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明日春が来たら

 明日春が来たら君に会いに行こう

「あんな悠長なことを言っている人のところには、春なんて来ないと思うの…」

 見附橋まで響き届く、花見に興じる大学生たちの、どこか調子外れなア・カペラの歌を耳にするとサクラはそう言った。街の灯りに浮かぶ夜桜を写し込んだ彼女の目は、眼下で忙しく往来する電車を捉えているようにも見えるし、何も見ていないようにも見える。

「君、私のこと好きでしょ?」

 不意にぼくの一番脆いところへと飛び込んできたサクラの言葉が、ぼくの周りの時間を止めた。花見の賑やかな雑音と電車の走行音は止み、まるで、新宿通りに刻まれる不規則な通行車輌のリズムに不格好な合いの手を入れるように鳴り響く心音だけが、ぼくの感覚を支配した。

 返答に窮していると、サクラの右手に握られたスマートフォンが静かにバイブレーションを始めた。照度を落とした液晶画面に表示された通知を一瞥すると、自嘲気味な微笑を浮かべてサクラは言った。

「さてと、悪いコになる時間かな…」

 春の夜風がサクラの黒い髪を撫でると、寂し気な横顔が、間抜けな表情を浮かべたままのぼくの瞳に飛び込んできた。その瞬間、まるで濃淡の入り混じった桜色の背景が、一瞬にしてグレースケールに変換されてしまったように感じられた。

「"誰にも言うな"って言われた時、二人だけの秘密ができたんだって喜んじゃったんだよね。あの時の私ってば、ほんとバカ」

 ぐすりと鼻を啜る音とともに、サクラの目に薄墨色の涙が浮かぶ。
 
「来ない人を待つのってさ、結構しんどいんだよ。…じゃ、呼んでるから行くね」

 そう言って、何かを心の奥底に飲み込んだサクラは、別れの挨拶もなく姿勢を正して歩き出すと、家路を急ぐ人の流れに吸い飲み込まれるように駅の改札へと姿を消した。

 サクラの姿を見送ったぼくは、夜の持て余した時間を費やすために新宿駅まで徒歩で向かおうと心に決めると、国道20号線沿いに歩き始めた。

 なんと答えればよかったんだろう—

 足元を流れる黒く淀んだアスファルトの河の流れを眺めながら、ぼくは先ほどのサクラの問いかけについて考えた。

 学生時代、サクラとぼくはいつも一緒だった。地方出身の学生として、なかなか周りに馴染むことができなかったぼくは、5月のある日の昼時に、大学に隣接する土手のベンチで一人、読書をして過ごしていた。

「隣、いいかな?」

 午後の陽気がもたらす眠気に襲われていたぼくの背中越しに、そう声をかけてきたのがサクラだった。サクラとは同じクラスだったものの、その時までは一度も言葉を交わしたことがなかった。
 ただ、サクラの凛とした後ろ姿が、それを後ろの席から眺めていたぼくの関心を惹き付けていたことは紛れもない事実であり、見かけたことのある顔だから、という理由で無遠慮にぼくの隣に腰掛け、ベンチに両手をついて胸を張るように伸びをするサクラの横顔に心を踊らせたことは今でも覚えている。

 東京の生活になかなか慣れないこと、大学生活は想像以上に取るに足らないモノだらけだと感じていること、好きな音楽や映画。ぼくとサクラは午後の授業をサボることについての無言の合意を取り付けると、日が暮れるまで話し込んだ。

 二人の関係が恋愛に発展することは一度もなく、お互いに恋人ができると、互いの恋愛について話し合ったりしたものだった。

 そんなサクラとの関係も今年で6年目を迎えた。それぞれ異なる会社に就職したものの、互いの都合が合えば、どちらから言い出すわけでもなく一緒に時間を過ごす関係はあの春の日から変わらず続いていた。

 新宿駅を通り過ぎ、西新宿方面に向かって歩みを進める。仕事を終え、新宿駅へと向かう人の流れに逆らいながら、初台駅の入り口が200mほど先に見えるところまでたどり着いた。珍しく、オペラシティの上空に星空を認めることができた。故郷では当たり前だったこの眺めが、この街ではそうではないことに何とも言えない感情を覚えるのは何度目だったろうか。

 そんなことを考えていると、スマートフォンに着信があった。見慣れた「サクラ」の表示名に言い知れぬ胸騒ぎを感じたぼくは、画面ロックを解除するなり、イヤホンマイク越しにサクラの名前を呼んだ。

 イヤホンからは、2時間程前に聞いたのと同じ、鼻を啜る音と、必死に抑え込まれていることがわかる震えた泣き声が聞こえてきた。

「今、どこ?」

 ぼくはそう尋ねたが、聞き慣れた電車の停止音と、やたらと高い声が悪目立ちする若者の合唱が、ぼくにサクラの居場所を教えてくれた。

 「そこで待ってて」とだけ言うと、ぼくは踵を返し、新宿駅へと駆け出した。西口の改札を通り抜ける頃には、とめどなく吹き出してくる汗のせいでシャツが背中に張り付いていた。中央線のりばから発車アナウンスが聞こえてくると、階段を上る歩幅が自然と大きくなる。

 四ツ谷駅の改札を出ると、広場には顔を赤らめた大学生の一団が輪になって何やら話し込んでいる。時計を確認すると、時間は23時をまわったところだった。行先はわかっている。歩道に出ると、ぼくは大きく息を吐き出し、土手へと踏み出した。サクラとはじめて話をしたベンチの姿が脳裏に焼き付いて離れない。あの日の夜もこんなに暖かかっただろうか。

 土手の階段を上りきると、薄っすらと敷かれた桜の絨毯が目に入ってきた。花見が終わった後の桜並木は、ほっと溜息をつくように、花びらを粉雪のように散らせている。桜の木のあいだに差し込む夜の灯りが、サクラが座るベンチを照らしていた。

 「隣、いいかな?」

 ぼくは腰を下ろし、サクラの肩を強く抱き寄せ、崩れ落ちるようにぼくの胸に顔をうずめて咽び泣く彼女の頭に軽く顎を置いた。

 「来てくれたんだ」

 残された最後の全てを絞り出すようにサクラが言った。

 「サクラを迎えに来た」

 ぼくがそう言うと、肩を震わせてクスクスとサクラは笑った。ぼくの胸元で小さな桜の蕾が開いた気がした。

 ぼくは少しばかり待ち過ぎたのかもしれない。

 ―明日春が来たら君に会いに行こう

おしまい

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