくれるってのはどれだけ感情を込めながらシャッターを押したんだろう…って思うんですよ。

そして、唯一、そんな人たちと共有できているだろうことは、その時間とか経験みたいなものは、もう帰ってこないんだって実感を得ていることではないかなぁ。

まぁ、それが共有できているっていえるのかどうかはわかりませんが。

けど、いいもんですよね。写真。
これからも下手くそなりに切り取っていこう。


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