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えんどう(遠藤涼介)の自己紹介note「個人事業の開始から2021年現在まで編」

どうも、えんどうです。

思いつきで自己紹介を書きはじめたのですが、すでに後悔している上に書いたところで誰得なのかと思えてしまっています。

(以下、前回記事「教育機関の卒業まで編」)

今回は職務経歴編。

これまでの職歴をLinkedinで書き留めているので見返したのですが、職務経歴の中で記載している文言を文字数に直してみたら、それだけで2,400文字を超えてました。

事細かく、当時の細かい心理的な葛藤などを書き連ねようものなら、かなりの文字数になってしまいそうなのでそれは避けつつ、概要だけでもわかってもらえるように書いていきたいと思います。

面接などで「これまでの職務概要を話してください」とか聞かれる際に答えるつもり、といえばわかりがいいでしょうか。

職務経歴の初期「スポーツ業界での個人事業主から」

2007年4月から丸2年間ほど個人事業主として「スポーツトレーナー」として私立学校の部活動や個人アスリートへのトレーニングサポートなど、複数の契約先と契約を結びつつ、次の契約先を見つけられるように自分の存在意義を認めてもらえるようにすることに必死でした。

必死だったと言いながらも、のうのうとやっていたとも思っています。

トレーナーやトレーニングサポートの契約だけで食べていけるほどに稼げていたのかといえば、まったく稼げていませんでしたし、おかしなプライドを抱えていたのもあり、「生活費のためだけにアルバイトはしない」とか言って自分の契約先になり得そうなところでした仕事を探してませんでした。

まったく「営業」がうまくできなかったことや、契約先での金額交渉に失敗し、契約を失うようなことが増えたことから、月額で安定的に「給与」が入ってくる会社員としての働きをしたくなります。

完全によろしくない方向での個人事業の廃業が決定します。それが2008年のこと。

ただ、スポーツ業界でそれなりに活動していきたいと思っていましたし、一定以上は努力をしていれば成果や結果が出るものだと思い込んでいたこと、それから自らの学費を月額で7万円弱返済し、5年で返済することを目指してたことからスポーツ業界でトレーナーとしての活動を継続します。

とりたいと思っていた資格も、いきたいと思っていたドイツへの短期的な留学も果たし、それを踏まえた副収入も得ることができていたため、収入的には本収入と副収入を合わせて年齢×12〜15の年収で、それなりに満足できていました。

ところが、プレイヤーとして自分の体を酷使というか、いつまでも現場での指導をすることに疑問を抱き始めたのと同時に、スポーツ業界の「お金」がもっと潤沢に使われるようになるためにはどうしたらいいのだろうかと考えるようにもなります。

それは自分の指導を受けてくれる健康増進を目的にしたお客さんに会社の経営層であったり、役員層であったことが大きいのかもしれません。少なくとも、スポーツだけでなくビジネス分野で活躍するためにはトレーナー一辺倒ではダメだと思い込んだことから、新潟県内で有名な企業グループ内の専門学校へ入り込む機会を得たため、雇われトレーナーを5年で離職します。

2013年の春からスポーツ系専門学校でスポーツトレーナーの学科を担う職員の一員となって働くことになりましたが、ここは会社員ではなく個人事業主として「個人」と「学校」の間での業務委託契約を結ぶこととなりました。

2014年からは別の職員の退職や上記してきたような思考からスポーツビジネス系の学科での就労や職域転換を希望していたことから、グループ内企業の職員、つまりは従業員(正社員)として働くこととなります。

この時にやっていたことが、2018年に #スポみら というイベントを主催するに至ることになるわけですが、当時は何がなにやら訳もわからぬままに行動してみてダメなら違うやり方をしてみて...と行き当たりばったりだったと振り返っていたりします。

職務領域の転換「スポーツ業界▶︎IT関連業界」

そんな行動がよくなかったのか、自分自身がスポーツ業界以外で就労したことがないことと、一般的なビジネスを扱ったことがないことに対して危機感と焦燥感を抱くようになり、自分が「何もしてない人」だと思い込みはじめます。

もともとインターネットが好きだったこともあり、さまざま新しいサービスが提供され始めればアカウント登録をしましたし、Google+(グーグルプラス)などβ版から参加できるものには基本的にすべて飛びついてました。

とにかくネット上に転がっている情報がおもしろく、楽しいものだと認識していましたし、インターネットを利用することで物理的な距離を払拭した上でコミュニケーションが取れるうえに、機会や計画を動かすこともできることを実感していました。

いまのようにオンラインサロンが活発になってもいない頃、複数のメルマガ読者になり、その延長上に発生したオンラインサロンへ飛び込んで行くことも繰り返していました。

いまのようにツールの整備や参加者たちの参加前提が熟していなかったこともあり、地方在住者としては関東を中心に行われる議論やイベント開催に寂しい思いを抱いていたことも思い出せば懐かしかったりします。

話を戻すと、インターネットが大好きだったことからインターネットに関わることを仕事にできないかと考え、ネット広告代理店やWeb制作会社などの求人に応募し、新潟ではまだ珍しかったネット広告の代理店から内定をもらい入社することに。

2016年9月のことです。

結果、それまでの職歴から唐突とも思える職務変換に自身のスキルや経験、知識や学習頻度などが追いつけず、家庭生活との両立の壁にぶつかっていたことや、履歴のまったくない業務を再構築しなければならないのに失敗やうまくいかないことが起こった際に詰められることへの恐怖感もあり、眠れなくなります。

眠れない状態を自覚したところから一気に体調が悪化し、みるみるうちに「適応障害」から「うつ病」と診断が出される状態となってしまいます。

思い起こせば、ここでしっかりと向き合い、克服するようにしなかったからなのか、後々まで引きずることになりますが、いまさらいっても仕方ありませんね。

在職期間は11ヶ月でした。そこから「やっぱり無謀だった」「自分への過度な期待は自分を苦しめるだけだ」「自分は何もできない無能側なんだ」と自分を卑下するような状態に陥っていたことは否めません。

そこで逃げるように別の業界として「ものづくり業界」へ志望してみますが、徐々に自分自身の体調が回復していくにつれ、どうしてもインターネットに触れる環境での仕事をしていたいと思うことをやめれませんでした。

そんな風に悶々としているところで、2018年の2月にTwitterで岡部恭英さんと絡んだことから新潟でイベントを開催することに。

同時に、自分の働く環境も初心者視点や初心者目線を大切にできる環境を求めつつ、インターネットを利用した業務を行える場所として情報システム部門の求人を出している企業へ応募し、内定。

それが2018年4月からなのですが、その時に三男くんが生まれてきてくれて我が家は五名家族に。

新しい環境での業務だけでなく、家族構成も変わり、同時進行でイベントのことを考えなければなりません。

おそらく、他の有能な人たちは難なくこなしてしまうのでしょうが、ぼくはそこまで出来がよくありませんから、ずいぶんと苦しかったことを覚えています。

そして、自分だけでは全く何もできないことを自覚していたことから、イベントに関しては仲間となって助けてくれそうな頼れる人たちに声をかけ、一緒にやってもらえるようにお願いして回ります。

現在付近「広報PRや採用、人事」

それとタイミングを同じくして、noteを毎日書きはじめました。

この頃から広報だとかPRに目が行くようになり、どうやったら興味のない人や関係のなさそうだけど本質的には繋がれそうな人たちに届けられるのかを必死に考えることになります。

33歳のおじさんになっても学ぶことが多いのだと実感した一年でした。

noteをはじめたのは、クラウドファンディングで資金調達を目指す上での「過程」の共有と、ぼくという「人格」を晒け出すためにはじめたのですが、ぼくの日常的な行為に組み込まれるようになりましたし、それがきっかけで友人が増えたことで人生が豊かになったと実感しています。

イベント自体はクラウドファンディングで資金調達を果たす(1プロジェクトを3つのサイトで募集し、全てのサイトで目標額を達成し、総額でも目標の約140%に到達する)こともでき、主催イベントはその後も全国へ展開されることとなりました。

全国に展開されたこととは別軸で「次はあなたがやってください」をテーマにイベントを企画・主催し続けます。

途中、入院することになってしまったこともありましたが、その期間中は一緒にやってくれる仲間たちが上手いことやってくれたこともあり、イベントの開催自体は無事にできた、なんてこともあった次第です。

ちなみに、入院自体を毎日記録したnoteは以下。

人生はすべてがコンテンツだと思っていたからなのか、まったく意味不明ですが書いてました。

2018年9月のイベント時に支援してくれた方にお声がけいただいたこともあり、2020年1月から広報やPR、法人のSNS支援をする業務をすることになります。

そこで自社が発信することだったり、発信をしないまでも顧客との関係づくりやメディアとの関係づくり、関係づくりだけでなく駆け引きなども含めて存分に実体験として味わうことになるのと同時に、結局、最終的には人間くさい部分で仕事になるかどうかってのが変わるんだよね、なんてことも実感した次第です。

また、広報やPRといった業務の魅力や難しさ、奥深さを如実に実感するのと同時に、法人における重要性の啓蒙もしていきたい欲を抱くようにもなりました。

途中、長男くんの不登校事案や近親者の逝去などが重なったこともあり、SNSをはじめとしたソーシャルメディアとの距離を取るようになり、120日以上noteを更新しない時期が続きました。

2019年7月に「オフィスえんどう」って屋号を持つために開業届を出していたので、それを用いて細々と...いや、ダラダラとしていたのですが、このままではいけないなといまの所属先で人事広報って中にも外にもって業務を担うようになりました。

その矢先に書いたのが以下のnoteです。

正直、いまだに自分が何者であるとも思いませんし、有能であるとも思っていません。それに気づくことができた職種転換期は、今であればいい経験だったといえますが、再び戻りたいかと言われれば戻りたくはありません。

案外、「仲間」だとか「同胞」的な認識を持つ人たちには、業務的な面できついことを軽口を叩いて指摘してしまうこともあるため、それでぼくのそばにはいられないって人もいることと思います。

すでにおじさんと化しているので、老害的な立ち位置になるのかと恐れ慄いているのですが、外部の利害関係のない人間から見えていることって、指摘されることは決して多くありません。

そう思うと、むしろぼくは求めてしまう側なので、その辺に認識の乖離があったりすると揉めることもチラホラ。

ただ、基本的に悪気はなくて、ですね。純粋に聞きたいことを聞いているだけだったり、質問している(結果的に指摘する)だけだったりするのです。

いま、こうやって職務経歴を振り返りながら書いてるnoteも、ぼくの主観を書いているだけなので「いいように」書いている可能性が存分に高いんですよね。

「いや、お前、何をいい風に書いているんだよ!!」なんて人もいるでしょうが、ソーシャルメディアに書かれることは上澄みだってことを自覚しているからこその処世術とでもいえばいいでしょうか。

とはいえ、情けない人間であることや無能で何もできない側の人間であることを自覚しているのは事実ですし、大した成果や結果を出すこともできないこともわかっています。

それでも、「できること」と「求められること」が一致しているところで仕事ができていますし、その先にあるはずの「やりたいこと」も家族が増えるのと同時に増えてきました。

職場だけでなく、家庭や生活を含めて自分自身の幸福度を高めること、高めるために必要なことを可能な限り解像度を高めたうえで、求めすぎることなく、単純なことでも満足できるような状態を保ちつつ、人生を送っていければいいかなと思っている次第です。

ダラダラと書いていたら、結局5100文字を超えてしまいましたが、それだけの分量に見合っただけの内容なのかといえば自信ありません。

自信はないのですが、これを書いている時点でのぼくをきちんと表現できているとは思います。

そんなわけで、自己紹介「職務経歴編」でした。

ではでは。


えんどう

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