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食べられちゃうよ

歩道の真ん中で座り込んで泣きじゃくる3歳くらいの男の子。
かたわらにはお母さんと思わしき若い女性。

ぼくは時雨を連れていたから、
泣いているその子の視界にあんまり入らないようにしようと、
(怖がると悪いもんね)
リードを短く持ち、できるだけ道の端っこを通ろうとした。

通り過ぎるとき、その若いお母さんが泣きやまないその子に声をかけた。

「ほら、わんわんだよ。食べられちゃうよ!」

…あれれ? 
なんだろうこの違和感は。

ぼくは何も言わずに、彼女らの前を通り過ぎてから、
一呼吸おいて、公園のベンチに座った。
確かに、あの若いお母さんは、なにかざらざらとした手触りのものを
ぼくになすりつけたようだった。
そのときに感じたのは、怒りではなく違和感みたいなもので、
これはなんだろう? とぼくは思った。

繙いていこう。これはいったいなんなのか?

想像してみる。
もしも時雨をそのままあの子に近づけたらどうなっていただろう。
たぶん、泣いているその子のほっぺをぺろん、となめていただろうな。
それがどのような作用をもたらすのかは問題ではなく、
よい悪いも関係なく、犬はそのような行動をとる(ことが多い)。
擬人化して考えても、絵本のネタとしても、
むしろ「ねえねえ、だいじょうぶ?」と言って、
泣いている子を慰めている犬の姿は正しい。

しかし、あの若いお母さんは「食べられちゃうよ!」と言った。
「いつまでも泣いていると、あの犬に食べられちゃうから
早く泣きやみなさい」ということだ。
つまり、彼女にとって犬は「鬼」みたいなものになるわけだろうか。
人をとって食う鬼。言うことをきかない悪がきを頭からばきばき食う鬼。

…そうか、言葉っておっかないぞ。
彼女は鬼を自分で召喚しようとした。そこに鬼を呼び込もうとした。
あやうくぼくがあそこで怒りをあらわにしていたら、
鬼的なものをますます強くしたに違いない。
あっぶねえ。
これは半分冗談。でも半分は…。

あの若いお母さんにとって、通りすがりのフレンチブルドッグは
社会構成物のひとつですらないのだろう。
むしろそれは「架空のもの」として扱われ、利用された。
そこにぼくの違和感があった。
なんだか世界を勝手に書き換えられたような気持ち、
そこにざらざらした嫌な感触を覚えたのだ。

口に砂が入って、ぼくはそれをぺっと吐き出した。
おれと時雨はここにいるんだぜ、あなたと息子がそこにいるように。
…ちなみに、犬ってけっこうやさしいですよ?

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