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「いま・ここ」での欠如を拒む・鈴木漠

1977年の状況に抗して

 鈴木漠は、1977年に、『風景論』と『火』の2冊の詩集を刊行している。これらの詩集は、原田勇男の「炎の樹」と同じく、1977年という時代状況と大きくすれ違いを演じるものだった。

 戦後のサブカルチャーを詳細に解読した『サブカルチャー神話解体』(宮台真司・石原英樹・大塚明子)は、「戦後サブカルチャーの意味論的な画期」を1955年、64年、73年、77年、83年、88年、92年に設定している。そこでは、73~76年には存在した60年代的アングラ・サブカルチャーの残滓がいよいよ消滅し、「新人類的なもの」「オタク的なもの」が上昇を開始するのが1977年であると、規定されている。1977年以降時代の主調低音となったのは、消費の仕方を消費する「メタ的な消費」というものであった。「メタ的な消費」と呼ばれるものは、2000年代に「空気を読む」と呼ばれたものに相当すると言っていい。「空気を読む」とは、「いま・ここ」への全面的隷属を意味する。抽象的な物言いになってしまっているので、具体例を挙げよう。1977年以前と以後の違いを、宮台は、マンガ『750ライダー』(石井いさみ)の作風の変化に見出している。

 当初、青少年マンガにおける恋愛は、たとえば『愛と誠』(1973)に見られたように、「疎外された日常」における「非日常的な救済」――輝かしい<外部>――であり、少女マンガと異なるかたちをとってはいたが、やはり「60年代的サブカルチャー」のコードと結びついた単なる観念にすぎなかった。恋愛がありふれた日常の一コマとして描かれ始めるのは、少女マンガから四、五年遅れた77年のことである。この変化はたとえば石井いさみ『750ライダー』(1975年)に見いだせる。バイクに「命をかけ」、既存の社会からはみ出て「勝負」を繰り返すという自己目的化した<課題達成>を主題とする、あしたのジョー的「60年代的サブカルチャー」マンガだったこの作品も、この時期から、明らかに写真を材料として用いたリアルな繊細な日常的背景描写が増え、こうした「日常性」を背景とした光(主人公)と委員長の恋模様が中心的に描かれるようになる。  

『サブカルチャー神話解体』

 『あしたのジョー』の至上価値であった「燃えカスなど残らない真っ白な灰だけが残る充実感」が否定され、矢吹丈が斥けていた「ブスブスとそこらにある、見てくれだけの不完全燃焼」が前面にせりあがって来たのが1977~83年にかけてであった。「60年代的サブカルチャー」の敗北によって、「輝かしい外部」や「超越的理念」は価値を喪失し、スーパーフラットな「いま・ここ」を表象する経済的なるものという世俗的価値観が全面勝利する。矢吹丈が乾物屋の紀ちゃんに語る「ほんの瞬間にせよ眩しいほど真っ赤に燃え上がるんだ」という聖なる時間は、1983年には完全に捨て去られた。70年代前半のアイコンであった矢吹丈は、70年代末には戯画化された苦行者のような道化にされてしまった。この時期のカルチャーは、自覚的な道化としてふるまうべく、諧謔の感性を身に着け、諧謔を方法論と化すという姿勢をこそ、優れたプレーヤーの資質と認定していた。であるがゆえに、宮台真司が見るところのYMO(1978年結成)は、あくまでも反60年代的な諧謔の担い手である。

 YMOのテクノポップは「高い音楽性と国際性を持った音楽が初めてメジャー化した」といった文脈で、あらかじめそれを目指していたかのように語られることがある。だが少なくとも、当事者の意識はまったく違った。複雑で高度なテクニックを駆使しながら結局はパタン化された退屈な音づくりに終わってしまうフュージョンの行き詰まりを前に、わざと単調に演奏することで梯子を外す――その際にクラフトワークの意匠を借りながら――というあくまで諧謔の志向こそが、当事者のものだった。

『サブカルチャー神話解体』

 諧謔志向とは、言ってみれば、下降志向のことである。価値を崩壊させることで価値を創出するかのようにふるまうヒネたスタイルである。YMOのメンバーたちは、矢吹丈がこだわった「眩しいほど真っ赤に燃え上がる」瞬間を断念していた。なぜか。60年代の輝きから自分たちがかぎりなく遠く位置していることを、はっきりと自覚していたからである。音楽や現代思想や経済のシーンで、次々とイノベーションが繰り広げられた60年代が過ぎ去った後、目の前にあったのは上方向への運動が不可能なまま差異が消滅した停滞空間であった。上方向への(絶対的)差異が不可能であるなら、他の誰かを蹴落として下方向への相対的な差異を創り出し、セコい自分を優位に仕立て上げるしかない。80年代に諧謔やイジメが横行したのはそうした背景があったからだ。

 鈴木漠は、そのようなスタイルをとることを潔しとはせず、愚直にも、差異を求めるスタイルを選んだ。

差異を求めて

 1991年に刊行された詩集『海幸』に収められた「階段」は鈴木のスタイルを宣言するような言葉が書かれている。

 たとえば、すぐれた詩の一行の中には、たぶん見えない階段が存在するだろう。梯子状のものであれ、螺旋階段であれ、それらの言葉の階段は、晴れやかな空の高みへ樹木の茂みへと、ときにはまたひっそりと水の湧き出いる井戸の底へと、われわれを誘うのだ。
 言葉と日常の差異、さらでだに言葉そのものが、差異であり、階段であるだろう。 

「階段」

 鈴木が指し示す「階段」は、それが上昇するものであれ、下降するものであれ、運動=差異を発生させる装置としてある。停滞した水平空間において運動の不在を諧謔でごまかすことを拒むその姿勢は、いっそ清々しいとも言える。1977年から顕在化した「停滞への居直り」とでも言うような文化現象に抗するように、鈴木は『風景論』や『火』といった詩集で希望を歌い運動を奨励しようとした。

火によってひとたびは否定されたあの
悉皆のものたちではあるけれど
深い眠りのなかで
火の形象(かたち) 火の匂い
虚空を焦がす火の叫びを
それぞれの内なる鏡にコピーする
それぞれがもつ凹(くぼ)みに
火の種を身ごもっている    (「受胎告知」)

眺めていると
木に懸けられた人は
上空へ もっと上空へ羽搏こうとしている
開いた腕をそのまま翼と化して
だのに数本の釘が
それを繫ぎとめている
てのひらに打ちこまれ
骨を割り
風景を突き刺した釘たちは
静かに発熱しているとわかる
他界にのめりこんだ釘のふるえる舌先は見えないけれど
想念は そこ聖痕のあたりで
静かにあわだっているとわかる
(略)
吊された魂の重みは
果実のように
静かに成熟しているとわかる
眺めているこちら側のすべては
一様な生の表面に囚われて
滑りつづけているのだとわかる   (「眺め」)

 「受胎告知」は『火』に、「眺め」は『風景論』に収められている。「こちら側」のスーパーフラットな風景の中において「他界」からの誘いを感受し、火の運動に同調する詩人の姿が刻まれている。「いま・ここ」に自足する態度を鈴木は選択しない。その理由は、「いま・ここ」には自分が求めるものが欠如しているからである。欠如と不在を起点にして生のスタイルを組織する鈴木漠は、ラカン的な意味で倫理的と言える。

欠如と不在を起点にして

 鈴木の初期の代表作と言っていい「天狼」は、欠如(欲望)の倫理を描いた作品と言える。

飢渇は屡々、魂を星に似せる
古代中国の草原を、あるとき、はてもしれぬ飢餓が覆うた
飢えは 年わかい隻眼(かため)の狼を 純粋にしていったのだ また幾夜かは皎々たる月明がつづき やがてその月の虧(か)けはじめる夜 ついに彼の喝仰は頂点に達した 杳(くら)く永遠のようにけぶる地平線に向かって 彼は疾駆しはじめた

「天狼」

 飢渇すなわち欠如が詩の運動の起点となっている作品だ。「いま・ここ」から遠く隔たって輝く「星」という形象。「隻眼」。「虧(か)けはじめる」月。欠如を指し示すイメージが有機的なつながりを演じた果てに、「地平線」という彼方への運動が鮮やかに描かれる。

 精神分析家のジャック・ラカンは、人間がその生を組織してゆく原動力である欲望の起点を欠如と不在であるとした。人間はそれを手にしていないがゆえに、欲望の対象を、生涯をかけて追い求める。制度の掟を侵犯してさえも……。

 ラカンによれば、欲望の対象とは、人間が去勢され象徴界(法)のシステムに組み込まれるさいに失った原初の充足感ということなるが、それを追い求めることはおよそ不可能な体験であり、人間の地平を超えるその試みは、苦痛と快楽が渾然となった享楽体験ということになる。作品「眺め」に描かれているのがあきらかにイエス・キリストの姿であり、鈴木が好んで描く「火」が破壊の側面を持つように(「火 **」という作品では「火は絶対の単独者」という詩句も読まれる)、そしてまた、「天狼」というイメージが矢吹丈と重なるように、およそ善人の共感を得るものではない(『あしたのジョー』の紀子は「とてもついて行けそうもない」とジョーから去ってゆく)。ジジェクの言葉に従えば、鈴木漠や矢吹丈は、アンティゴネーと同じように、「神官」ではなく「聖人」ということになる。神官が「聖なるものの儀式を組織する官僚機構がなければ、存在しえない」のに対し、アンティゴネーは人間的な共感の地平から大きくはみ出している。アンティゴネーも矢吹丈もおよそアイドルにはなれないキャラクターである。

 それとは反対に、聖人は対象a、純粋な対象、すなわち根本的な主体の欠乏状態を経験する何者かの地位を占める。聖人は何の儀式も行わず、何ものをも呼び出さず、ただその不活性な存在様態に固執する。

 と、ここまでくれば、ラカンがアンティゴネーの中に、キリストの犠牲の先駆けを見出した理由が理解できる。その固執ゆえに、アンティゴネーは聖人であり、けっして神官ではありえない。だからわれわれは、アンティゴネーという人物が驚くほど奇怪で「人間ばなれ」していて、非・情動的であるという事実を隠蔽することで、彼女を順化し飼いならそうとするすべての企て、つまり彼女を、われわれの同情を掻き立て、自らを同一化の点として提示するような、家族と家庭の優しい保護者に仕立てようとするすべての企てに、断固反対しなければならないのである。(略)それとは対照的に、アンティゴネーは限界まで突っ走り、けっして「自分の欲望を諦めず」(ラカン)、この「死の欲動」、死へと向かう存在に固執するために、驚くほど冷酷無情となり、日常的な感情・思慮・情熱・恐怖の環の外に出てしまう。 

『イデオロギーの崇高な対象』スラヴォイ・ジジェク

 ジジェクが描くところの聖人の姿は、つくづく60年代的だと思う。一般的なレベルでは、それは1976年までで表舞台からは消えたが、現代詩のようなマイナーな舞台では60年代の火(欲望)は時間錯誤を演じつつ燃え続けているようだ。

 さて、鈴木のオブセッションであるイエス・キリストにちなんで、イエスの活動を描いたミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』から「I Don’t Know How To Love Him」。この作品のひとつの聴きどころだろう。動画のマリアは、革ジャンでハスキー・ヴォイスという異色な演出。途中で娼婦っぽいメイクを落とし、革ジャンを脱ぐが腕にはタトゥーあり。上腕筋が逞しく、女子レスリング選手のようだ。

 また、「狼」のイメージにちなんで、沢田研二の「ロンリー・ウルフ」。こういう色っぽい倦怠を歌わせると、沢田は見事にはまる。作詞喜多條忠。作曲大野克夫という特異なコンビによる曲である。


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