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こんなもんでイングリッシュ①

#学問への愛を語ろう なんてタグを見つけたので、日本における語学の代表選手「英語」を例に、こんな感じで学んできたよ、という個人的な体験を書いてみたい。

 ぼくと英語との出会いは1990年、ぼくが小学6年生の時。この年にデビューしたアメリカの歌姫、マライア・キャリー(Mariah Carey)の最初のシングル曲、「Vision of Love」のMVを深夜番組で見かけたのがきっかけだった。

—この綺麗なお姉さんは、なんと歌っているのだろう

 このただひとつの疑問が、翌日、英語を学びたいということを両親に告げる大きな動機となった。ゲームソフトを買って欲しいというおねだりには渋い顔を見せる両親も、この要望には即座に応えてくれた。翌日には、近所の英会話教室の営業担当を自宅に招いて契約を済ませ、ぼくに英語を学ぶ環境を与えてくれた。

 思い返せば、帰国子女の日本人を教師に据えたこの英会話教室で学び始めることができたことが最大の幸運だったように思う。その英会話教室では、「こういうことを伝えたい場合には、英語ではこう表現します」という教え方が貫徹されていた。

 この教え方のどのあたりがそれほど幸運だったのかといえば、それは、”状況に応じた英語表現”という点が強調された指導だったことである。

 例えば、お馴染み Good Morning. という表現について。

 一般的な日本の学校ではおそらく、「日本語の『おはよう』は、英語では Good Morning.と言います」と教えられることが多いのではないかと思う。ところが、この教室では、「朝の挨拶は、英語では Good Morning.と言います」と教えられた。

 一見すると、”なんだ、同じことではないか”と思われる両指導内容ではあるけれど、実はそこには雲泥の差がある。ぼくはこの10年ほど、高校生/大学生に英語を教える仕事をしているけれど、この仕事をはじめて間もなく、前者の方法で教えられることの弊害が意外なほど大きいことに気づかされた。

 その弊害とはすなわち、「日本語と英語は、一対一の相互変換によって、その理解と表現が可能である」という思い込みを学習者の中に生み出してしまうことである。

 比較的よく知られていることであるとは思うが、Good Morning. は、"I wish you a good morning."が本来の英文であり、挨拶として表現が簡略化されて、「Good Morning.」の部分だけが残ったかたちである。意味は「あなたに素晴らしい朝が訪れますように」であり、そのどこにも「おはよう」に込められている「早い」感じがない。

 一方、日本語の「おはよう」については、歌舞伎の世界において、化粧や衣装の着付けなどに時間がかかる歌舞伎役者が、支度のために開演時間よりもだいぶ早くに控室にやって来た際、お付きの人たちが「お早いお着きですね」と言っていたものが変化したものだと言われている。

 つまり、"午前中に挨拶をする状況で発する言葉"、という意味においては両者は共通しているといえるのだが、それぞれの元々の意味は全くちがうのである。ところが、日本の多くの英語教育の現場では、「Good Morning. ⇔ おはよう」という相互変換が可能であると教えられてしまう。これが、大きな災いとなってくるのが高校以降で勉強する英語になる。

 ぼくはこれを"Good Morningの呪い"と呼んでいるけれど、英語を苦手とする学生の姿を眺めていると、この呪いに一度かかってしまうと、どうやらそこから抜け出すことはなかなか難しいようだ。"日本語のある表現には、一対一の関係で、それに対応する英語の表現が存在する"という思い込みが、いったいどれほどの英語学習者を苦しめているのだろうか。そのような認識が生まれた途端、英語は単なる丸暗記の対象に成り下がってしまうのではないだろうか。

 英語を学ぶ際に気をつけるべき点はたった1点しかない。それは、"どのような状況で用られている表現なのか"について注目して学習するだけだ。ここでいう"状況"というのは、単にその表現が行われる"場面"のみを指しているわけではなく、ある表現が前後にどのような表現を伴っているのかをも含んでいる。

 例えば、Googleといえば、日本人にとっては「グーグルという、アメリカの企業の名称及びそのサービス名」を意味する固有名詞に過ぎないが、"Google it."とitを伴うだけで、それは途端に「Googleで調べなさい」、つまり、ググれという意味に変わる。あるいは、Hanako(=花子)という人の名前についても同様で、Don't Hanako me.と用いられれば「私のことを花子って呼ばないで」という意味に変わる。

 このような点に注目して学ぶことさえできれば、英語に限らず、語学は驚きと楽しさの宝庫である。「へぇ、こんな使い方もできるのか!」とか、「なるほど、昔はこんな意味でも使われていたのか」といった新たな発見の連続に、学習者の好奇心は次々と刺激されることになるだろう。

 それより何より、言語とは、意思疎通のために人によって生み出された道具であり、人という生き物は、とてもいい加減な性格でめんどくさがりな動物である。やれ"省略"だ、"構文"だと教室で教えられる英語の表現についても、なぜそのようなものが生み出されたのかといえば、"めんどくさいから"である。言う/書くのがめんどくさいから省略する。表現を考えるのがめんどくさいから決まった形(=構文)にする。ただそれだけのことなのである。

 「こんなもんでいいのか」とぼくが気づくことができたのは、大学に入ってからのことだったけれど、これをもっと早い段階で気づくことができれば、中高での英語学習がさらに捗ったことだろうと思う。

 誤解を恐れず言うのであれば、"どうせ自分と同じ「人」の考えたことなのだから、このような理解であっているだろう"という考え方が通用する点が、人文系の学問の最大の特徴なのではないかと思う。今も昔も、あるいは洋の東西が変わったところで、考える内容にそう大きな違いが生まれるわけがない。楽しいことがあれば笑うし、悲しいことがあれば涙が出る、そして、めんどくさいことはできるだけやりたくない。楽したい。怠けたい。それが聖人君主を除く、大半の人の姿なのだ。

 今回は英語を例にしてみたけれど、少なくとも人文系の学問については、自分なりの"こんなもんでいいんじゃない?"という理解をつくったうえで、正しいとされる理解と比較してみる。もしもそこにズレがあったならば、なぜそのようなズレが生じてしまったのかについて考え、自分の考えを修正/補修していく。これを繰り返すだけで、楽しみながらいろいろなことが身についていくのではないかと思う。

 「こんな感じ」。この感覚を身につけた人のことを、世の中は「センスのある人」と呼んでいるのだと個人的には思っているけれど、このセンスについてはいくらでも磨きようがある。例えそれを生まれながらにして備えていなかったとしても、学びを続けていくことで、自分の「これでいいんじゃない?」が限りなく正解に近づいていく。

 決めごとがされているほうが学びやすいという考え方が世間には多数存在していることも経験の中で知ることになったけれど、やはり、能動的に取り組む方が何事もうまくいくものである。

 一人でも多くの人が、この感覚を覚えることができたなら、きっと日本の学びはもっと楽しいものになるんだろうな、なんてことを思った2022年10月の寒い午前中でした。

おしまい

#学問への愛を語ろう #英語がすき

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