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犬と月と小鳥のさえずり

光太郎には、秘密があった。

彼は中学一年生で、いま、ある場所に向かって土手沿いのサイクリングロードを走っている。自転車ではなく自分の両足で。冬の初めの夕暮れ時、彼の上気した顔は、どことなくうれしそうに見える。
夕方の土手はどんどん冷えてきている。彼の眼前には路上生活者が建てたと思わしき青いテントがある。中で何かがごそごそと動く気配がした。
出入り口らしい真ん中の隙間からひゅっと顔を出したのは、焦げ茶色の子犬だった。
光太郎はしゃがみ込み、両手を差し出して、その子犬の突進を受け止める。子犬といってもたぶん大型犬で、彼の顔をうれしそうに舐めるその足は、すでに太くて力強い。はちきれんばかりに振られている尻尾も、ぴかぴかの毛並みのよさも、ぴんと立った大きな耳も、この犬の成長した姿が予想できるようだった。

「やあ、光太郎くん」
子犬に続いてテントから出てきた長身の男が声をかけた。彼は路上生活者らしからぬ服装をしていた。少し薄汚れてはいたが、千鳥格子のジャケットを羽織り、グレーのスウェットパンツ、白いハイカットのスニーカーといういでだちだ。年齢は四〇歳くらいだろうか。彼は光太郎にさわやかな笑顔を見せた。
「おじさん、カナリア、大きくなったね」
カナリアとは子犬の名前らしかった。
「そうだね、一日ずつ、大きくなる。たくましくなるだろうね、この子は」
「カナリアの犬種って何だろう? 雑種なのかな?」
「いや、この子はね」
長身の男がそう言って、子犬のマズルを右手で撫でた。
「ジャーマン・シェパード。警察犬にもなれる立派な犬だよ」
「知ってる! すごいね、カナリア。そんなすごい犬だったんだ」
光太郎はそう言った。
「でもどうしてカナリアなんて名前なの? もっと強そうな名前にすればよかったのに」
「はは、そうだね。おじさんには、この子の鳴き声が美しい鳥の声みたいに聞こえるんだ。だからかな」
「……変なの。でも、カナリアが吠えたのって聞いたことないね。もしも犬が小鳥みたいに楽しそうにさえずることができたなら、最高だね」
「小鳥みたいに楽しそうにさえずる、か。光太郎くんはなかなかおもしろいことを言うね。犬の吠え声が社会問題になっているけど、みんなの耳がそんなふうに変わればいいのにね。犬は吠えるし、小鳥はさえずる」
「人間だって、泣くし叫ぶのにね。それぞれが誰かにとっての騒音を出してるんだよね、きっと」
「そうだね。でも、自分たち以外のことは、どうにも気に入らないのかもしれないね。ずいぶん勝手な話だと思うけど」
長身の男はそんなふうに言って、愛しそうにカナリアの背中を撫でた。

光太郎は自分のカバンから、布製のリードとカラーをとり出した。それをカナリアに装着する。
「じゃあおじさん、お散歩に行ってくるよ。そうそう、ぼくがこうしてここに来ていることは誰にも内緒にしておいてね。どこからバレるかわからないし、うちの親はほんとうにうるさいからさ」
「ああ、もちろん秘密だ」


*** 


光太郎は犬が大好きだった。小さいころから飼いたくて飼いたくてたまらなかった。家は賃貸マンションだったが、ペット飼育は可能だった。
けれども両親は一貫して動物を飼育することに反対で、彼が生まれてから今まで、犬とも猫とも一緒に暮らしたことはなかった。
なぜ反対なのか、光太郎はその理由を両親に求めたが、そのうち世話をしなくなるだとか、勉強もおろそかになるとかで、どうにも納得できる理屈ではなかった。こちらとしては、そんなことはない、きちんと世話をする、としか言いようがないのだ。勉強もする。おろそかにはしない。だから、どうか今度の誕生日には犬をプレゼントしてほしい。
「犬はプレゼントにはならない」
父親がそう言った。
「そういう言いかたをしているうちは、おまえに犬を飼う資格はない」

そんなある日、土手沿いのサイクリングロードをとぼとぼと学校帰りに歩いていた時だった。道の向こうからまっすぐ、勢いよく走ってくる小さな影。それは子犬のようだった。あっ犬だ、と思った瞬間には、その影は光太郎の足に飛びついていた。彼はびっくりしたが、すぐに事態を察して、その子犬をつかまえた。
案の定、飼い主と思わしき人間が坂道を駆け上がってきて、ああ、カナリア、よかった、とつぶやくように言った。

その子犬の飼い主が、路上生活者であることなど、光太郎にとってはどうでもいいことだった。光太郎は天真爛漫な性格で、少年らしい清らかな心を持っていた。思春期にもまだなっていなかった。彼は人を見た目で判断しなかったし、ある意味では年齢よりも幼く感じる部分もあった。そこがよいところでもあり、危うい一面でもあった。端正な顔立ちをしていたが、背は同級生よりもずいぶん低かった。
カナリアの飼い主は上品と言ってもいいような話しかたと身のこなしで、何か特別な事情があって、この場所に住んでいるのではないだろうか、と光太郎は思った。ふたりは犬や動物の話で盛り上がり、仲よくなっていった。
ある日、光太郎はカナリアの飼い主にある提案をした。自分にカナリアの散歩をさせて欲しい、と。自分はほんとうに犬が好きだけれども、親が飼うことを許してくれない。でも、いつかは犬と暮らしたい。そのための練習というわけではないが、犬の散歩を味わってみたい。そして、こうしてみんな仲よくなったのだから、ぼくも何か役に立ちたいんだ、と彼は言った。 


***


カナリアはまだ子犬ではあったが、かなりのパワーを秘めていて、ぐいぐいと光太郎を引っ張って歩いた。リードはいつもぴんと張りつめて、逆に光太郎が散歩に連れられているみたいだった。

それでも夕暮れ時の散歩は楽しく、光太郎は大好きな犬と一緒にいることを幸福に感じていた。カナリアはあちこちの匂いを嗅ぎ、気ままに走りまわり、そしてとても満足そうな顔をする。
こんなにも表情があって、気持ちも通じる。
なによりも、ぼくと一緒にいることをよろこんでくれている。

光太郎はうれしくなって、カナリアと全速力で走り出した。

「あれ、一年の光太郎じゃん」
「あ? どこよ?」
「河原沿いで犬の散歩してる。すっげえ走ってるな。あいつ犬なんか飼ってたっけ?」
そんな会話をしていたのは、光太郎の中学校の先輩である二年生の男子たちだった。薄暗い中で五、六人がたむろしている。なりたての不良少年、といった出で立ちで、何人かはタバコを吹かしている。今夜は満月で、彼らのシルエットがぼんやりと照らし出されていた。
「……ちょっと行ってみようぜ。退屈だし」
リーダー格の少年がそう言って、少年たちは光太郎とカナリアのほうへ近づいていった。

「よう、光太郎!」
光太郎はその声に気づいて、振り返った。
「あ、先輩」
「あ、じゃなくてさ。ちゃんとアイサツしろよ」
光太郎はまずいな、と思った。あんまりいい状況ではなさそうだ。彼らはきっと、ものすごく退屈なのだろう。いいことではない。
「……こんばんは」
「おまえ、犬なんて飼ってたっけ?」
「あ、はい」
「ふーん、なんて名前?」
「カナリアです」
そこで少年たちはどっと笑い出した。変な名前、と大声で言った。変声期特有のかすれた声。はしゃいだ空気。満月の夜。意味のない雄叫び。それはまるでどこかの国の、おそろしい儀式の呪文に使われるような声に光太郎には聞こえた。
「まあいいや、その犬、ちょっと貸してよ」
光太郎はひるんだが、首を縦には振らなかった。
「……どうするんですか?」
「別に。ただ散歩するだけだよ。貸せよ」
「貸しません」
「は?」
「貸したりするものじゃないです。生きものだから」
生意気だなおまえ、と誰かが言って、光太郎の肩を強く押した。
まずはカナリアを守ることだ︱︱光太郎はそう思った。
「あ? なんだその顔。生意気なんだよてめえ」
そう言って胸ぐらをつかんできた少年の股間を、光太郎は思いきり蹴り上げた。げえっ、とカエルのような声を出して少年がうずくまった。光太郎はリードを離し、全速力で走った。
「てめえ!」
少年たちが一斉に追いかけてくる。思った通り、カナリアは光太郎の先を猛スピードで駆けていく。もう、誰よりも速く走れるのだ。人間なんかに絶対に負けないスピードで、カナリアは走れる。逃げて、カナリア。
光太郎は一〇〇メートルほど走った先で転倒し、少年たちはすぐに追いついてきて、彼の服をつかんだ。両手を後ろにまわされて、ぎりぎりと締め上げられた。鈍い痛みが全身に走り、何も考えられなくなった。
 
殴られているあいだ、光太郎は複雑な心境だった。恐怖もあったが、カナリアを逃がしてやれた、という自負もあって、少しだけ誇らしい気持ちになり、高揚していた。だが何分間か経って、薄ぼんやりとした視界に映った、遠くから歩いてくる不良少年のひとりがぐいぐいとあの布製のリードを引っ張っているのを見て……絶望した。
カナリア。つかまっちゃったのか。

「おい、この犬、今から川に捨てようぜ」
少年のひとりがそう言って、カナリアの尻尾をつかんだ。
「やめろ!」
光太郎が大声を出したとたん、彼の腹部に激痛が走った。膝蹴りされたのだ。光太郎は泣き出していた。
「こいつ泣いてやがんの。おれらに逆らった罰だよ。おまえが悪いんだ」
「やめてよ……どうしてそんなことをするの? なんでそんなことをしたいの? なにもおもしろくないじゃないか……」
うるせえ、という声がして、今度は頬を思い切り殴られた。口の中が切れて、血の味がした。光太郎はカナリアの飼い主のおじさんのことを思った。ごめんね、おじさん。カナリアを守れないかもしれない。やっぱりぼくはお父さんの言う通り、犬を飼う資格がないのかもしれない。
「いってえっ!」
カナリアの尻尾をつかんでいた少年が悲鳴をあげた。カナリアが彼の手首を噛んだのだ。牙はむき出しになり、尻尾は素早く振られている。その犬の目は満月を宿し、ぎらぎらと光っていた。もはや子犬の面影は消えて、ある一匹の獣に見えた。少年たちは明らかにひるんでいた。
カナリアはうなり声をあげてから、おもむろに遠吠えした。月明かりの下で、まるで狼のようなりりしさを持って。光太郎はその瞬間を目撃して、今まで感じていた犬の概念を覆されたような気がしていた。もちろんその声は、小鳥のさえずりとはほど遠かった。それは冷たくて、硬質な声だった。けれどもカナリアの姿は、とても美しかった。
リーダー格の少年が気を取り直し、カナリアの腹部めがけて後ろから蹴りを入れようと助走をつけた。 
その瞬間、少年のからだが宙に浮いて、その蹴りも空を切った。すぐに彼のからだは地面に落ち、そこに何か黒い影が覆いかぶさった。

カナリアの飼い主の姿だった。

彼は少年に馬乗りになって、容赦なく殴打する。少年は声すら出すことができない。少年の顔がみるみる腫れ上がって、ものの数秒でまったく抵抗しなくなってしまった。圧倒的な暴力。
「おじさん!」
光太郎が叫んだ。他の少年たちは何が起きているのかわからずに、ぽかんとその光景を眺めていた。
「おじさん! だめだよ、死んじゃうよ!」
泣きながらそう言ったが、その長身から繰り出される拳を止める気配はない。光太郎は恐怖でいっぱいだった。それでも止めなくちゃいけない、と思った。
「おじさん! もうやめて!」
光太郎はその暴力的な背中に向かって叫び、躍動する肩の筋肉を羽交い締めにして押さえた。熱くてどろどろした感情が、光太郎のからだに伝わってくるようだった。その暴力を止めようと、彼は両腕に力を入れた。必死だった。まるでばねみたいに弾力があって、今にもはじき飛ばされそうだった。怒り、というものがこんなにも御しがたく、恐ろしいものなのだ、ということを彼は初めて知った。

カナリアの飼い主はからだをぶるぶると震わせて、血だらけになった自分の拳を見つめた。それから殴られた少年の息があることを確認して、ポケットから携帯電話をとり出し、救急車を呼んだ。
彼は月を見上げた。その瞳からは涙があふれ出していた。まるで後悔そのものがこぼれ落ちてくるような光景だった。そばにはカナリアがいたが、主人の気持ちを慮るように、おとなしく伏せていた。他の少年たちはすでに散り散りに逃げてしまって、あたりには静寂が戻ってきていた。満月の夜。あたりは青白く、冷たく照らされていた。
「……ごめんよ、光太郎くん」
長身のからだがひとまわり小さくなってしまったような印象で、カナリアの飼い主は自分のひざに顔を埋めた。
「おじさん、ごめんね。こんなことになっちゃって……」
「悪いのはおじさんだ。謝らなければならないのもおじさんのほうなんだ。ほんとうにごめんよ」
「おじさん、これからどうするの……?」
「カナリアは、どこかの保護団体に預かってもらうつもりだよ。おじさんは警察に捕まっちゃうからね。たぶん、しばらくは出てこられないだろうから」
「でも、でも、そもそも悪いのはあいつらだし、ぼくが証言するし、そしたらそんなに長くなんて……」
飼い主は頭を振った。それから光太郎をまっすぐ見つめて、言った。
「おじさんはね、逃げていたんだ」


***


「彼は殺人未遂で指名手配されていたんだよ。人目を忍び、路上生活者を装っていた。今回の事件は殺人未遂とまではいえないが、相手は未成年だし、あまりにも一方的な暴力で、重い罪に問われるかもしれない。過剰防衛というだけでは済まないだろうね」

光太郎の父親がそう言った。リビングは何の音もなく、少し寒々しい雰囲気だった。けれどもテレビもラジオも点ける気がしない。
うつむいたままの光太郎は、口中にひろがった、あの鉄くさい血の味を思い出していた。
「ねえ、お父さん。カナリアはどうなったの?」
「いまは動物愛護センターに収容されているようだ。だいじょうぶ、近くの愛護団体が保護して、あたらしい飼い主を探してくれるだろうということだよ」
カナリア……と光太郎はつぶやいた。彼は涙を流していた。こらえようとしても、後から後からあふれてくる思いに、何もできなかった自分のふがいなさに、胸が張り裂けそうだった。
「光太郎、おまえに聞きたいんだが」
「……うん」
「ひと通りの理由や状況はもう聞いた。そしてひと通りおまえを叱ったから、これ以上しつこくは言わない。大切なのは」
大切なのは、と光太郎はそのまま繰り返した。
「大切なのは、おまえが今回のことで何を感じたか、だよ」
「何を感じたか……」
「そうだ。お父さんやお母さんやまわりの人たちに悪かった、ということ以外に、どんなことを感じた?」
光太郎は考えた。ぼくが感じたこと。
「……暴力はとても恐ろしいと思った」
「そうだな。その通りだ。おまえはまざまざとその渦中にいたんだ。怖かっただろう」
光太郎はこくり、とうなずいた。
「暴力は恐ろしい。その場限りの怒りにとらわれ、暴走してしまう。愛する家族にはとてもやさしいお父さんが、街中で肩が触れたといって他人と殴り合いになる。戦場の兵士は敵の兵士を殺すことにためらいはない。あいつ、むかつく。やられたらやり返す。なめられてたまるか。絶対に許さない」
そう言って父親は、ため息をついた。
「暴力で暴力を止めることはできない。怒りで怒りを抑えることも不可能だ。おじさんは、間違っていた。彼は、そもそも間違っていたんだ。罪を償わずに逃げていたことも含めて。彼が以前に犯した殺人未遂は街中でのたわいのないけんか……がきっかけだったんだそうだ」
「……そんなことで……」
「そう、そんなつまらないことで。でもこれはあり得ることなんだよ。おまえにひどいことをした少年たちだってそうだ。彼らのふるまいには何の理由も意味もない。もともとおまえのことが憎かったとも思えない。ほんの少しの摩擦で、火がついてしまうんだ」
光太郎は父親の顔を見た。真剣な面持ちは、この会話がいわゆる道徳の授業ではないということを示していた。
「……おじさんが拳を振り上げている時、やめてと言ってもまったくやめてくれなかった。何かに取り憑かれているみたいだった」
光太郎がそう言った。
「でもおまえはおじさんを止めてみせた」
父親の表情が少しゆるんで、やさしそうに光太郎を見つめた。
「おまえは止めてみせた。圧倒的な暴力を防いでみせた。だから最悪の事態を迎えずに済んだ。結果的にそれはおじさんのためにもなったし、殴られた少年のためにもなった」

気がつくと、ふたりのいるリビングは薄暗くなっていて、会話をはじめてからずいぶん長い時間が経っていた。光太郎の涙は乾き、頬についたその跡を、窓から差し込んだ夕日が、細く照らしていた。
「おじさんは……カナリアにとてもやさしかったよ。ぼくにとってのおじさんは、そういう人だったんだ。誰が何と言おうと、ぼくは、おじさんのやさしさはほんものだったんだと思う」
そうだな、と父親は言って、光太郎の頭をくしゃくしゃと撫でた。


*** 


光太郎の家族はこの街を離れることになった。

両親が光太郎に転校をすすめたのだ。中学生活をあたらしく再スタートさせる。そのほうがここに留まるよりも、のびのびと暮らすことができるだろう。家族三人、みんなで引っ越しだ。光太郎は、事件のことをそこまで引きずってはいないように見えたが、確かにリセットするにはよい時期ではあった。季節はもうすぐ春になる。
光太郎は、新生活に思いを馳せていた。転校先の学校はどんなだろうか、あたらしい友だちはできるだろうか。期待と不安の入り交じる気分は、なかなか悪くなかった。いちばんのトピックスは、引っ越す家は一軒家で、自分の部屋もあるということだ。今までの賃貸マンションでは、家族みんなで眠る寝室の一角が自分のスペースだった。勉強するのはリビング。何をするにもやりづらかった。それも解消されるのだ。

光太郎はあたらしい家に向かう道すがら、おじさんとその飼い犬、カナリアのことを考える。もう、ぼくが彼らにできることは何もない。だから、ぼくはぼくで、とにかくがんばるのだ。がんばって、いつか犬と暮らすのだ。そして、おじさんのような間違いを犯さずに、おじさんのようなやさしい心で生きてゆくのだ。
運転席の母親は、とても上機嫌にドライブしている。どこかで聞いたことのある古い歌謡曲を口笛で吹いて、足先でリズムをとる。
「お母さん、うれしそうだね」
助手席に座った光太郎が言った。
ん? ふふ、と意味あり気に母親が笑った。
「そういえば、お父さんはどこに行っちゃったんだろう?」
光太郎がそう言った。
「お父さんなら、用を済ませたら、あたらしいおうちにそのまま向かうって言ってたわよ。もしかしたらもう先に着いてるかもしれないね」
母親はそう答えて、カーラジオを点けた。女性アイドルグループの曲が流れてきて、信号が赤になり、クルマが止まった。
「光太郎」
唐突に母親が声をかけた。
「ん?」
「あなたはよくがんばった。そりゃいろいろ心配かけてくれたけど、最終的にはとってもがんばったとお母さんは思うよ」
「そうかなあ……でも、少しだけ、逃げてきちゃった気持ちもあるんだ。いろいろなものを置き去りにしちゃったみたいな……」
「そんなことはないのよ。あなたは、これから責任をとることになるんだから」
「え?」
ふふ、とまた母親が笑って、クルマが動き出した。
「責任をとるって、どういうこと……?」
 光太郎の母親はクルマを新居の駐車場に入れて、エンジンを停止する。
「……行ってごらんなさい」

光太郎は助手席のドアを開けて、玄関に向かう。変わったかたちのドアノブを捻り、ゆっくりと扉を開く。
そこにいたのは、ジャーマン・シェパード。成長したカナリアの姿だった。座ったまま、尻尾だけを振っている。
カナリアは知っている。光太郎のことを。
光太郎はぼう然として、靴も脱がずに、膝立ちをしながらカナリアにそっと手をのばした。
カナリアは、彼の指をぺろんと舐めてから、光太郎の顔にマズルを近づけた。彼の頬のにおいを嗅いで、幾筋か流れてきた涙を舐めた。光太郎は、大きくなったカナリアの背中をそっと、愛しそうに抱きしめた。



「どうしてこんなにも犬たちは
犬からもらったたいせつな10の思い出」
www.amazon.co.jp/dp/4879197297
https://books.rakuten.co.jp/rb/14661539/

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